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夏の嵐  作者: 萩尾雅縁
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16

「ねぇ、今朝はジオが私の代わりにネルの朝食につきあってくれたの?」

 自室に戻ってしばらくしてからだ。ノックの音にドアを開けると、どこかもじもじとして、視線を合わさないようにあらぬ方向を向いているルーシーが立っていた。

「そうだよ。きみが起きてこなかったからね」

 僕は嫌みたっぷりに応えてやった。


 僕がネルの部屋で食べた朝食は、どうやらルーシーのものだったらしい。そういえば彼女、朝はほぼ食べないのだった。ルーシーはネルとの約束を破って、ロバートと日が高くなるまでイチャイチャしていたのか!


 彼女がどこか意地悪く見えたのは、ルーシーのせいだったんだ!


 ああ、でも、おかげで僕はネルとのひと時を持つことができたんだし――。

 そう思うと、一概にルーシーを怒る気にもなれなくて、僕の心はどっちつかずの振り子のように揺れていた。


 そうだ! 裏切者はルーシーじゃなくてロバートだ! ネルこそが女神(ミューズ)だって言っていたくせに! 


 昼近くになっても起きてこないロバートにこそ、怒りの矛先を向けるべきだと悟ったよ。




「きゃっ!」

 突然の青白い輝きが、室内を一瞬浮かびあがらせる。僕も、ルーシーも、慌てて耳を抑えて身体を縮こめる。


 雷鳴が轟く。


 いつの間にか真っ黒な雲に覆われていた窓外に目をやる。大粒の雨が、激しく窓ガラスを叩き始めていた。朝はあんなに晴れていたのに――。朝の内に薔薇を貰えて良かったよ。


 また、空が光る。


 ルーシーが悲鳴をあげた。


 鳴り止まない雷に、急にネルのことが心配になった。あのあと、マーカスが僕を呼びにきて――。彼女はどうしているのだろう? ルーシーみたいに悲鳴をあげて、一人で怯えているんじゃないだろうか?


「そこ、どいて。ネルの部屋に行ってみるよ。彼女も雷を怖がっているかもしれないだろ」

 僕はドアの前を塞ぐように立っていたルーシーを腕で避け、その横を擦りぬけた。

「待って。一緒に行く。私、ネルに謝らなきゃ」


 通りぬけていく長い廊下には、強く薔薇の香りが漂っていた。花台、サイドテーブル、至る所に兄の薔薇が飾ってあるからだ。





 彼女は部屋にいなかった。


 どこに行ったんだろう? 外は酷い雨なのに――。音楽室? ティールーム? 応接間かな? そういえば朝っぱらから、また兄の友人が集まっていたっけ……。


 僕とルーシーは、順繰りに思いつくまま部屋を巡った。どの部屋にも、どの部屋にも、兄の薔薇が居座っている。


 こんなに切るなんて、庭の薔薇、なくなっちゃったんじゃないの?


 僕たちは雨の匂いの混じる薔薇の芳香に、むせかえりながら部屋を巡った。




 図書室の前の廊下に彼女はいた。エリック卿の腕に絡みつくように両腕を廻し、頬を摺り寄せて艶やかな笑みを浮かべていた。

 僕とルーシーは、そんな二人をぽかーんと立ち止まって眺めてしまった。ちらりと、彼女が僕たちを見たような気がした。

 だがまるで近くには誰もいないような素振りで、彼女はエリック卿の腕を引っ張り、その長身を屈めて顔を寄せた彼の耳元で、楽しそうに何か喋りながら、素知らぬ顔で図書室に入っていった。エリック卿は、僕たちに気がつかないようだった。


 図書室の手前まで来て、僕とルーシーは顔を見合わせた。どうしよう? と、互いの瞳が問いかけている。僕たちがまごまごしていると、図書室のドアが勢い良く開いた。

 哄笑がどっと流れでる。賑やかな声が飛び交っている。彼女のひときわ高い金属的な声だけが、他に交じらずに空気を切り裂く。まるで空を走る雷光のように――。



「やぁ、ジオ! ディックはどこだい? さっきから探しているんだけれど、どこにも見当たらないんだよ」

「兄なら、きっと庭に、」

 言いかけて口を噤んだ。いる訳がない。外は大雨だ。雷まで鳴っているっていうのに……。

「分かりません」

 僕はできるだけ申し訳なさそうに首を横に振った。

「そりゃ、困ったな! ディックがいないとつまらない」

 兄の友人は口を尖らせて頭を振った。そしてくるりと図書室に戻ると、大声で兄の不在を告げている。僕がちらりとルーシーを見ると、彼女も遠慮がちに僕を見た。


 僕たちも、意を決して図書室に踏み込んだ。締め切られた室内に薔薇の香りが甘く滲む。窓辺のサイドテーブルに、ネルに贈ったのと同じ深紅の薔薇が飾られていた。

 ネルはそのすぐ傍に立っていた。窓の外を眺めていた。薄暗い、黒い雨雲に包まれた空を。雷はもう止んでいた。だが雨脚はさらに強まり、窓ガラスを揺さぶり、音を立て、容赦なくその滴を叩きつけている。

 彼女の白い背中はじっと動かない。なぜだろう、話しかけられるのを拒んでいるように、僕には思えた。


 僕は彼女からずっと離れた窓から同じように外を眺めた。ガラスに張りつく水滴が、いくつも、いくつも伝い落ちている。窓越しに見えるテラスには大粒の雨が突き刺ささんばかりで――。降り注ぐ容赦ない銀の槍は、固く冷ややかな大地の抵抗によって弾き返され、溶けて混じり合った屍のような巨大な海を形成している。その絶え間ない雨で紗のかかったような視界の奥、白く煙る緑の庭園にゆらりと人影が揺れた。


「兄さん――」


 降りしきる雨の中に幻のように浮かびあがる、ずぶ濡れの兄の姿が信じられなくて、僕は呆けたように口をあんぐりと開けて、ただただ、その場に立ち尽くしていた……。





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