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夏の嵐  作者: 萩尾雅縁
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 窓から差しこむ夕映で金色に染まる簡素な部屋。その板張りの床にぺたりと座りこんでいるネルを見つけ、その美しさに息を呑んだ。

 ドアの軋む音にびくりと肩を震わせる彼女。波打つ黄金の髪がきらきらと輝き、白いドレスも夕映に染まる。防寒用の茶色い毛布を膝にかけ、両手で握りしめている。

 光のベールをまとったネルは僕の姿を見てもとくに驚いた様子もなく、まるで絵のような神々しい様相とは裏腹の、蒼白な面で僕を見上げた。


「私、隠れているの。だって、みんな煩いんだもの」

 濃い紅の唇にいつもの鮮やかさがない。寒さでかすかに震えている。その白い肌の輝きに反して、剥きだしの腕は冷たく強ばっているように見える。

「寒いのでしょう? 館に戻りましょう。送っていきますから」

 ネルは小さく頭を振る。

「いいの。ここにいたいの」


 どうしようかと迷ったあげく、僕は暖炉の前に膝をついて薪をくべ始めた。夏とはいえ、暮れどきの川辺の空気は冷たい。夜釣りにボート小屋の暖炉は必需品だ。薪は常に置いてある。


 太い薪で枠を組み、新聞紙を丸めて詰める。その上に小枝を敷き詰め、もう一度太い薪を載せる。点火。

 すぐに燃えあがり広がった炎に、僕の口からは安堵の吐息が漏れる。


 パチパチと木の爆ぜる音、ゆらゆらと揺れる炎に、ネルはびっくり眼で僕を見た。

「あなた、意外に器用なのね」


 意外って――。僕は苦笑して、もっと火の傍に寄るようにネルを誘った。



 なにか身体が温まるものはないかな……。


 辺りを見廻してみる。だらしない兄のことだから、なにか残していないかな、とそんなことを考えながらテーブルに歩み寄る。


 ほら、あった。


 テーブルに置き忘れられていたバスケットの影に、ウイスキーの瓶とグラス見つけて、ネルに差しだした。


「少し飲みますか? 温まりますよ」


 グラスを渡そうと身を屈めたとき、ふわりと兄の香りがした。イングリッシュ・ファーンだ――。森と土を想わせる香り。兄のいつもつけている香水に間違いない。

 僕はグラスを落としそうになり、慌ててネルの隣に膝をついた。兄の香りが強くなる。


 ああ、この毛布……。


 昨夜、兄がここに泊まったことを思いだし、僕はふっとネルを見つめた。ついさっきまでネルを包んでいた日の輝きは闇に変わり、今は大きく揺れる不規則な炎がその横顔を照らしている。兄の残り香を握りしめたまま、ネルはおもむろに僕を見つめ返した。


「いくら待っても、兄はここへは来ませんよ」


 とうとう僕は言ってしまった。

 ネルは表情を変えないまま僕の頬に掌を当てた。しっとりとして、温かな手。それは不思議な感触だった。僕は今まで、彼女に体温を感じたことなんてなかったから――。


「あなたのその、鸚鵡(おうむ)色の瞳が好きよ」

 ゆっくりと頬から首筋へ指先が滑る。細い感触が髪の間に差し込まれる。もう一方の手で優しく僕の髪を梳いている。ネルの顔が近づいて、僕の瞼に接吻を落とした。もう一方の瞼にも。額にも。頬にも。そして、唇にも。僕は歯を食いしばって顔を背けた。


「どうして? あなたは兄が好きなのでしょう?」


 僕の問いにネルはくすくすと笑って応えた。

「どうしてそんなことを訊くの? 私たち、お友達でしょう?」

 ネルのしなやかな腕が首に巻きつき、甘い声が囁く。

「ねぇ、ネルって呼んで」

 僕は口を噤んだまま、身を捩った。

「ねぇ、」

 じっと俯いたままの僕。ネルの腕が解かれ、顔が離された。僕はほっと息を継いで上目遣いにネルを――。


 そのとたん、バンッと勢いよく胸を突かれ僕は床に転がっていた。肩を押さえつけるようにして、ネルが覗き込んでいる。


「やめて、ネル。あなたが好きなのは兄なのでしょう?」

 僕はもう一度繰り返した。

「いいじゃない。あなたも私のお友達だもの」

 呪縛をかけるように僕の瞳を見つめて、ネルは囁いた。

「みんなお友達。だけどあの人だけが、私の王子さまモン・プティ・プランス


 感情のない白い顔。薄く開いた唇がかすかに震えた。


「――その瞳。どうしてその鸚鵡色の瞳は私を見ないの?」


 眉根を寄せ僕を睨めつける瞳に涙が滲む。


 ネル――。誇り高い僕の女神。


「ネル、僕はあなたが好きだよ」


 僕は我慢できずに彼女の背に腕を廻した。


 可哀想なネル――。

 あまりにも幼稚で、愚かで、純粋な、僕の女神。

 

 僕があなたにしてあげられるのは、兄と同じ色のこの瞳であなたを見つめ、兄に似たこの声で、あなたの名前を呼んであげることくらい……。


 ネルの唇が僕の瞼に落ちる。彼女の名を呼ぶ僕の唇を塞ぐ。


 床の上を指で探って、毛布を見つけだし引っ張りあげた。ばさりと、彼女と僕をそれで覆い、兄の残り香で彼女を(くる)んだ。

 彼女の甘いムスクの香と、森と土の兄の香りが交じり合う。けれど、決して混じり合い溶け合うことのない二つの香り。僕は、深く、深く吸い込んだ。僕の中でそれは仄暗い欲望に変わり、さざ波のように全身を浸し痺れさせていく。


 僕はもう抵抗するのをやめて、彼女の孤独を受け止めた。報われることのない、彼女の想いを抱きしめた。彼女の愛する兄の代わりに。


 彼女は僕を噛み砕き咀嚼し、怒涛のように呑みこんだ。


 パチパチと木の爆ぜる音。その木を焦がす暖炉の炎がゆらゆらと踊る。剥きだしの肌に、その焼けつけるような熱を感じていた。







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