9-2 蜜と毒薬。
フェデラーに軽口を叩いて別れ、薄暗い螺旋階段を一段一段踏みしめながら最下層を目指す。さっきまでいた地下二階とは比べものにならない寒さに思わず襟元をかき合わせた。
階段はそう長いものではないので、すぐに縁に鋲の打たれた古めかしい扉に突き当たる。直ぐにも扉を開きたい気持ちを抑え込み、深呼吸と共に後ろに撫でつけておいた髪を崩して前に戻す。そうすることで少しでも、彼女の見知った当時の自分に近付けるように。
鉄製のノブを握り締めて、さて――……再会の言葉はどうしようか? そんなことを考えるが、すぐに馬鹿みたいだと自分で自分に苦笑してしまう。
――ただ、当時あのころのようにこう言えばいい。
「会いに来たよ、アルミラ!」
勢い良く扉を開けてそう言うと、靄のかかる記憶の中に残った……あの懐かしく甘い香りが僕を包み込んだ。ぼうっとなる甘い香りに気を取られていた僕は、次の瞬間物陰から飛び出してきたソレに気付かず、思い切り突き倒される。
「っ、うわっ!?」
突然の腰への強い衝撃にたたらを踏むこともままならず、無様に尻餅を付いた僕の足の間で、懐かしい面影の残る、それでいて面影とは似ても似つかない色彩になった彼女が――、
「やーっと会いに来たのか! この師匠不幸者め! まぁ良いや、久し振りだね、元気にしてたかいチ……ビ……?」
笑わなかった。
うん、まぁ、そうだろうなとは思う。僕の足の間にぺたりと座り込んだ姿の彼女の表情にあるのは“思っていたのと違う”という驚きと困惑。
「何もそこまで驚かなくても良いだろう? たった今そっちが自分で言ったんじゃないか。久し振りだから大きくなったんだよ、アルミラ。人間は成長というか、目に見えて老ける生き物なんだよ」
自分でもどんな表情をしてそう言っているのか分からない。けれどアルミラは困惑の中でも、今の僕に当時の面影を探して輪郭を指でなぞった。その冷たい指先を感じながら、僕もまた、アルミラを見つめる。
枯れ草色の肩までの髪に、蝋のように白い肌。例え彼女が人間であったとしても色素が抜けすぎている。身体から香るのもパウラ達マンドラゴラ特有の健康的な濃い緑と土の香りではなく、この室内と同じ、思考を妨げるような甘く退廃的な香りに包まれていた。
当時はまだうっすらとアルミラから香る程度だったこの香りは、いつしか使用するアルミラ自身を狂わせて行ったのだろう。
そして残酷なほど冷静な“ポーション職人”としての僕が、彼女にはもう欠片も癒やしの能力が残っていないと鑑定する。僕の記憶に辛うじて残る“マンドラゴラのアルミラ”の面影は、最早その金色の双眸だけだった。
「――……キミは、本当にボクのチビなの?」
キラキラと輝く金色の双眸が僕の瞳を注意深く覗き込む。
チラリと尻餅を付いたときに床に叩きつけられた水晶箱を視界の端に捉えるが、ヒビどころか傷一つない。ノートは叩きつけられた衝撃で頁が歪んでいるものの、甚大な被害はなさそうだ。
そのことに内心安堵して、僕はアルミラの双眸を真っ直ぐに見つめ返しながら「もう、そう言ってるじゃないか」と、年甲斐もなくあの頃のような子供っぽい返事をしてしまった。
「ふぅん? 確かにこのふてくされた表情には見覚えがあるよ。ちょっと見ない間に随分大きくなったね、チビ?」
無意識に眉間に寄せていたシワに指を突きつけるアルミラが、当時と変わらない微笑みを向けてくれる。うっかりそれだけでここに来た目的を果たした気分になってしまう。
心の中で“ちょっとじゃない”と叫びたい気分になるけれど、それを今のアルミラに説明するのは無意味だ。人間でいうところの“忘れ病”の状態の彼女には、哀しいかな、僕の伝えたい言葉の半分ほども伝わらないだろう。
「さぁ、そうと分かったら奥へおいで! ここは寒いだろう? ボクの一番弟子であるチビが久し振りに会いに来てくれたんだ。せっかくだからボクのマスターに会っていくと良いよ。きっとポーションのことで色々教えてくれるからね」
記憶の中よりもハキハキと楽しそうなアルミラを見ていると、もうこのままで良いのではないかと思う。欠落していた歯車を拾い上げて長く空回りしていた機構に戻しても、もう元のように噛み合って動くことはない。錆びてしまった歯車は、欠落した後も回り続けて磨耗した他の歯車と再び噛み合うことはないからだ。
なら、もういっそと思うのに――。
その一方でそれは違うと“チビ”が叫ぶ。
“大人”の僕をノミの心臓と罵り詰った。
目の前で立ち上がり無邪気に僕に手を差し伸べるアルミラは、記憶の中にある映像のどの時よりも輝いていて、その姿には当時の憂いの片鱗もない。
引っ張り上げてくれるその掌と同じくらいにこの部屋が冷えているのだとは言い出せずに、歯がカチカチとみっともなく鳴り出さないよう食いしばった口許を、無理やり笑みの形に持ち上げる。
嬉しそうに「こっちだよ!」と手を引くアルミラは、記憶の彼女よりやや幼い気配がした。多分だが、人間で言うところの退行現象だろうか?
どちらにしても少しだけその微笑ましさに頬を緩め、衝立のように行く手を阻む本の壁を縫うように奥へと進んだのだ――……が。
「ほらチビ、ボクのマスターにきちんと挨拶してよ? ボクの躾がなってないみたいで恥ずかしいじゃないか」
そう言って唇を尖らせるアルミラ。彼女は本当に――ただ僕が緊張から彼女のマスターに挨拶も出来ずに立ち尽くしていると思っているようだ。
勿論そんな訳はなく、僕は目の前の光景の異常性に膝が笑いそうになるのを堪えることに必死だっただけで、アルミラの心配するような感覚は持ち合わせていなかった。
「ふふ、それじゃあ今お茶を淹れてきてあげるから、その間にチビはちゃんとマスターに挨拶しておくんだよ? マスターも、ボクの弟子は人見知りだからあんまりからかわないであげてね」
そう言ってアルミラは半ば放心状態の僕と、彼女のマスターを残してさらに奥まった棚の陰へと引っ込んでしまう。そして例えどんなときであっても、師匠の命令は弟子にとって絶対のものだ。
僕は一般の人間的な嫌悪感と、ポーション職人としての罪悪感と狂気が複雑に混ざった探求心を持って、その透明な円筒形の水槽に浮かぶアルミラのマスターへと近付いた。
円筒形の水槽は極薄い紫色の液体で満たされており、中の“彼”はその液体に浸されているようだ。たぶんこの液体はアルミラが精製したポーションの一種で、高い防腐の効果があるのだろう。
“死者への冒涜だ”と、まともな人間なら誰もが口を揃えて言うであろうその光景に、僕はある種の哀しい美しさを見出してしまった。それがかつての恩人の手で生み出されたものだからか、誤った僕達の姿を正当化したいからかは残念ながら分からないが……。
僕は水槽に手をつき“彼”を観察する。すると途端に凍てつくような冷たさが指先から全身に広がった。一瞬怯んで離れかけた身体を叱咤して再び水槽に近付く。そのまま円筒形の水槽に繋がる装置とその配線にも注意深く視線を這わせる。
こうした高価そうな装置には明るくないが、パッと見たところ大体の配線はこの水槽の中の濾過と循環を行っているようだ。知らずトランク型の水晶箱のハンドルを握る手に力が籠もる。どこかに中のポーションを交換する為のスイッチや流入口がないかと探すけれど、それらしいものが見当たらない。
仕方なく中の“彼”をよくよく観察すれば着ている服は当時のものなのか、今の服の生地よりも少し織り目が粗い。男性的な無骨さのない、これといった特徴のなさには少なからず親近感を憶えた。
僕達よりも遥かに昔に道を違えてしまった“彼”自身は、こうなることを予想できていたのだろうか? そうしてその問は真っ直ぐ僕自身に跳ね返ってくる問でもあった。
蝋のように白い肌にはシワの一つもなくて、彼の亡くなった当時の若さを物語っている。いつだったかフェデラーの言っていたように、少し“彼”と僕は個体としての特徴が似通っていた。
黒い髪は液体に漂ってその癖の強さを感じさせるし、硬く閉ざしたままの瞼を開けばきっと同じ色の瞳が現れるのだろう。個々の顔のパーツをとってみてもどこにでもいそうな冴えない若者。厳密に言うと、アルミラが話すマスターとしての“彼”の姿を、僕が無意識下の内に模倣したのだから似ていて当然なのだ。
――幼かった当時の僕は、この水槽に漂う“彼”になりたかった。
あの頃は気付かなかったとはいえ、今なら分かる。僕は“彼”に成り代わって初恋の相手であるアルミラの傍にいたかったのだ。じっくり見ていたようで、どこかぼんやりとした部分もあったのだろう。背後から急に「ちゃんと挨拶が出来たみたいだね? 偉いぞチビ」と声をかけられて心臓が跳ね上がった。
「……そうやって驚かすのは止めてって言ってるだろう、アルミラ」
言いながら心臓を押さえて振り向いた僕に、あの頃よりも悪戯っぽい表情を浮かべたアルミラが立っていた。
「まぁまぁ、チビ。せっかく師匠がこうしてお茶を持ってきたんだから許してよ。ほらほら、少し散らかってるけどその辺に適当に座って」
全く悪びれた様子のないアルミラがそう言うので、近くにあった使い込まれた丸椅子の上から荷物を退かして腰を下ろす。
「ねぇ、その手に持ってるのは今日の評定会に持ってきたポーション?」
僕はアルミラから差し出されたお茶の入ったカップを受け取って、曖昧に「まぁね」と言葉を濁した。
「ふふふ……ねぇ、聞いたマスター? あのチビがボク相手に勿体ぶる日が来るなんて思ってもみなかったよ」
クスクスとおかしそうに笑うアルミラの金色の瞳が妖しく輝く。口を付けようとしたカップから立ち上るお茶の香りに、僕は彼女の無自覚な正気と狂気を垣間見る。
「このお茶はボクのお気に入りなんだ。昔はよく一緒に飲んだのにチビは忘れてしまったのかい?」
そう言ったアルミラは躊躇いなくカップに口を付けて、美味しそうにお茶を飲む。細い喉が上下するのを見つめていると、アルミラは視線で僕にも飲むように促してくる。
カップの中のお茶はやや濃い紅茶色。アルミラと室内の甘い香りに紛れてはいるけれど、カップの中から仄かに立ち上る香りもそれと同じ。
「……久し振りで、懐かしいな」
くるりとカップを回して一口含む。この舌先にトロリと残る蜂蜜や砂糖とは違う甘味はエンダムとデルゼアの混合だろうか。五号店に残されていた随分と古い本に載っていた、今となっては調合不可の特級危険ポーション。効能は“疲労の超回復”と“肉体超強化”。
反面、常習性の強いこのポーションを服用し続けた場合に出る副作用は慢性的な記憶障害、もしくは欠損だ。僕の記憶の中の彼女が朧気だった理由がはっきりしたことに少しだけ許された気分になる。
感想を期待している雰囲気を感じて「昔と変わらず美味しいよ」と答えれば、アルミラは笑みを深める。
「さぁ、それじゃあそろそろ観念してその荷物とノートを見せてみなよ。ボクが昔みたいに採点してあげるから」
何の疑いもなく無邪気に目の前に差し出されたアルミラの色素の抜けた掌へ、最後になるだろう褒め言葉欲しさに完成させた調合ノートを手渡す。
「お手柔らかにお願いするよ、マスター・アルミラ」
「ふふ、それは約束出来ないな」
一瞬だけ触れ合った互いに冷えた指先に、甘い記憶が哀しく巡る。




