相談
ぐるぐるぐるぐる…………―――
近くの公衆トイレまで走った。
頭がぐるぐるして、息が上がって、吐き気が襲ってきていたから。
「はあ、はあ……」
トイレについて、個室に入ると、吐き気が少し収まった。これなら、なんとか大丈夫そうだ。
……何やってるんだろうな、俺は……。
ダイニングテーブルに母さんが座っているところが目に入った瞬間に、あの日の、両親に呼び出された時の記憶がフラッシュバックした。父さんと母さんが席に座っていて、俺を見ているような気がした。
……怖かった。それからは、もう母さんたちが何を話していたのか覚えていない。頭がぐるぐるして、ご飯の味もわからなかった。
……実家を出てくるとき、電話するって言ったけれど……その電話すらかけられる気がしない。かけて、一体何を言えばいいんだろう。
トイレから出て、手を洗う。手は震えていて、夏だというのに信じられないほど冷たくなっていた。
鏡を見ると、髪が乱れて顔が真っ白な俺がいる。最近では自分でも見ることが少なくなっていた顔があった。目が合うと自分が自分のことを責めているような気がしてきて、すぐに目を逸らした。
……頑張ろうと思って出てきたのにな……。
今からでも、実家に戻ったほうが――
「っ!……う……」
頭を揺さぶられたかのような感覚が襲ってきて、足元がふらついてしまう。
……ダメだ。これは、ダメだ。もう……これは……帰るしかない、よな……。
また逃げるのかという声がどこからか聞こえてきたけれど、もう実家に戻ろうとは思えなかった。
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自分を責める声が頭にガンガンと響く中電車を乗り継いで、家の最寄り駅まで帰ってきた。
……こんな気分でここに帰ってくることになるとは思っていなかった。どこかでちゃんとできると思っていた。……本当に、何やってるんだろう。
気分は最悪だというのに、身体の調子は少しずつ良くなっていって、もう普段通りに体は動くし頭も働くようになってきた。そのことが更に気分を悪くしていく。
だらだらと歩いて、そのまま家を通り過ぎて、歩き続けた。このまま家に帰って、やることが何もない状態になるのが嫌だった。
しばらく歩いていると、急に無駄なことをしているなと頭に浮かんでくる。
はあ……。……帰るか。
引き返して、また少し歩いていると視線の先にいつもの喫茶店が目に入った。
……家に帰るよりは、いい、気がするな……。
そう思って、進路を変えて喫茶店へと向かう。
扉を開けると、中の冷気が噴き出してきて気持ちが良い。
中に入ると、誠さんがこちらを見る。
「いらっしゃいませ……おや?翔太君。今日はお休みじゃなかったかい?」
少し驚いた顔をして、誠さんはそう言ってくる。その声はどこか心配そうな声をしていた。
「あ……はい。今日は……コーヒーを飲みに来ました」
「そうかい。カウンターでいいかな?」
「……はい」
カウンターに座って、アイスコーヒーを頼む。いつもはホットコーヒーを飲むのだけど、外が暑かったせいで汗だくなので、アイスコーヒーにした。
アイスコーヒーを待っていると、ずっとざわざわしていた心が少しだけ落ち着いていく気がした。
……やっぱり、ここの雰囲気はいいな。
「はい、アイスコーヒーだよ」
「ありがとうございます」
渡されたアイスコーヒーを少し口に入れると、苦みが広がっていき、頭がすっきりするのを感じる。
……おいしいな。
『何か相談とかがあったら聞くよ。話せば楽になることもあるしね』
ふと、誠さんが言ってくれた言葉を思い出す。
相談、か……。……話せば、楽になるんだろうか……。……楽になって、いいのだろうか。
「翔太君、コーヒーはどうだい?今日はアイスコーヒーだけれど」
「あ、おいしいです」
「それならよかった」
そう言って誠さんは優しく笑う。今まで、大人に相談というものをしたことはほとんどない。……けど……。
「……少し、話したいことがあるんですけど、いいですか?」
「うん。勿論」
察していたかのように誠さんは作業をしていたテーブルを布巾で拭いて、椅子を出して俺の正面に座った。
慣れないことをするからか、少し緊張してしまう。
――すぅー、はぁー……
深呼吸をして、心を落ち着かせてから、声を出した。
「……俺、今日、実家の方に帰ってたんです」
「そう言えば、一人暮らしだったね」
「はい。それで……俺、家族と……あんまりうまくいってないんです。……中学の時にちょっとトラブルがあって……それから、ずっとすれ違ってたというか……。……一人暮らしをしているのも、家に居たくなかったからで……ずっと、逃げてたんですよね……。…………それで、今日、頑張って向き合おうと思って実家に行ったんです。ちゃんと話すべきことを話しに行こうと思ってたのに……結局、また逃げてきちゃったんです。それどころか……」
もう、あの家に踏み込める気がしない、と思ってしまった。
普段、逃げて、逃げ続けて、眼を背けてばかりで……今日だけは頑張らないといけなかったのに。
話していると、自分が情けなく感じて、涙がこぼれた。
「……すみません」
涙をぬぐいながらそう言うと、誠さんは心配そうにこちらを見ていた。
目を逸らして下を見ると、誠さんが一呼吸おいてから話し始める。
「……詳しいことを知らないから、あまり踏み込んだことは言えないけれど……逃げるというのは、そんなに悪いことではないと思うよ。……翔太君は、少し頑張りすぎなんじゃないかな」
言われたことのほとんどがピンと来なかった。
逃げるのは……確かに、逃げるが勝ちということもあるだろう。……でも、今日は逃げちゃいけない時だったと思う。
頑張るということについては……むしろ、足りてないんじゃないだろうか。最近で頑張ったことと言えば、試験と今日くらいだ。その今日の頑張りは……途中でやめてしまったわけだし。
「そんなこと……ないと思います」
そう答えると、誠さんは少し困った顔をする。
「……人間というのはどこかで休まないと、壊れてしまう。疲れ切った状態でも頑張っていられるほど、人間は丈夫にできてはいないよ。……翔太君は、頑張りすぎなんてことはないと思うのかもしれないけれど……僕には頑張りすぎて、疲れ切ってるように見える」
……疲れては、いる。確かに、今までにないくらいに疲れた。
「疲れたなら休まないと、人は壊れてしまう。そうならないために逃げることは決して悪いことじゃないよ。どうしようもない問題からは逃げてもいい。逃げたから見える物もあるし、逃げて、時間が解決してくれることもある。逃げて逃げて逃げ続けることが正解のことだってある。この店だって、僕が逃げた先に作ったものとも言えるしね」
疲れたら休まないと人は壊れる。その言葉にはどこか力が込められていた気がした。逃げてもいい、のだろうか。この問題は、どうしようもないのだろうか。
「とにかくね、少し休んだ方がいい。疲れた状態では、普段できることもできないからね」
そう言った後に「ちょっとごめんね」と言って、誠さんはお客さんの会計の方へと行ってしまった。
……誠さんが言っていたように、軽く話して、少し楽になった気がする。少し、休んだ方がいい、か。確かに、疲れた。何もできなかったけど、物凄く疲れた。……そうだな……。家に帰ったら、少し休もう。考えるのはその後で、いい、かな……。




