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夏の嵐  作者: 萩尾雅縁
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 あのテラスでの危険な火遊びを理由に、兄は友人たちを出入り禁止にし、ついでにすべての客人にご退出を願った。

 長期の滞在に満足していたロバートの祖母は、もう充分だと思ったのだろう。ロバートとルーシーは残念がっていたが、内心ロンドンに戻るのを喜んでいたんじゃないのかな。僕が一緒に遊ばなくなって退屈そうだったしね。ネルはとくに何も言わなかった。エリック卿は、そろそろ妻の実家に顔を出さなければ、子どもに顔を忘れられてしまうしね、と苦笑いしていた。それでもまだ、どこか心配そうに兄を眺めていたけれどね。




 僕の夏は終わりを告げた。そう、思っていた――。



 半年後、兄はネルと結婚した。

 そして次の夏が来る前に、兄は父親になった。

 産まれて来たのは、僕の子どもだ。

 兄は僕に代わって、当主としての責任を果たしたのだ。


 僕は身内だけの結婚式での、兄のあの冷ややかな横顔を一生忘れることができないだろう。

 兄は、花嫁に誓いのキスをすることすら拒んだのだ。


 けれど兄は、一言も僕を責めることをしなかった。

 





「ジオ、お帰り!」

 パブリックスクールを終了し、大学進学が決まった僕は、二年ぶりにマーシュコートに帰ってきた。Aレベル受験を理由に、僕は休暇中ロンドンの私塾に参加し、クリスマスも、夏期休暇もここには戻らなかったのだ。

 そんな薄情な僕を、いつもと変わらない兄の朗らかな声が迎えてくれる。


「ほら、もう歩けるんだよ。可愛いだろう! この子はすごく頭がいいうえに、運動神経もいいんだよ!」

 兄の足下にまとわりつく小さな赤ん坊が、じっと僕の顔を見つめる。朝日を浴びる雲のようなふわふわの金の巻き毛の下の、朝焼けの空に似たセレストブルーのつぶらな瞳で。


 複雑な思いで立ち尽くす僕の肩に、兄の手がそっとのせられる。

「ジオ、僕は彼女に感謝しているんだよ。僕にこんな可愛い子どもをくれた。ソールスベリーの血を繋いでくれたのだもの」


 恋をするにはあまりにも幼くて、愚かだった僕と彼女。

 そんな僕の不始末さえ、許し、受け入れ、愛してくれるほど、兄の愛は深くて広い。

 けれど、その愛は同じ血を継ぐ者にしか向けられることはなくて――。

 子どもの母親だからといって、彼女を許し受け入れるほど、甘いものでもなかった。


 彼女がここを訪れることは、二度とない。

 兄が、彼女に会うことも。

 いつか、彼女が婚姻の解消を申し出るまで。或いは、死が二人を分かつまで。


「ジオ、キッチンガーデンに出るまでに、広い空き地があるだろう? あそこにネモフィラを植えようと思うんだ。この子の瞳のような綺麗な青紫の花が咲くんだよ。一面花畑にして、春にはそこでピクニックをしよう。どうだい、いいアイデアだと思わないかい?」



 僕はネルに騙されたの?

 それとも本当にこれは、不幸な過ちだったの?

 

 僕はここに来るまでの長い間、ずっと抱えていた疑問を口にするのを止めにした。

 そんなこと、どうだっていいって解ったから――。

 

 ネルは兄の名を手に入れ、代わりに、その愛を得る機会を永遠に失ってしまったのだ。


 そして兄は――、行き場のない愛をもてあましていた兄は、心の底から熱望していたもの、自分の跡取りを手に入れた。兄自らその手を伸ばすことをやめてしまった、伴侶と築く幸福な家庭の代わりに。


 だからもう、兄に、僕は必要ない。

 僕は、僕の犯した罪の代償に兄の愛を失った。そしてやっと、兄の呪縛から解放されたのだ。



 じゃれつき甘える息子から、兄は一、二歩下がって優しく両手を差し伸べた。

「おいで、ヘンリー」

 きゃっきゃ、と笑い、よたよたと追いかける赤ん坊を、焦らすようにまた後退る。

 バランスを失いトテッ、と転んだ赤ん坊を慌てて抱きあげ、愛おしそうに頬ずりする兄。

「強い子だね、ヘンリー! お前はきっと負けず嫌いだね。ねぇ、ジオ?」


 ネルと同じセレストブルーが兄を見つめる。兄はその瞳にキスを落とす。この世の何よりも大切そうに。心から嬉しそうに微笑んで――。



 僕はそんな二人から目を逸らし、ガラス戸を開けテラスに出た。


 鮮やかな緑が広がり、満開の薔薇が咲き誇る。なにも変わることのないこの場所は、あの日々と同じ、初夏の風と溶けあう薔薇の芳香に包まれていた。


                    

                   了



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