22
もう何日もネルと口をきいていない。
ネルは僕を無視している。けして僕と目を合わさない。
彼女の態度の突然の変化が、僕には理解できなかった。
ネルはいつも兄の傍らにいた。嬉しそうに微笑んで。そんな彼女に声をかける勇気なんて奮い立たなかった。
僕はこの二人をいつも見ていた。映画でも観るように。けれど不思議なことに、なんの感情も涌かなかった。
一人でいる彼女や、兄の友人に囲まれている彼女を目にするときは、相変わらずドキドキするのに。兄と一緒にいるネルは、まったく別の二枚の絵を無理矢理接ぎ合せて継いだように、どこかちぐはぐでおかしいのだ。並んでいるのに、寄り添っているわけではない。隣り合わせているのに、見えない壁に遮られている。そんな二人は、とても奇妙でぴりぴりとしていた。
僕は部屋に篭ることが多くなった。食事とお茶の時間だけ顔をだし、あとは自室で本を読んだり、勉強したり――。時々、ロバートやルーシーとお喋りした。本当は面倒臭かったけれど、たまには相手をしてあげないと心配するからね。
午前中の涼しい時間帯、僕は窓からテラスを眺める。紺碧の空の下、白いドレスを着て輝くネル。ロンドンから帰ってから、彼女はなぜだか白ばかり着る。清楚で、清潔で、とても彼女に似合ってはいるけれど。僕には彼女のこだわりは判らない。判らないことだらけの、ちぐはぐで、奇妙で、美しい彼女。不思議な彼女。ちょっと意地悪な、僕を翻弄する女神。
もうそれだけで充分な気がした。じきに、夏も終わる。
頬を揶揄うようにくすぐる柔らかな感触で目が覚めた。顔にかかるカーテンを払いのける。いつの間にか、机につっ伏してうたた寝していたのか。気怠く重い頭を持ちあげた。
外はもうとっぷりと日が落ちて、闇に包まれている。その暮明を裂く賑やかな笑い声が、どっと湧きあがる。また兄の友人たちか――。
煩い!
今度は何をしているのだ、とテラスに目を落とした。
闇の中、小さなグラスに浮く蝋燭の仄かな灯火が、いくつもいくつも連なって揺れていた。テラス一面に螺旋を描くように置かれたオレンジ色の小さな瞬き。揺らめいて囁きあう優しい輝き。
今日の遊びはとても綺麗だな――。
窓枠にもたれて眺めていると、闇に沈む庭を背に欄干に一列に並んで腰かけていた連中の真ん中で、ネルがヒールを脱ぎ捨て立ちあがった。
不安定に揺れながら欄干の上に立つネルの手に、透明の瓶が渡される。
その手が頭上高く伸ばされる。反対の手を顎の下に置き、彼女は身を揺すって笑っている。彼女の足下にいる兄の友人たちが、一斉に彼女を囃子たてた。
ネルは勢いよく手にした瓶の中身をぶちまけた。
テラスに並ぶ蝋燭の上に、飛沫が弧を描いて飛び散り、金色の炎が高く大きく立ちのぼる。青白い幾多の手を伸ばして、天に挑むかのように――。
だがやがて、そこかしこに散った炎は、ぽわり、ぽわりと我が身を燃やし、じゅわりと消えていった。
かすかに鼻を突いたアルコール臭に、僕は思わず顔をしかめた。
「1、2、3……、14! 残念、ネル嬢。モーリスの勝ち!」
歓声と野次の中、兄の友人の誰かがネルを欄干から抱えおろしている。そしてそのまま跪いて、彼女にヒールを履かせている。ネルはヒールを履き終えると、その彼の腕を取って闇に消えた。
ネルの姿が完全に見えなくなると、テラスには、打って変わったどこか白けた空気が漂っていた。誰からともなく失笑が漏れていた。
「とんだお嬢様だな」
「なんだ、今日のお相手に選ばれなくてやきもちかい?」
「冗談じゃない! もう充分楽しませていただいたよ」
「まったくだね。あのディックがよく我慢しているものだよ。僕はあいつの顔を見ている方がよほど面白い」
くすくすと、嘲笑がさざ波のように広がる。
「エリックが上手く宥めてくれているからね」
「僕たちのお楽しみのために!」
どっ、と笑い声があがった。
「それで、肝心のディックは?」
「エリックと罰ゲームの鰻釣りに行っている」
「それってまずいんじゃないのかい? あの二人と鉢合わせてしまうぞ」
突然話声が止み、静まり返った柔らかな闇に、蝋燭の炎だけが揺れていた。仄暗い灯りは彼らの足下だけを照らし、欄干に居並ぶ彼らの一人一人を教えてはくれなかった。
くっくっ、と笑い声が、再びその静寂を破る。
「それもまた面白いんじゃないの? ネル嬢はいいお相手だよ。いろんな憂さを忘れさせてくれる」
「その通り。アメリカには憂いなんて単語はないんだろ? 実に幸せな国だ」
「行きたくはないけれどね」
「憂いと柵の英国万歳だ!」
もう聞くに耐えない。
兄を馬鹿にする言葉も。彼女を侮辱する言葉も――。
あんな奴ら、みんな追いだしてしまえばいいんだ!
僕は怒りに燃えて部屋を飛びだしていた。兄のもとへ行って、今聴いたことを全部ぶちまけてやる、そんな思いにかられていた。
廊下を全力で走っていると、「ジオ!」とあの甲高い声で呼び止められた。振り返ると、ネルが大きな瞳を見開いて僕を見ていた。
「どうしたの? そんなに慌てて」
僕は呆気に取られて、逆に訊き返していた。
「ネルこそ、どうしてここにいるの?」
「眠るのよ。もう遅いもの。――ねぇ、また一緒に朝食を食べましょうよ。あなたがいないとつまらないわ」
ネルは、猫のようにあのセレストブルーの瞳を細めて小首を傾げ、艶やかに、蠱惑的に微笑んでいたのだ。




