8-1 ただいま、の、その前に。
ガタン、と一際大きく揺れたのを最後に馬車が停止する。まだ眠りの中にいる乗客もいる中、すでに下車の準備を整えだした商人などに混ざって僕も下車の支度を整えた。
今月分の中間評定に出すポーションはすでにコンラートに提出を頼んであるし、工房のシェビアのフェイ達の手入れも、この先三ヶ月分の特製肥料を分けるとの契約を交わしてあるので心配ない。
なので僕は久々に降り立ったウォークウッドにさしたる用事もなかった。一旦下車したらすぐにフェデル行きの馬車に乗るつもりだ。出来ればすぐに乗りたいものだが、まずは運行状況の確認をしなければならない。
しかしそう考えながら降り立った停車場で僕が見たものは――。
「てめぇ、やっと戻って来やがったかヘルムート!!」
白い布地に一見チラリと見る分には歓迎用のペナントのように掲げられたそれに、デカデカと“五号店の馬鹿野郎、出て来い!!”と暴言を書き殴って仁王立ちする、コンラートの姿だった。
久々の帰還の歓迎にしてはあまりにも嬉しくない文面に致し方なく歩み寄れば、彼は手にした布地をくしゃりと乱暴に丸めて小脇に抱えたまま、荒々しい足取りで近付いて来る。
「え……何でこんなところにいるんだコンラート?」
こんな時間と言うほどは早くないどころかまだ昼になったばかりだが、それにしたって外の街に出ることがほとんどないポーション職人が、乗合馬車の停留場にいるのは珍しい。
「あぁ……と、ここにいるからには外に出るような用事があるのか? それとも僕をわざわざ待っていたようだから何かフェデルで買ってきて欲しいものでも――」
“あるのか?”と訊ねようとしたら、急にコンラートに胸座を掴まれた。不躾な歓迎に眉をひそめる僕に、コンラートはお構いなしにその凶悪な顔を近付けてきたかと思うと「はーぁ、この馬鹿野郎、無事だったんだな」と。
そんな風に大袈裟に溜息を吐いて無事を喜んでくれるのはありがたいのだが――傍目からは借金を踏み倒して逃げた男が、借金取りに見つかって今まさにクビり殺されるところに見えるだろう。
「何の心配をしてくれていたのか知らないがコンラート、悪いが目立つから離してくれ。あと、君がそこまで慌てるほどの何があったのかの説明を手短に頼む」
胸座を掴む手の甲をバシバシ叩いてギブアップを表明しつつ「おぉ、悪ぃな」とあっさり手を離したコンラートに苦笑を返す。
「いや、お前が出かける間のことは任されてやるっつったけどよ、そういやいつまでの期限とか全く聞かされてなかったじゃねぇか。だからあんま帰りが遅いから、うちの工房じゃ『また五号店の店長が失踪した』ってちょっとした騒ぎになってんだよ」
コンラートにそう言われてようやく納得する。五号店は昔から店長が失踪する事件が稀に起こる、いわばそういう良くないことが起こる店舗として工房内でちょっとした事故物件扱いされている店舗なのだ。
まぁ、ほぼ収入がないに等しい店舗経営に嫌気がさして逃げ出した、という情けない実情が一般的解釈なのだけれど。僕もほんの一年と少し前まではそうだったので何ともいえない気持ちになる。
「つまりコンラートは僕が何らかの原因でパウラを連れて、逃避行か心中でもしようとしたんじゃないかと……そう心配してくれたのか?」
コンラートに似付かわしくない、乙女のような発想に噴き出しそうになりながら訊ねれば「安心しろ。オレの発想じゃねぇよ。ロミーのやつが最近色気付いて女がよく読む恋愛小説に夢中になってだなぁ……」と、見る見るうちに渋面になった。
ガリガリと乱暴に短い金髪を掻きむしるコンラートに「あんまり掻きむしると禿げるぞ?」と言えば、ピタリとその手が止まる。が、代わりにその手で頭をはたかれた。親切心で注意などしてやるべきではなかったか。
「それに……何つっても、フェデラーの奴のことだってあるからな。オレだけじゃなくてロミーも、ヴェスパーマンも、シェルマンさんも心――いや、気にしてたんだよ。なのにお前ぇは連絡の一つも寄越さねぇし。余所に行くならまずここで下車するだろうから、ここ最近ずっと張ってて正解だったぜ」
「……そうか。心配してくれてありがとう、コンラート。僕はもう発たなければならないから、代わりに皆にもそう伝えておいてくれ」
「――帰ってくるんだろうな?」
「勿論だ。僕の工房はこのウォークウッドにある【アイラト】の五号店だからな」
「おーおー、随分大きく出たなぁ? 正確にはここ一年でようやく店舗としての売上が出てきた、だろ?」
コンラートの発した無礼な冗談のお陰で、一瞬にしてしんみりとした空気が一変する。苦笑しながらコンラートを小突けば「本当のことじゃねぇか」とやり返された。
そうこうするうちに、僕が降りた馬車の後ろからフェデル行きの馬車が乗り入れてくる。
「じゃあ、もう行かないと。次の居場所はフェデルだ。向こうからまたこちらに戻る時には、今度こそちゃんと手紙で報せる。それまでうちの工房のシェビアをよろしく頼む」
今回はパウラ達を迎えに行くだけなので短い別れなのだが、何となく親愛の情を見せようかと握手のために手を差し出す。しかしコンラートはズボンのポケットに手を入れたままこちらに差し出す素振りもない。その代わりに何やらゴソゴソとポケットの中をひっかき回している。
「ふん、オレは野郎に差し出す手は持ってねぇんだよ馬鹿め――と。ああ、あったあった。ほらよ」
何かを握り込んだ手が、握手のために開かれていた僕の手にそれを握らせた。まさかこの期に及んで蛇の抜け殻の一部だったりしないだろうな……?
ニヤリとするコンラートから掌に視線を戻して、感じる異物感を確認するために指を開くと、そこには真っ赤な丸葉と真っ青な楕円の葉が三枚ずつ握らされていた。
「アイツ等も、お前がずっと工房に戻らないのを気にしてるんじゃねぇかと思ったから、勝手に採って来ちまった。悪ぃな。それに出先で何か怪我してもそんだけ上質なシェビアが二種類あればなんとかなんだろ?」
薄々と僕が危ない橋を渡っていることを察しつつ、止めないで見守ってくれるコンラートに苦笑を返す。
「コンラート……頼むから僕が戻るまでに、その面倒見の良さで勘違いした女性に刺されてくれるなよ?」
そう慣れない冗談を口にしてサッと身を翻し、フェデル行きの馬車に走る。その背中に「言ってろバーカ!」と笑い混じりにコンラートが叫ぶのを聞きながら、手の中にある葉を握り潰さないように転がす。
運行時間にズレが生じているのか、焦った様子のフェデル行きの馬車を操る御者が馬に鞭を入れて、ゆっくりと馬車が動き出した。
慌てて下車した客達をかき分けてその荷台に手をかければ、中から数人の乗客が引き上げてくれる。
息を整えながらもう一度停留場を振り返れば、コンラートがあの喧嘩腰のペナントのような布を広げている姿が人々の間から見え隠れしていて――。
僕は馬車が街角を曲がってその姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
そうしてすっかり姿が見えなくなったころ馬車の床に腰を下ろした僕は、次にパウラとフェデラーの三人で戻ったらコンラートを呼んで、二人の正体を明らかにしてしまっても良いのではないだろうかと考える。
心配してくれる心強い同僚に……親友になら、もしかすれば。それに何よりコンラートは以前パウラに命を救われたことがある。
見た目を裏切って腕の良いポーション職人であるコンラートは、あの時自分の傷を見て死を覚悟していた。その傷が跡を残しこそすれ、塞がって命を拾ったことを随分不思議がっていたのだ。
いつかいつもの軽いノリで《実は彼女達はマンドラゴラなんだ》と言ったところで、コンラートならば《うぉ……マジかよ。すっげぇな!》くらいで済ませてしまうかもしれない。
そんなことをチラリと思ってほんの少しの期待と共にに零れた微笑みは、しかし――目的地のフェデルで粉々に打ち砕かれることとなる。
***
「これは……どういうことです、ミス・ヘンリエッタ」
パウラ達の身柄を預けたミセス・オリヴィエの工房で二週間ぶりに出迎えてくれたパウラの姿を一目見て、僕は胸の内に初めてジジと出会った日の天気のような凍てつく怒りを覚えた。いま目の前では黙ったままのヘンリエッタと、オロオロと僕と彼女を交互に見つめるパウラ、そして二週間前より少しだけ少年ぽく形を変えたフェデラーがいる。
「僕は、貴女に、彼女を“材料”として“提供”した憶えはない。預かってくれる代わりに後日貴女の師であるリヴィーと僕とで報酬の内容を何にするかを決めよう……と。記憶違いでなければ、僕は確かにそう言ったはずだ。それとも違うというのなら、何か異論が?」
一語、一語をしっかりと区切って聞き取りやすくそう訊ねれば、ヘンリエッタは地味な灰色の作業用スカートを握りしめて俯いた。震える指先は力を込め過ぎたせいで蝋のように白くなり、前回会った時よりも一回り小さくなったのか、服の肩が落ちて袖先が余っている。
「――いつまでも黙りでは困る。それとも僕は勘違いをしていて、この指示を出したのがレヴィーだと言うのであれば、そちらに話をつけるが?」
自分でも意外なほど感情を削いだ平坦な声音だと思う。ただ、その中に不思議とマホロから貰った物騒極まりない魔道具となってしまった懐中時計に込められるような殺意はない。
「待って下さい、どうかそれだけは!! 先生は最近昼間でもほとんど眠っている状態なんです! だから、無理に起こさないで……」
それはヘンリエッタにしてみれば何よりも大切な存在であるリヴィーの死期が違いなどということは、とても許容出来ないことであったはずだと理解出来る部分もあるからだ。
けれど――。
「駄目だ。今回の件は了承もなくなされた、いわばうちの従業員に対しての恐喝と暴行に等しい。それはこの店の店主である彼女の耳に入れるべき事案だ」
それとこれとは、話が別だ。僕はやはりそれなり以上にヘンリエッタに腹が立っているらしい。
「マスター……あの、」
「パウラは黙っていてくれないか? 君にも後で言いたいことが山ほどある。自己犠牲と短慮の違いについてね。あぁ……でもその前にその傷の手当てをしないと駄目だな」
驚いたことにヘンリエッタを庇おうと口を開いたパウラをキツイ口調で制してから、ふとのろのろとそちらを向いてその左腕一杯に切りつけた痛々しい傷を見た。
「そのままだと、歪に傷口が塞がってパウラの綺麗な肌に跡が残ってしまうから……盛り上がった部分を削り落として形を整えないと。それにフェデラーの腕も少し伸びたようだし、傷口の状態を見て今後の治療方法を検討してみないとな?」
僕としては優しく声をかけたつもりだったのに、フェデラーは眉根を寄せてなくした腕を庇う。――失礼だな。
しかしおかしなことに、この場で一致した見解としては僕が異常であるかのような扱いである。三人とも怯えた様子で視線を交わし合い、僕を見つめて息を飲む。
「取り敢えず僕はレヴィーの部屋に通させてもら――、」
“おうか”と続けようとしたその時……。
「あらあら、ヘルムート坊や。貴方みたいなわかーい紳士が、既婚女性の寝室に本人の意志を確認しないで踏み込もうとするなんて感心しないわぁ」
急にこの緊迫した空気を打ち破るのんびりとした口調に、僕を含めた四人分の視線が一斉に工房の入口に向かう。
「うちのお馬鹿さんを叱らないで……とは言わないけれど、それは師であるわたしの仕事なのよぉ?」
少女のような軽やかな声を車椅子の上からこちらに向けるレヴィーは、もう風の精霊の一員であるかのように儚い死の影を纏わりつかせて薄く、淡く微笑んで言う。
「年に数回あるかないかの威厳を見せるチャンスなんだから。ね、そうでしょうヘンリエッタ?」
どこまでも優しく抑揚を付けて小首を傾げる様に、名を呼ばれたヘンリエッタだけが肩を強ばらせた。




