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腰に来る

 恐怖に、小夜は咄嗟に手を引っ込めていた。

 その横で、風が動いた。


「っ、ヨルゴスさん」


 背後に立っていたはずのヨルゴスが、いつの間にか隣に膝をつき、セシリィの体を横抱きに抱え上げたのだ。まるで体重を感じさせない動きで立ち上がり、ぐったりと首を落とすセシリィの顔に耳に近付ける。

 そして。


「……息、あります」


「っ!」


 へたりこんだままの小夜を一瞥して、そう言った。


「ですが、体が冷えきっています。早く温めた方が良いかと」


「……ぁ、あぁ……」


 言われてやっと、小夜は今が冬だったことを思い出す。触れた指が冷たかったのは、単純に冷えきっていたからだ。


(死……んでたわけじゃ、なかった……)


 体から空気が抜けるように安堵する中、自然に浮かんできた『死』という単語に、小夜は再び体を強ばらせた。

 セシリィが消えて一週間。頭も良くて魔法も使えて努力家なセシリィなら、どんな困難も越えていけるとどんなに言い聞かせても、頭の片隅では消えない恐怖があった。それが今、目の前で現実になったと思った。

 そして今はただの早とちりでも、すぐに連れ帰って、手当てをしなければ、その後は分からない。


(そうだ……座ってる場合じゃ……)


 思って、いまだ震える手を石畳について、力を込める。けれど腰でも抜けたのか、少しも足に力が入らなかった。


「小夜様、大丈夫ですか?」


 いつの間にかすぐ横に来ていたラリアーが、心配げに手を貸してくれた。小夜はそれにすがってなんとか立ち上がると、険しい顔で待ったいたヨルゴスに追い付いた。




       ◆




 混雑する広場を迂回して馬車を預けた厩舎に戻ると、馭者を一人借りた。ヨルゴスがセシリィを抱えたままで手綱を取れなかったからだ。

 そうして四人で戻った馬車は、慌ただしくルキアノスの学寮前に横付けした。出迎えた侍女二人は、セシリィを抱えたヨルゴスを見て大慌てで支度に取りかかった。


 エレニが医者を呼びに走り、残ったアンナはベッドを整え、湯を沸かし、新しい服を用意してと部屋を何度も出入りしては準備を整えた。ここで侍女として働いていたこともあり、小夜も出来る限り手伝った。

 ラリアーは慣れない場所で戸惑うばかりだったが、ルキアノスに確認するまでは容易に帰すとも言えず、留まってもらった。

 幸いなことに、一仕事終えて戻ってきたところらしいニコスが居合わせたお陰で、まだ授業中であるルキアノスへの伝言を頼むことが出来た。過労死寸前の青い顔をしていたが、頼めばすぐにしゃきっとした顔で走ってくれた。

 そうして全ての準備が整う間、ヨルゴスはずっと微動だにせず、セシリィを抱いた姿勢で直立していた。


「ヨルゴス、外をお願いします」


 ベッドの上を示し、そこにセシリィを横たえるように指示したあと、エレニがそう言ってドアに視線を向ける。ヨルゴスは無言のままにセシリィを寝かせると、一礼して退出した。


 そうして、セシリィの痛々しいドレスを脱がせ、体を拭き清め、寝巻きを着せて掛け布団をかけ、頬を冷やし。一通りのことが終われば、エレニは目が覚めたときのためにお茶の用意をすると、部屋を一旦後にした。


「セシリィ……」


 小夜は一人セシリィの傍らに残り、櫛を手に髪をとかしていた。目が覚めたときに頭が鳥の巣では、きっと端から機嫌が悪くなる。

 だがそれはただの言い訳で、何かしていないと手が震えそうだっただけだ。目を離すのも怖い。

 こうして落ち着くまでにも、小夜は何度も鼻先に指を当てたり、手の脈をとるなどしてセシリィの無事を自分に言い聞かせていた。


「セシリィ、ごめんね。気付くのが遅くって……」


 そして何度も謝った。たとえ自分のいた世界と時間の流れが違ったからと言っても、セシリィが味わった恐怖や苦痛は和らいだりしない。まだ十六歳の幼い少女が味わうには、一週間という時間はあまりに過酷といえた。


「セシリィ……」


 何度も、何度も呼び掛ける。早く目が覚めるといい。辛いことは、怖いことは終わったと、早く知らせたい。

 そんな風に、時間は静かに流れた。

 無言で髪をすいていると、階下でドアの開閉音が響いた。アンナが医者を連れてきてくれたのだろうか。それともルキアノスだろうかと耳を澄ます。

 その時、セシリィのひび割れた唇が小さく動いた。


「……ファニ……」


 と。




       ◆




「大体の事情は把握した」


 授業を早退して戻ってきたルキアノスは、医者と共にセシリィの容態を確認したあと、小夜たちの話を聞いてそう答えた。

 今はアンナがセシリィに付き添い、小夜たちはルキアノスの私室に場所を移している。


「ニコス。場所を確認した上で犯人の住処を特定できるか」


「いくらか人手を頂ければ」


 背後で控えていた侍従が、低頭しながら答える。


「一筆書こう。その上で犯人の足取りと、残り三人の行方も辿れるようなら辿れ」


「御意」


 承るや否や、ニコスが部屋を後にする。


「アンナ、エレニ。セシリィ発見の報を関係各所に送ってくれ。侯爵へはオレも一筆添える」


「「はい」」


 侍女の二人も、完璧に揃った礼をして部屋を出る。ニコスと共に早速準備に取りかかるのだろう。

 ルキアノスは次に、ラリアーに向き直った。


「ラリアー嬢。あなたも犯人に見られた可能性があります。暫くは護衛をつけることを了承してください」


「わ、分かりました」


 固い表情のまま、ラリアーが頷く。

 護衛と言っても、校内は武器携帯は禁止だし、護衛も授業にまでは同道できない。寮や、学校を離れる時に限るだろうが、それでも必要な措置であろう。


(そう言えば、あの時に視線を感じたのって……)


 軽食を食べていた時に感じた視線がもし犯人のものであれば、ラリアーも狙われる可能性はゼロではない。婚約者との不仲などの共通項はないが、用心に越したことはない。


「ヨルゴス、ラリアー嬢を寮まで送って差し上げろ」


「……御意」


「あ、じゃあ、私も」


 静かに低頭したヨルゴスに、小夜も何となくそう声を上げた。心配だったというのもあるが、一つ気になっていることもあったからだ。だが最後まで言い切る前に、ルキアノスが口を挟んだ。


「ダメだ」


「え……、でも」


「お前は……セシリィの世話を頼む。いつ目覚めるか分からない」


 睨まれた、と思ったのは一瞬であった。すぐに鉄灰色の瞳は逸れ、すぐに事務的なやりとりに戻る。

 そんな風に言われては、さすがの小夜も頷くしか出来ない。


「……はい」


 ぽつねん、と佇む。ラリアーだけは、そんな小夜を心配げに見ていたが、ルキアノスの指示に従いヨルゴスが動くと、背を押されるようにして部屋を出ていった。

 ルキアノスも何度か部屋を出入りし、アンナたちとともに用事を済ます。そうして気付けば、部屋には小夜とルキアノスだけが残った。





 二人きりになった部屋の空気は、腰に来るかと思うほどに重かった。それでも、この機会を逃せば次またいつ謝罪できるか分からない。

 小夜は喉が乾くほどの緊張を飲み込んで、呼び掛けた。


「……あの、ルキアノス様」


「…………」


 反応はない。振り向きもしない。小夜は挫けない。


「昨日は本当に失礼なことを言って、申し訳ありませんでした。でも本当に、ルキアノス様を誰かの代わりと思っているわけじゃないんです」


「…………」


「声は確かに似てるけど、でもそれだけです! ルキアノス様はルキアノス様です。ルキアノス様を通して、誰かを見てる訳じゃないんです……」


 そんな軽い気持ちでいられたら、いっそ楽だったろうと、小夜でも分かる。ルキアノスは相変わらずゲームの中の登場人物で、声は大好きな声優で、奇跡が起きてお近づきになれて、名前を呼んでもらえた。

 こんな感情に気付かないままでいられれば、それで小夜は十分満足していたはずだ。

 けれど今、小夜はルキアノスに嫌われることこそが怖い。ルキアノスの声を聞けなくなることでも、その声で名を呼んでもらえないことでもない。


「ルキアノス様は、どんなお声でもルキアノス様です。セシリィの中にいた時、優しくしてくれたのも、庇ってくれたのも、ルキアノス様でした。私は、たとえそのお声が違っていても……」


 きっと、同じように好きになっていただろう。

 それは決して、言葉にはしないけれど。


「構わないって?」


「!」


 予期せず声が上がり、小夜はハッと顔を上げる。いつの間にか俯いていた間に、ルキアノスが小夜を振り返っていた。

 鉄灰色の瞳が、酷薄に細められる。


「それはそうだろう。お前は元の世界に帰ればその役者の声を聞けばいいのだからな。最初からオレだけに執着する必要などなかったのだ」


「ち、違います! そういう意味じゃなくて!」


「何が違う? オレはお前に優しくしたことなどない。お前がセシリィの中にいた間、オレはずっとお前を警戒し、疑っていた」


 その言葉に、小夜は目を丸くし、そして次には泣き笑いの顔になってしまった。


「そんなこと、知ってます」


 ルキアノスがセシリィを警戒していたことなど、百も承知している。けれどどんなに小夜がおかしな行動をしても、ルキアノスは乱暴に検めたり尋問しようとはしなかった。変だと、少年のように笑っていただけだ。課題の調べ物にも付き合ってくれたし、魔法の実技で震えていた小夜を心配してくれた。


「それでも、ルキアノス様は優しかったんです。ルキアノス様も、気付いてないんですか?」


「……何だと?」


「セシリィも、とっても優しいんです。でも、そのことに全然気付いてない。使命感と義務感が強過ぎて、優しさとして発揮する場所が少ないんじゃないかな、と――!」


 言い切る前に、ぐっと襟首を捕まれていた。すぐ後ろにあった壁に、ドンと背中がぶつかる。


「……ル、ルキアノス様?」


 ルキアノスの端整な面が、視界いっぱいに広がっていた。その顔が苦しそうに歪み、瞳は今にも泣きそうで。


(……あぁ、また)


 また、傷付けてしまったのだと、知るしかなかった。

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