9-3 君に見せたい夢があるんだ。(1)
冷え切った室内で身体を震わせながら、僕はアルミラの目の前でカップの中身を飲み干す。温まる代わりに舌先の痺れるような甘さが口内に広がり、僕は思わず眉根を寄せそうになった。
それを咳払い一つでごまかし何事もなかったように振る舞いながら、それでも何か勘ぐられたのではないかと心配になって視線をアルミラに向けるが、彼女は興味深そうに僕のノートに集中している。
その視線が再びこちらを向く前に、僕は彼の入った、見ようによっては試験管のような円筒形の水槽へと視線を移す。
勿論彼と僕の視線がかち合うようなことがないとは分かっていても、それでもどうしてもっと長く彼女の傍についていてやらなかったのだと、暢気に漂うだけの彼に恨み言の一つも言ってやりたくなる。
貴男さえいれば、彼女はここまで壊れなかった。
貴男とさえ出会わなければ、彼女はここまで狂わなかった。
けれどそれらは全て、我が身に返る言葉の礫。結局は彼があってこそのアルミラの出現と、アルミラの出現による僕の延命。どれかが一つでも欠ければこんな事態にはなりえなかった。この“罪”とも呼べない歪な円環から“僕達”はどう逃れれば良かったのだろうか。蝋のように白い顔をした彼女のマスターは、いつか僕が辿る道なんだろうか。
一瞬脳裏に出かけしなに見たパウラの笑顔がちらついた。あの笑顔を守る為に僕がすべきことは――。
視線を再びアルミラに戻せば、楽しげに唇の端を持ち上げたまま、かつては見せてくれなかったような寛いだ様子でその一行、その図の一つをつぶさに眺めては微笑んでくれる。
本当はあの頃の彼女に今のような表情をさせたかった。けれど結局幼すぎた僕には到底適わず、人間に近付きすぎた彼女には彼以外に心を移すことなど出来なかったに違いない。
「ふんふん……へえぇ? あぁ、なるほどね。なかなか良く調べてある。それにちゃんと資料としても纏まっているね。良く出来てるよチビ」
満足げにノートをめくるアルミラは、そう言ってチラリと僕に視線を寄越したものの、意識の半分以上は手許のノートに割いている様子で、それがかえって僕には誇らしかった。一頁ごとに凄まじい勢いで紙面に視線を走らせるアルミラの姿は、正しく僕の師であり、大勢のポーション職人を纏め上げる【アイラト】創設者の意志を継ぐ者の姿だ。
このまま何も知らせずに、最高責任者として偽りの命を全うさせることが出来ればどれだけ良いだろう。そう思う反面、このまま彼女がいつかこの過ちを繰り返すのではないかと危惧する自分がいるのも確かだ。
「ん、チビ。このポーションの精製方法は今では古臭いけれど、なかなか理にかなっていて面白いね。でもね、この方法だとまだ点数をあげられないんだ。ボクのマスターもこの方法を随分前に試したんだけど……ふふ、チビも一度やってみると良いよ」
そう笑うアルミラの無邪気さが辛くて、嬉しい。
彼女はまだどこかでかつての名残を生きて、その名残を知識として蓄えている。それは彼女から僕へと伝えられ、僕の中で生きていく。
「うん、さすがボクが後任に推そうと思っただけあるね。これなら年始に一号店を任せても不足はなさそうだ。よく学んで自分の知識として吸収できているよ。そうだ! いつかボクのマスターが目を覚ましたら、チビも一緒に採取に行くかい? ボクとマスターの庭は広いからチビのまだ知らない採取場所も沢山あるよ」
……そう出来たらどれだけ良いだろう。
アルミラの“神様”なら僕にとっては天上人だ。この時代ではないずっと昔、まだ精製の技術も器具も揃わなかった時代に、五号店に納められている莫大な精製方法を一人で考え出した稀代の天才ポーション職人。そんな人物に師事出来たならどれだけ良かったことだろう。
だけど、それは不可能で。
彼女はそれに気付かないほど愚かではない。
「もう、止めないかマスター・アルミラ。さっきからマスターが褒める頁は、僕の精製方法が少ないことに本当は気付いているんだろう?」
ある部分から徐々に頁の上を上滑りしだした視線、増える口数、人間のように動揺しだしたことで増える瞬き。
「いったい何のことだいチビ? 師であるボクをからかうだなんて、随分生意気になったものだね?」
口では何気なさを装いつつも、スッとこちらに向けられた金色の瞳が一瞬だけその光を強めた。それはかつて僕が見た寂しげで覇気のない瞳ではなく、パウラが向けてくれるような慈しみの瞳でもない。時折フェデラーの向けてくる嫉妬の混じった瞳にも近い気もするけれど、それとも違う。
――その瞳に宿る光はまだ明確さを持たない“殺意”の片鱗。
その視線が彼女が崩れかけた記憶のピースをはめ込んでいっていることを如実に語り、僕が作成したノートの後半部分にはデタラメなようでいて、どこか懐かしいと感じる精製方法が記載されていることへの怯えと揺らぎが見えた。
「……お願いだマスター・アルミラ。僕の神様。貴女がこのままここで同族を殺め続けて壊れていくことが、僕にはあまりに辛過ぎる」
寒さからではない震えが僕の内から湧き上がり、フェデラーが必死に守り続けた彼女に言葉の刃を突きつける。
「貴女のマスターであり【アイラト】創設者のハインリヒ・ウォーレン。彼は自らの死期を悟って最後に貴女に人間としての死を望んだんだ。共に生きて、共に終わりたかったから」
ノートの後半には僕が五号店に残された本の中から偶然発見した、乱雑な文字で書かれた走り書き。
始めは僕の前に五号店にいた熱心な誰かが、ノートに綴る間も惜しんで書いたんだと思っていたそれは、よくよく見れば法則性のような物がある。
不思議に思って繋げていくと、そこからは、数十人分にも及ぶ症状の違いに合わせたポーションの精製方法が浮かび上がった。そこには命が尽きる前に自分がこの先救い続けたいと願った、僕が顔も知れない人達を思いやる言葉と、個人個人の体調や体格に合わせた成分表が書き殴られて。彼女がいつまでも慕うマスターの面影を忍ばせた。
アルミラは彼が死んだ後に残された馴染み客達を治そうという責任感から、これを見たはずだ。確かにこれを見て、読んで、一度は彼の死を理解しようとしたはずなんだ。
なのに彼の救った馴染み客達は、アルミラの心に彼の死が浸透する前に諦めさせた。例えば《ご愁傷様》や《残念だったね》は、相手からすれば確かに寄り添おうとする言葉かもしれない。
けれど残された家族には時として耐え難い傷になることもある。大切な人を失った本人が立ち直る速度と、周囲が促す立ち直りの速度は違う。
結果として自分の中で歩みがずれたことに気付かないまま、アルミラは歩き続けた。最初に彼女がマスターと二人で目指した信念の行方が、もうどこにあるのかも分からないままに。出会った頃のフェデラーが人間を敵視していた理由が今なら分かる。
アルミラは人間に近付きすぎて、マンドラゴラとしての自分に執着しなくなったのだと思う。新しい病の症状を訴えられるたびに、すでに底を尽きてしまった自分のマスターの知識では対象出来なくなり、何度もフェデルにいた時のパウラのように、自身を傷付けて万病にすら効くとされる体液を差し出したのだろう。
「貴女のマスターはもう目覚めない」
「……違う、止めて」
「いいえ、止めません。それにその動揺の仕方だと、もう最後の頁を読んだのでしょう? 貴女のマスターは死んだ」
「ねぇ……止めてよチビ。止めようよ。どうして久し振りの再会なのに、そんな酷い意地悪を言うのさ?」
パタンと閉じられたノートを持つアルミラの手がワナワナと震えている。金色の双眸は虚ろに曇り、蝋のように白い肌と相まって人形のようだ。その姿に一瞬思わずこの先の言葉を飲み込みかけたけれど、僕はこの室内に立ち込める優しい夢の死臭を撒き散らす恩人に切り出した。
「こんな悪夢は、もう終わりにしようアルミラ。あの優しい死の揺りかごに貴女のマスターをこれ以上縛り付けては駄目だ。彼の最後の願いを聞き届けてあげられるのは貴女しかいない」
薄暗く凍えそうに寒い室内の空気を占めるのは、
“緊張”ではなく“恐怖”。
“恋慕”ではなく“狂気”。
最早錆びてしまった歯車が自分の役目を失い、壊れるところまで壊れてしまったのは明らかだった。このまま夢から彼女を目覚めさせずにしておけば、彼女はただただ繰り返すのだ。たった一人で、幾つもの朝と夜を。それではあまりに寂し過ぎる。
フェデラーが加わったことで一定のバランスを保ちはしたが、根幹は何も変わらない。根腐れすればどんな大樹も倒れてしまう。甘い記憶と辛い現実の板挟みに狂ったアルミラは、いつか僕を失うパウラだ。
立ち上がったアルミラの膝からノートが床の上に滑り落ちて、バサリと乾いた音を立てる。そんなことは気にも止めずにふらふらと近付いて来たアルミラの掌が、ゆっくりと僕の首に巻き付けられる。
僕は首に巻き付くその指先の痺れるような冷たさと、徐々にかけられる圧迫感に眉根を寄せた。だというのにどういう訳かそう強い殺意を感じることはなく、締め付けているはずのアルミラの方が、僕には余程苦しげに見える。今ここでこの手を振り払っても良かった。
ただこうすることでアルミラが救われるのなら、それで良いような気さえ僕の中のどこかにはあって。抵抗することなくその冷たい掌を受け入れた。
「ボクのマスターは――……ハインリヒは死んでない。ハインリヒは死んでない。ハインリヒは死んでない。ハインリヒは死んでない。ハインリヒは死んでない」
そう呪文のように呟き続けるアルミラの双眸がユルユルと揺れて、白い頬を水が伝った。
「ねぇ、お願いだよチビ。ハインリヒは死んでないって……ボクに向かってそう言って?」
縋るようなその声に、けれどそれだけは出来ずに僕は首を横に振る。
「それは出来ないよ……アルミラ。僕は貴女の悪夢を終わらせる為にここへ来たんだ。貴女のマスターであるハインリヒ・ウォーレンの意思を継いで、止まったままの時計を進めにね。そしてフェデラーの代わりに寂しいなら僕を連れて行くと良い。僕の初めての弟弟子を、もう自由にしてやってくれ」
『最近以前にも増して酷い目眩と頭痛を感じる。
済まない、アルミラ。
君を残して私はもうすぐ死ぬのだろう。
けれどどうか、私の残した作業を君に頼みたい。
そうしてそれが全て片付いたなら、最後にこのポーションを作ってくれ。
このポーションを飲めば、君は徐々に人間のように老いて萎れて行く。
本当なら一緒に老いて行きたかったが、私の時間がそれを許さなかった。
誰も疑うことなく歳を重ねて、いつか私と一緒の墓に埋葬されて欲しい。
君こそは、我が妻。
アルミラ・ウォーレン。
そして私、ハインリヒ・ウォーレンは……。
君を、この短い生涯の中で誰よりも愛する男だ。 』
――僕と似た冴えない彼は、見た目の割に思ったよりも情熱家で。
初めてその手紙を発見した時に、僕は何だか父親が母親に宛てた恋文を盗み見てしまった気分になって、思わず笑ってしまった。
「アルミラ、もし僕を殺した後にはあの水晶箱を開けて。中にハインリヒが貴女宛てに書き残した精製方法で出来るポーションの入った小瓶がある。元の精製法だと大分時間をかけて萎れる作りになっているけど、僕が作ったのはその数十倍の濃度だから。それを飲めば手紙の通りに貴女は老いて死ねる」
こんな時なのにそう伝える僕の口許には笑みすら浮かぶ。
今のフェデラーとパウラなら、僕達を失った後にも互いを支え合って生きていけるはずだ。同じ時間をかけて、同じように萎れる。それはそれでとても良いことのように思えた。
「そうしてアルミラは今度こそ夢を見るんだよ。幸せな幸せな、醒めない夢を」




