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夏の嵐  作者: 萩尾雅縁
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23

「お前、また僕のベッドを占領している」

 重い瞼を持ちあげると、兄がすぐ傍でクスクスと笑っていた。

「ずっと待っていたんだよ」

 夢現のぼんやりとした意識のまま兄を睨む。


 窓の外に、薄らと白み始めた仄暗い空が広がっている。


「一晩中何をしていたの?」

 起きあがって兄の前に胡座をかいた。

「釣りだよ。仕掛けを作ってボート小屋で寝ていたんだ」

「エリック卿と?」

 僕の詰問するような口調に、兄は軽く眉根をあげた。

「そうだよ」

「それから?」

「それからって? エリックだけだよ。二人で飲んでいるうちに、うっかり眠ってしまってね。それがどうかしたのかい? なにか用事でもあったの?」

 兄は申し訳程度に肩をすくめて、優しい視線を僕にくれた。


「だって、」

 僕は昨夜のことを兄に話した。思いだすと腹だたしくて、涙が滲んだ。兄は穏やかな笑みを絶やさないまま、じっと僕の話を聞いていた。

 話し終えると、兄は笑って、くしゃりと僕の頭を撫でてくれた。


「まったく、あいつらは――」大仰なため息をまずひとつ。そして「いいかい、ジオ、あいつらの言うことを本気にするんじゃないよ」と、兄は眉毛を八の字にして困ったように微笑んだ。

「でも、兄さん、いつもはこんな事ないじゃないか! ネルがいるからだろう? 入れ代わり立ち代わり、いろんな人が来て、馬鹿騒ぎして……」

 僕は唇を尖らせて、憤然として食いさがる。


「僕のためだよ、ジオ。皆、僕を心配して来てくれているんだ」

 兄は僕の頭に手を置いたまま、ぐいと僕の目を覗き込んだ。

「目に見えるもの、耳に聞こえることだけが真実だと思ってはいけない。世の中はもっと複雑で、猥雑だ。美しく見えるものが、中身の醜さを覆い隠すためだったり、逆に、耳の痛い言葉が、本当は誠実な想いの裏返しだったりすることもあるんだよ」


 兄の澄んだライムグリーンの瞳に、小さな僕が映っている。卑小で愚かで空っぽな僕が。


 僕は訳が解らず頭を振った。


「あいつらは口が悪いし、羽目を外しすぎる嫌いもあるけれど、根は良い奴らだよ。……さすがに、昨夜の遊びはボイドに叱られたけれどね」


 兄は組んだ足に頬杖をついて、くすくすと笑った。



 兄とエリック卿が戻って来たのは、まだ夜も明けやらぬ暗いうちだったというのに、テラス階段にボイドが静かに佇んでいたのだそうだ。

 図書室の灯りに照らされたテラスの床にはあちこちに焦げ跡が見られ、飛び散った蝋が溶けて固まっていた。そして、焦げた匂いと交じり合う、きついウオッカの香りが辺り一面を支配していたよ……と、兄も呆れたように、ボイドを心底凍てつかせた惨憺たる有様を語ってくれた。


 僕の見たあのたくさんの蝋燭は、すでに片づけてあったらしい。


『お昼にお出ししたローストビーフの焼き具合がご不満で、この屋敷ごと火を入れ直そうとなされたので?』 と、やんわりと嫌味を言われ、兄はひたすら小さくなって、友人たちにはちゃんと注意をしておくから、と、ボイドに散々謝って逃げてきたって。



 僕はボイドの小言からそそくさと逃げだす兄とエリック卿を想像して、声をたてて笑った。

「でもさぁ、すごく綺麗だったんだよ! ウオッカを撒いたときも、ぽうっと燃え上がって……」

 僕は腕を高く伸ばしてゆらゆらと揺らしてみせた。

「だから蝋燭は片付けてあったんだよ、僕とエリックまで火を点けないようにさ」

 兄は少し残念そうだ。


 僕はいつの間にか兄の友人のことよりも、テラスの欄干に立ちあがって世界を支配する女神のように、小さな灯火にウオッカを振りかけ燃えあがらせ、金色の炎に照らされていたネルの事を一所懸命に喋っていた。彼女がいかに美しくて、神秘的だったかを、思い切り熱をこめて。


「ジオは、彼女のような()が好きなの?」

 どこか冷たい声の響きと、兄の顔にかすかに浮かんだ嫌悪感に、僕は瞬時に言葉を呑み込んだ。

「だって、彼女は美人だから、その、――普段、あんな娘に会うことがないからさ、」

 しどろもどろになってしまった僕に、兄はふわりとした笑顔を向ける。

「確かに美人だね。ファッション雑誌のモデルみたいだ」

 僕はほっとして吐息を漏らした。



 窓の外はもうすっかり明るくなり、いつの間にか鳥の囀りが聞こえている。今日も良い天気だ。

 サイドチェストの時計を見遣り、僕は勢い良くベッドから立ちあがった。

「もう部屋に戻るよ。兄さん、あんまり寝ていないんだろ? おやすみ、兄さん」

「もう朝だよ、ジオ」

 言いながら兄は大きく欠伸をする。そして、くすりと笑って付け加えた。

「おやすみ、ジオ」

 僕は、お昼までには起きてね、と言い残して部屋を出た。



 本当はあんまり兄の言うことに納得できた訳ではなかったけれど、兄が友人たちを信じると言うのならそれでいいんだ。いつも歯に衣を着せたような兄の友人たちの話は、本当と嘘が混じり合い、冗談がさも真実の様な顔をしている。兄が笑い飛ばすなら、本当のことも、冗談になるってものさ。




 僕は自分の部屋に戻ってシャワーを浴びて、いつも以上に気合を入れて身だしなみを整えた。

 そして、久しぶりのネルとの朝食に心躍らせながら廊下を急ぎ、彼女の部屋のドアをノックした。









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