8-4 重なる“過去”と“キミ”の声。
物置部屋から廊下に出た僕とパウラは、足音を立てないように靴を脱いで、取り敢えずは当初の予定通り目的の“ぼっち部屋”に向かうことにした。最悪当てが外れたら十の部屋を順に確認していけばいい。
それに一応部屋のドアにはイニシャル入りのプレートがかかっている。ここでの問題は割と良くイニシャル被りの人物がいたりすることだ。ただ大した策があるわけでもないので、ここは単純に部屋のドアを一つ部屋ずつノックして、中の住人のうちどちらかが外に様子を窺いに出てくるところを確認するという、地味な作業になるだろう。
何と言うことはない――……実質の無策だ。
しかしここまで来たからにはと、パウラと一緒に自分の黒歴史である“ぼっち部屋”を目指す以外にない。何によりも自分で言い出した手前、ここまで来て引き返すのは嫌だ。せめてフェデラーの無事を確認出来、尚かつフェデラーのマスターを一目見られたら良い、くらいの心持ちでいる。
ソロソロと歩く廊下に明かりはなく、窓から入る僅かばかりの月明かりを頼りに目当ての部屋へと向かう。目当ての部屋……もとい元・自室は普段は使われていない来客用の部屋の脇にある。
上の人間の目のあるところでは、無用な揉め事は起こさないだろうということらしかった。けれど当然のことながら結局、あまり使用されていない客室の存在など何の慰めにもならなかったのだ。
大きな姿見のある突き当たり。重厚な手前にある部屋のドアから少し離れた場所にある簡素なドア。そこが路上の孤児から引き立てられた、かつての僕の居場所だった。月明かりに淡く照らされた廊下をパウラの手を引いて進む。
深いダークブラウンのドアは、あの頃と少しも変わらず面白味のない姿で僕を出迎えた。鍍金の剥がれたドアノブに手をかけて、施錠されていても駄目もとばかりにクルリと回す。
しかし想像していたよりもずっとあっさりとノブが回り、鍵がかかっていないことを示した。一瞬呆気にとられてパウラと二人でその場に固まるけれど、もしかすると単に空き部屋になっているから施錠していないだけなのかも知れないと思い直し、パウラと目配せしあってソッとドアを引く。
古びたドアは微かに軋んだだけで、大した抵抗もなく開いた。細く開けたドアから中の様子を探る。すると、元々は物置だった狭い二間続きの室内は薄暗いかと思いきや、住人はまだ起きているのか奥の部屋が薄ぼんやりと明るい。
しかし僕とパウラで奥の様子を探りに入り込むのは、あまり良い選択とは言えないだろう。逡巡したものの僕はパウラに廊下で待つか、このドアの前から動かないでいるように選ばせることにした。
するとパウラは案の定と言うべきか、ここで待つという。本当なら最初の物置部屋に隠れさせていた方が良かったのだろうとは思うが、それはそれで心配だったので連れてきてしまったのは自分だ。
“奥を覗いて部屋が違っていたらすぐに戻るから、じっとしていて”とパウラの耳許に囁きかけると、パウラは控え目に頷いた。
僕は過去の記憶を頼りに、どの床板を踏めば音がするのかを思い出しながら姿勢を低くして部屋の奥へと向かう。視線を感じて後ろを振り返ると、僕と自分の靴を抱えたパウラが両手を胸の前で握り締めている。人間緊張している時というのは、自分よりもガチガチに緊張している他者を見た方が安心するものだというけれど……今の僕が正にそれだろう。
我知らず漏らした笑いがフッと周囲の空気を揺らすと、パウラが少し頬を膨らませたものだから、慌てて口許に浮かんだ笑みを消し去り、今度こそ振り返ることなく部屋の奥へと歩を進めた。
資料集などを雑多に詰め込んだ大きく古びた本棚の影から、息を詰めて明かりの漏れる方へと視線を向けると、そこには最近では見知ったフェデラーの背中があったのだけれど――。
「出来たぞマスター。どうだ? 髪がひきつれたりしていないか?」
義手の指先に結び付けていたリボンの片側を解いて優しくそう問う声音は、まるで初めて聞くものだったので一瞬フェデラーであるという自信が揺らいだ。
「うんうん、やっぱりフェデラーはボクの髪を結わえるのが上手だね。どこもひきつれていないし、とても綺麗に纏められているよ。こんなことなら腕を残しておいてあげたら良かったかな?」
それに会話内容から察するにフェデラーの身体に隠れて見えないが、前に座っているのは彼の残忍なマスターのようだが…… そのあまりに和やかでどこか甘さを含んだ雰囲気と、チグハグな恐ろしい内容の会話に背筋が粟立つ。
寮生のほぼ全員が男子だということを加味したとして、澄んだ中に若干のハスキーさが混ざった声の主は女性のようだ。しかも疑問点は――……それだけじゃない。
暗く濁った闇の中でマッチをすった時のように、一気に仄暗かった記憶に明かりが灯った気がした。僕は自分の心臓が早鐘のように打つのを感じながら、まさか万が一にもそんなはずはないと、今にも懐かしさからこの影を飛び出して確認したい衝動に駆られる自分を必死に抑える。
どうかフェデラーにあんな惨い行いをした人物が、僕の記憶の中でも最も大切である“あの女性”と別人であってくれ、と。そう思った僕の内情を掻き乱すように、相手は無情にも言葉を続けた。
「それで、ねぇ、フェデラー。ボクの可愛いチビ……じゃないや、ヘルムートは元気だったの?」
“彼女”にもらった自分を指す“一人称”。
“彼女”にもらった自分を表す為の“名前”。
「あぁ、勿論だマスター。おまけに悔しいことにマスターの言っていた通りとても有能だった」
その少し低くなったフェデラーの声に気付いた様子もなく、彼のマスターはあの頃と変わらず歌うように言った。
「そうでしょう? まだ“十歳”なのにすごく飲み込みが早いんだから!」
僕は思わず物陰から飛び出してその名を叫びそうになる。
――【アルミラ】――。
震える手で握り締めた懐中時計はヒヤリと冷たく、硬く。
「あの分なら今にきっと、ボクの“マスター”みたいに沢山のニンゲンを助けられる子になるよ」
どこか恍惚とした声音の彼女の言葉を聞きながら、僕はいつかの映像を思い出していた。
『ねぇ、いつか……ここでボクがキミを助けたように、ボクのマスターがボクを助けてくれたように。キミも誰かを助けられるヒトになるんだよ?』
そう言って頭を撫でてくれた彼女の掌が冷たくて、幼かった僕は内心驚いたけど――。
『……約束だからね?』
あの金色の瞳に覗き込まれたら、ただただ、頷くことしか出来なくて。幼い日に出逢った僕の初恋の女性は、あの時から密やかに狂っていたのだろうか。
『ふふ……良い子だ、ボクの、』
薄いヴェールに覆われていた優しい記憶の隙間から、黒に近い深緑色の髪を肩口で切りそろえた彼女の表情が現れる。
『ボクの、小さな見習いさん?』
泣き笑いのような表情で僕を覗き込んだ彼女に、言いようもなく胸が締め付けられた。クスクスと楽しげに笑う彼女の名は【アルミラ】。そしてそれは……僕の初めて目にした、優しく、哀しいマンドラゴラの名でもある。
***
「“はい、確かにこれで前回のツケと合わせて代金ぴったりですね。ありがとうございました。またのご来店を――って、あんまり来店されない方が良いのでしょうけれどね”」
店と工房のドア越しに接客中のパウラの、柔らかく愛想の良い声が聞こえてくる。その声に耳を澄ませながら、次に使用する薬草束を解して乳鉢に放り込む。
――……あの夜から四日が経った。
パウラを連れて店まで帰ったはずの記憶は朧気で、この四日間の記憶も怪しい。今になっても夢だったのではないかと思う。彼女もあの夜から何かしら僕の様子がおかしいことに気付いてはいるだろうに、何も訊ねてこない。情けない僕はそんなパウラの優しさを良いことに、自分の記憶と向き合うことを恐れている。
けれど、このままではいけない、とも思う。フェデラーとも四日前に別れて以来正面から顔を合わせていないし、あの声の持ち主が本当にアルミラであったのかも分からない。何よりフェデラーの腕を切り落としたのが仮に彼女だとしても、何故そんな凶行に及んだのかも分からない。
分からないことをそのまま放置するのは職人の心得に反する。どんな事柄でも大抵、分かれば打てる手は増えるのだ。ならば分かろうとする努力をしなければ。
“ノミの心臓のヘルムート”。
全くぴったりの名前を付けてくれたものだと乾いた笑いが込み上げた。
しかしそれでも僕はあの頃とは違う。今の僕は歴とした【アイラト】五号店の店長で、気の合う友人も、頼れる同僚もいる。
だから……この不名誉な渾名を諦めの隠れ蓑にするのも止めて、そろそろ返上しなければならないだろう。
手許の乳鉢にさらにシェビアのフェイからもらった葉を一枚、加工したユパの実、そして【ヒューロラ】の葉を地中に埋めて、微生物に葉脈だけになるまで分解させた葉で濾した井戸水を少しずつ加え、粘り気が出るまで混ぜていく。
それをバッドに移して冷ますのだが、個人的にこの試作品は上手く行けば次の中間評定で良い結果を残せそうだと睨んでいる。バッドに触れた縁から冷めて鮮やかな橙色から、少し透き通った杏色に変わっていく。完璧に冷めたらこれを切り分けて、当工房の特許取得商品である“星明糖”へと整形する予定だ。
【ヒューロラ】の葉は大きなハート型をしていて、効能も心臓の疾患に良いとされていることから“心臓草”とも呼ばれる。
この葉は複雑に張り巡らされたレース状の葉脈に、毒性のある異物を吸着させる能力が備わっているので、ロート代わりに使用すると同時に優秀な濾過装置になる為にポーション職人に大人気だ。
しかし採取場所が大変危険で大変貴重なこともあり、あまり市場に出回らない。そんな物が自分の手許にあるというのは実に嬉しいものだと、この街からずっと遠い地から届けられた小包とボロボロの手紙を横目に笑う。
手紙には、久し振りに目にした送り主パーティーの連名がある。
“先日、ついに白銀の腕輪に昇格したぞ! これも君達のお陰だ!”
そう、だいぶ興奮して書いたのか、ペン先が紙を突き破ってインクの文字が滲んでいる手紙を見たとき、僕達まで興奮で震えた。この仕事を続ける職人としての、ある種の頂点を見た気分にもなった。
けれどまだだ。アルミラとの約束――……彼女の望んだ僕まではまだ遠い。
ユルユルと湯気を上げる星明糖になる途中のバッドを覗き込みながら考え込む僕の元へ「マスター、私の方はお店の戸締まりと、休業の札を出しておいたので準備完了です!」と、満面の笑みを浮かべたパウラが店のドアから姿を表した。
「あぁ、ご苦労様パウラ。それじゃあ僕の方もこのバッドの中身が冷めたら直ぐに整形するから。それが済んだら今年も秋の大採取に出かけようか?」
「はい、マスター! 今年は何が採れるか楽しみですね?」
そう嬉しそうに金色の瞳を細めて僕を見つめるパウラの瞳を、僕も笑って見つめ返す。パウラを初めて目にしたあの日から、僕の世界が変わったのではなく。パウラと出逢ったことで、僕はこちら側の世界に帰ってきたのだろう。
「……パウラと採取に行くのなら、何が採れたって楽しいさ」
だけど、出来ればどうか。僕の言葉に金色の瞳が零れそうなほど目を見張る彼女パウラが泣くことなどないように。そう祈る僕の胸元で、懐中時計が“カチリ”と遅れた時を刻んだ。




