エピローグ 降り注ぐのは、時の雨。
これにて本当の完結です!
ほぼ一年近くかかった連載に
気長に着いて来て下さった読者様、
本当に本当にありがとうございました\(*>ω<*)ノ
甘い香りのする紅茶を飲みながらくつろぐ正午のサンルームには、僕と妻の二人しかいない。執務室の窮屈さがどうにも苦手で、若い頃に“職場の中にも心休まるような場所が欲しい”と思い立って造ってからもう数十年。
紅茶の湯気に曇った眼鏡を外せば「いつも紅茶を飲む前に外せばよろしいのに」と笑みを含んだ妻の声がする。その声に「それもそうなんだが、どうしても忘れてしまうんだ」と答えれば、ぼやけた視界の中で彼女がこちらに向かって手を伸ばすのが分かった。
ひやりとした掌が頬に触れて思わず肩が跳ねるのを見た彼女が「ごめんなさい、手袋を外していたのを忘れていたわ」と謝る声に被せるように「お互いに忘れっぽくなった」と笑えば、滲んだ視界に映る彼女も「そう言われればそうね」と笑う。
僕はそんな妻の手を取って自分の体温を分けるように両手で包み込む。すると彼女は「貴方の手は日だまりのようだわ」と優しく囁く。昔から変わらないその声が、僕は一等好きだった。
柔らかな日が差し込むサンルーフの中にある大きなシェビアの鉢植えが、元から宝玉のように美しいその葉に陽光が差し込むことで、魔力を得た水晶の如く輝きを増す。
深紅の丸い葉をしたフェイと、紺に近い青みを帯びた楕円形の葉を持つロン夫妻は、今もうちのポーションを作る上で最も貴重な戦力だ。四号店から二号店にまで登り詰めたコンラートの店にいるシュウも、まだまだ頑張っているのだから、植物とは面白い。
三株いるシェビアの中でも、フェイ達の子は弟子達の元へと子孫を増やし、今では結構な大家族になっている。そのせいと言うわけではないが、よその工房からは“【アイラト】の職人でシェビアの株を分けられた弟子達は腕利きだ”と言われているそうだ。
実際そうであるし、この街から他の街へと巣立っていった弟子達は大勢いる。子を残せない僕達夫婦にとって、それはとても誇らしいことだった。
目を細めて宝玉を戴く二株を眺めていたら、すっかり温もった手をした妻が「まあ、フェイ達ったらからかわないで頂戴」と朗らかに笑う声に耳を澄ませる。妻と長年の友人達の会話が僕の耳に届くことはないけれど、彼女の楽しげな声が会話の内容を物語るようだ。
けれど妻の温まった手を離してもう一方の手を包み込んだ時、不意に工房と繋がっている廊下から『お約束もなしに急に面会だなんて困ります!』という焦りを含んだ声が聞こえ、二人して顔を見合わせる。
「何だか廊下が騒がしいですね……?」
「そうだな。少し見てこようか」
妻の言葉に頷き返してテーブルの上に置いた眼鏡をかけ直す。そのまま椅子をひいて立ち上がる準備を整える。
歳のせいで数年前から関節痛に悩まされているが、弟子達がこぞって差し入れてくれる関節痛ポーションのどれかが効いているのか、歳の割には滑らかに動けている自負があった。しかし今日の来訪者は短気なのか、弟子を振り解いてこちらにやって来ているようだ。
椅子から立ち上がるのとほぼ同時に開かれたドアから現れた人物に、僕達は揃って「「ああ」」と納得の声を上げる。
それくらい小麦色の肌に、深緑の髪と金色の双眸を持つ青年は、そこだけがまるで時間を切り取ったように鮮明な印象を与えた。
「夫婦揃って何が“ああ”だ。気付いたならもっと早く迎えに出て来てくれれば良いだろう。お陰でこっちは不審者扱いだ」
不満気な声と不遜な態度を見るのは八年ぶりぐらいだろうか? 昔の妻と同じ色味の青年はツカツカとテーブルまでやって来ると、断りもなく空いている椅子に腰を下ろした。
「それはすまなかったな。だが、いつも訪問する際には事前に連絡を寄越すように言ってあるはずだぞ?」
僕と来訪者のやり取りを聞いた弟子が「す、すみません、先生、奥様。お止めしたのですがこの方が……」とオロオロとした表情で詫びてくれる。
「ああ、構いませんよ。この子は私の遠縁の子で、ご覧の通り癇癪持ちの聞かんぼうなの。貴方ももうここは良いから下がって頂戴」
彼女から苦笑混じりにそう告げられた弟子は一度“天地の礼”をとると、あからさまにホッとした表情を浮かべて退室した。遠ざかる足音が聞こえなくなったことを確認すると、次の瞬間「二人とも少し見ない間に随時皺だらけになったな」と身も蓋もない発言をするところが如何にも彼らしい。
「ふん、昼間から暢気に光合成か。人間といえども老ければ植物とやることは変わらんな」
「はは、そう言うな。コンラートには五人目の孫が産まれたんだから、僕達が老いるのも無理はないさ」
憎たらしいその物言いも、ふてくされたような表情も、今となっては孫のようで可愛らしい。パウラも同じ気持ちなのか「飲み物は私と同じ物で良いかしら?」と微笑んで液肥の入ったティーポットを傾ける。
「そう言えばマホロからの手紙で、近頃はこまめに顔を出して採取を良く手伝ってくれるとあったが、危ないことはしていないか? 片方は義手なのだから、油断は命取りだぞ」
「……あのお喋り蜥蜴女め……」
年に数回送られてくるマホロからの手紙は、かつての採取旅行を思い出させてくれる大切な物だ。それに歳を取らない性質上、放浪し続けるしかないフェデラーの貴重な近況を教えてくれる頼もしい友人でもある。
「まあフェデラー、そんな風に言うものではないわよ。確かにマホロは昔から随分破天荒なところがあるけれど」
そう言いながらも思い出し笑いを口許に浮かべたパウラが、楽しげに金色の双眸を細める。彼女愛用のポットから注がれる液肥は僕の口にしている紅茶と良く似た色味で、ここ最近の自信作だ。
フェデラーが義手を添えて来客用のティーカップを受け取ったことを確認したパウラが、いそいそと着席する。三人で囲むテーブルが巡る季節を、月日を感じさせ、旅の終着が近いことを物語るけれど。
「――さあ、フェデラー。今日はどんな話を聞かせてくれるんだ?」
夫婦そろって内心の高揚感を隠すこともせずに。八年分の冒険譚を聞こうと促す僕の言葉で、今回もフェデラーの採取旅行記が幕を開けた。




