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夏の嵐  作者: 萩尾雅縁
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 夕食は兄の釣ってきたブラウントラウトのオーブン焼きだ。薄ピンクの分厚い身に、ハーブの効いた濃い緑のソースがかかっている。一緒に焼かれしわしわになったプチトマトの赤と、焦げ目のついたじゃがいもの黄が、申し訳程度に色を添える。


 兄とエリック卿はことのほか上機嫌で、今日の戦果を祖母たちに報告している。



 兄が夕食の席にいるのは久しぶりだ。


 兄の友人たちはボート小屋に移動して今晩は夜釣りだそうだ。食事も釣ったばかりの魚でバーベキューをするらしい。兄はここで軽く食べ、後から再び参加するのだそうだ。


 僕もたまに釣りはするけれど、こんな、朝から晩までなんて! よく飽きないな、まったく信じられないよ、と半ば呆れ返りながら、黙々とナイフとフォークを動かしていた。


 兄はいつもより饒舌だ。かなりお酒を飲んでいるんじゃないかな。いつもと違う兄の様子を伺いながら、僕は丁寧に魚の骨を取り除き、淡白な魚にソースを絡める。甘く爽やかなローズマリーの香りが鼻を刺激する。


「ジオ」


 魚の骨と格闘していた僕は、びっくりして頭をはねあげた。


「旨いだろ?」

「美味しいよ、兄さん」


 僕はとってつけたように答えた。



 兄の朗らかな声と優しい笑みに、僕の心臓はどくんどくんと音をたてる。まるで悪いことをして、後ろめたさで居た堪れないみたいに。


 兄はロバートやルーシーにも、同じように訊いている。いつもの重苦しい食卓が、兄とエリック卿の洒脱な会話で華やかに盛りあがる。岩場ですっ転んでびしょ濡れになった話に、ロバートのお祖母さまも、声をたてて笑ってらっしゃる。兄はこのとんだ失態のおかげで岩場に魚を追い込んで、見事捕まえたのだそうだ。


 でも、それはもう釣りじゃないよ、兄さん……。


 僕は皿の上の、兄に捕まり切り身になった哀れなブラウントラウトに一瞥をくれ、ぱくりと食べた。


 きみはとっても美味しいよ。


 口の中で、つけ合せのプチトマトの酸味とレモンハーブの香るトラウトが絡まりあい、混じりあい、溶けていく。




「兄さん、僕も夜釣りに行きたいな」

 そんなこと、言うつもりはなかったのに、なぜだか口について出ていた。


 兄はちょっと驚いたようだった。僕がそれほど釣りがすきじゃないって知っているからね。でも、僕の方がもっと驚いているよ、兄さん。


「かまわないよ。きみたちもどうだい、ロバート、ルーシー?」

 兄の友人たちのなかで、僕が退屈しないよう気遣ってくれたのかな。この突然の夜遊びの誘いにロバートは嬉しそうに相好を崩し、ルーシーはおっかなびっくりでまん丸な瞳をさらに丸めている。




 僕たちは急いで食事を終わらせた。デザートは食べなかった。バスケットに入れてもらって、向こうに着いてから食べるんだ。せせらぎを聴きながら。


 お祖母さま方への挨拶もそこそこに立ちあがる。お祖母さま、苦笑いしながら見送ってくださった。多分、僕たちがこのドアを出たとたんに、兄とエリック卿が軽く嫌味を言われるんだろうな。子どもを夜遅くまで遊ばせるなんてもってのほかですよ、とか何とか。でもきっと、兄はどこ吹く風で受け流し、悪魔をも魅了するあの笑顔でやり過ごすに違いない。いつものように。






 樹々の間からボート小屋の明かりがぽっかりと浮かぶ。


 兄はこの岩場に到着すると慣れた手つきで糸に針を結び餌を付けた。餌は鶏の臓物だ。ここに来る前にメアリーのところへよって、たっぷりと分けてもらったのだ。ロバートとルーシーはボート小屋の兄の友人たちに預け、僕たち二人だけが、少し離れた兄しか知らない穴場へ来ている。




 懐中電灯のわずかな灯りと、切れ切れの雲の間に覗く細かな星灯りの下、せせらぎに、梢をざわざわと揺らす風のまにまに、時折、賑やかな話し声や笑い声が混ざりこむ。川からたち上る冷気に思わず身震いする。


 僕と兄はごろごろした岩場のなかで座りよい岩を選び、それぞれ腰かけた。兄が言うには、この岩場の流れが緩やかになったくぼみに鰻がたくさんいるのだそうだ。僕は懐中電灯で真っ黒な水面を照らしてみた。小さな光の輪の中で緑の水草が絡みつきあいながら揺れ、その水草の白い小さな花が、流れに任せてゆらゆらと踊るように漂っている。




「ほら、この糸の端っこを手に巻きつけて」


 兄は川にできあがった仕掛けを放ち木綿の糸の片端を僕に握らせると、外れないようにぐるぐると巻きつけた。


「鰻が餌に食いついたら、手応えとこの音で分かるからね」


 糸の半ばに結えられた小さな鈴が、シャンシャンと可愛い音をたてた。続いて兄も少し離れて腰を据えると、重り付きの糸を静かに水中に下ろした。






「兄さん、好きな人がいるのなら、僕に遠慮しなくていいんだよ」


 僕は水面にかがみ込んでいる兄の背中に声をかけた。兄は驚いて振り返った。ほんの少ししか離れていないのに、兄の顔は闇に呑まれてよく見えない。


「何を言っているんだい、ジオ」


 いつもと変わらない優しい声が返ってくる。


「いいんだ。もし、兄さんが真剣に彼女を好きなのなら――」


 僕はいったい何を言ってるんだろう?


 澱んだ心とは裏腹に、すらすらと流れだした言葉――。僕は泣きだしそうだった。


 僕はどうしてしまったのだろう? こんなに彼女が好きなのに。




 兄からは何の返事もなかった。


 静寂の中、せせらぎが暗闇に流れる。葉擦れの音が重なりあう。チッチッチっと途切れることのない虫の音のさらに奥で、梟が鳴いている。




 ふうっ、と兄の深いため息が聞こえた。


「エリックに聞いたのかい? すまないね、お前にも心配かけてしまって」


 兄の声は深い悲しみに満ちていた。


「もう済んだことだよ。彼女はぶじに子どもを持てたし、喜ばしいことじゃないか。その相手が僕じゃないとしても、幸せを願う気持ちに嘘偽りなんて、これっぽっちもないんだよ」




「子どもって――」


「そこまでは、聞いていなかったのかい?」




 兄は、僕の想像していたのとはまるで違う、兄の恋の話をしてくれた。






 兄にはずっと想う相手がいたのだそうだ。でも、兄も、彼女も、結婚に踏みきることを躊躇していた。


 理由は、血が近すぎるから。何度も近親婚を繰り返してきた彼女と僕たちの一族は、子どもがぶじに産まれ育つのがとても難しいのだそうだ。彼女は兄に内緒で兄の子どもを三度身籠り、すべて流産してしまったのだそうだ。兄と彼女の間では、おそらく子どもは望めない――。彼女は嫡男である兄のために泣く泣く身を引いて、数年前に別の男と結婚した。そして、やっと自分の子どもを持てたのだ、と。


 兄がずっと想っていた相手は、エリック卿のお姉さんだった。




「僕と彼女だから駄目だったのか、僕自身に欠陥があるのか、正直判らないけどね」


 兄は自嘲的に笑い、また吐息を漏らした。


「べつに、子どもを持てなくたって僕はそれでもよかったんだ。僕にはお前がいるからね。お前がいつか爵位を継いでくれれば、それでいいと思っていた。次代のマーシュコート伯爵が、僕自身の直系である必要なんてなかったんだ」


 兄の子どもを産んであげられない、そんな理由で恋を捨ててしまった彼女の気持ちが、僕には解らない。


 でも、その彼女のことをいまだに想う兄の気持ちは、痛いほど伝わってきた。


 すべて摘み取られた紅い薔薇は、本当はその彼女に贈られたものだったのだろうか? 受け取り手のない紅い薔薇。打ち捨てられたその花を見て、兄はかえってほっとしたのだろうか。恋は、終わったのだと――。




 僕は闇に紛れて涙を拭った。


 どうか、兄に気づかれませんように、と願いながら。




 せせらぎに紛れ、シャンシャン、と微かな鈴の音が僕を呼んだ。




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