冷たかった
予期せぬ力に、小夜は呆気なく後ろに引っくり返りそうになった。転ぶ、と思った目の前で、ヨルゴスが手を伸ばす。
結果、左腕を後ろから、右手を前から引っ張られる体勢で止まった。
(……セーフ)
ホッと安堵する。この年で公衆の面前ですっ転ぶのはさすがに恥ずかしすぎる。手首を掴んでくれたヨルゴスに、大丈夫と目で合図する。
「ヨルゴスさん、ありがとうござ」
「姉様!」
そこに、悲痛なまでの声がかかった。何事かと振り返ると、そこには今しがた見たばかりの顔があった。風舞師の女性である。石榴色の瞳が、怖いほど真剣な眼差しで小夜を見詰めている。短い濃灰色の髪に、左耳から流れる一房だけが長い。
「えっと……?」
小夜は大いに困惑しながら女性を見返した。何故なら、左腕を掴んでいたのが、その彼女だったからである。
「お姉様が、どうかされました……?」
離れ始めていた客たちの視線がちらほら向けられる中、小夜は気恥ずかしい思いでどうにかそう返す。とりあえず、心当たりは一ミリもなかった。
だが、すぐにそんなことを言ったことを後悔した。何故なら。
「え…………」
女性が、今にも泣きそうな顔で愕然としたからである。小夜は咄嗟にヨルゴスの方の手をほどいて、女性に向き直った。
「だ、大丈夫ですか? もしや誰かお探しでしたか?」
「……あ、いえ……」
小銭の入った帽子を取り落としそうだった女性は、そこでやっと正気に戻ったように目をしばたたいた。一歩下がって小夜を上から下までゆっくり見定めると、気落ちしたように眉尻がゆっくりと下がる。
「ごめんなさい。知り合いに似ていたもので……」
そして続けられたその言葉に、小夜は思わず隣のラリアーを見ていた。
(やばい。ドッペルゲンガーでもいるのかしらん)
アンドレウ兄妹に続き、こん街角でまで言われると、少々心配になる。この世界が元いた世界とリンクしていて、それぞれもう一人の自分がいるという話なら分からないでもないが。
(とりあえず、ルキアノス様は現実にはいらっしゃらない)
いたとしても、顔と声は別々であろう。
閑話休題。
「人探しでしたら、衛兵か警吏か……どこか紹介しましょうか?」
そう申し出たのは、遅れて状況を理解したラリアーである。確かにラリアーなら、貴族と平民それぞれに顔が利きそうだし、実家は実業家である。繋がりも情報も得られそうだ。
「……いえ、結構です」
けれど女性はそれまでの悄然とした様子から一転、厳しい顔付きになって拒絶した。まるで敵の施しは受けないとでも言うような剣幕に、小夜もラリアーも目を丸くする。
その中でヨルゴスだけが、敵意を受けたように警戒を強めたように、小夜には思えた。
(……なにゆえ?)
ヨルゴスこそが知り合いだったのだろうかと、いつもよりも近い距離に立つ近侍を見上げる。だがそれを尋ねる時間はなかった。
「! それより、早くこの場を離れてください」
「え? ちょっ」
女性が、何かに気付いたように突然早口になって小夜を押し返したのだ。つられて小夜も辺りを見るが、凡人だからか、危険なものは見付けられない。
そしてその僅かな間に、女性は踵を返し、大扇を拾うと一目散に反対の群衆に紛れてしまった。あっと思った時には、もうどこにも見付けられなくなった。
「……なん、だったの?」
「さぁ……?」
取り残された形の小夜は、ラリアーと二人、首を傾げるしかない。その間にも新しい大道芸人が現れ、賑やかな呼び声とともに支度に取りかかる。
その中で。
「……追いかけましょう」
ヨルゴスが初めて、自発的な意見を口にした。
◆
提案した後はまた無言で走り出したヨルゴスに、小夜とラリアーは慌ててついていった。
ヨルゴスが先頭を行くと、不思議なほど人混みが進みやすい。だがそれでも、あの風舞師の女性の姿は見付けられなかった。
広場を二区画ほど離れた辻でやっと歩を緩めたヨルゴスに、小夜は息を切らしながら声をかけた。
「ヨルゴスさん、追うって、何があったんですか?」
「……セシリィ様の気配がしました」
「え!」
路地に順に目線を向けながらそう言われ、小夜は思わず大声を出していた。慌てて両手で自分の口を塞ぐ。それから、大分人通りの落ち着いた道の向こうを見やる。
「まさか、さっきの風舞師が……?」
彼女が、四人もの学生を誘拐したというのだろうか。とてもそんなことをする人には見えなかったが。
しかしヨルゴスは戸惑う小夜とラリアーをちらりと見ただけで、すぐに一つの路地へ向かって走り出す。
広場から離れると、建物は徐々にその規模を小さくする。壁の白漆喰が欠けていたり、木窓が下ろされていたりと、雑多な雰囲気も強い。狭い道には木箱が積まれ、可愛らしい鉢花があり、目線を上げれば金槌や葡萄や壷など、木製や鉄細工の看板がドアの上からちらほら吊るされてある。
「どこに……」
ヨルゴスに遅れないようについて行きながら、小夜もどこかにゲーム内で見た景色がないかと辺りに視線を配る。だが見えるものはどれも人が実際に住み、経年でくすみ、ヒビや汚れがある。乙女のためのゲームに、そういった現実的な描写は少ない。
そう思っていた時、足が止まった。
「ここ……」
「小夜様?」
凸凹に並ぶ屋根の間に、尖ったものが見えた。広場にあった鐘楼の三角屋根だ、と気付いた瞬間、その路地を走り出していた。
(見たことある。あれはヒロインで、しかも未遂だったけど)
逃げ出した誘拐犯が逃げ込んだ先の小屋の絵に、確か背の高い建物が描かれていた、気がする。その場面はルキアノスが喋っていなかったので、勿論高速でスキップしたが。
(でも、どの建物か全然分かんない)
だが現代の警察権のような力もない一般市民が家を一つずつ倹めていくことは、さすがに出来ない。と思っていた小夜を、ヨルゴスが物凄い速度で追い抜いた。
え、と驚く小夜の耳にも、走っているうちに「女が」とか「倒れて」という言葉が届く。
(まさか……!)
疾走以外の理由で逸る心臓を押さえ、先に十字路に辿り着いたヨルゴスに追い付く。
「ヨルゴスさん! いました、か……」
険しい顔をして立ち尽くすヨルゴスに並び、路地を曲がった先を見て、小夜は言葉を失った。
そこに、女性が倒れていた。
艶やかに輝いていた濃茶の髪はパサパサに荒れて石畳に広がり、ふっくらと肌目の整った頬は見るも無惨に荒れている。外套の下に見えるドレスまで、埃や土に薄汚れ、所々破れている。
だが何より痛々しいのは、その頬が明らかに叩いたと思われる赤みに腫れていたことだ。
「酷い……」
「……セシリィ!」
塞き止められていた水が決壊するように、その場を駆け出した。路地の隅に、まるで打ち捨てるように倒れている女性のそばに膝をつく。
「……セシリィ」
恐々と、呼び掛ける。小夜の知っているセシリィは、髪の毛一本も乱さないし、こんなことをされて甘んじているような度量もない。けれどこの白い瞼の下には、きっと綺麗な碧眼が眠っている。
「セシリィ……」
反応はない。嫌な想像ばかりが脳裏で渦巻いて、小夜は自分の手が震えていることすら気付かなかった。それでもどうにか手を伸ばす。
石畳の上に力なく投げ出された、真っ白な手。
触れる。
「!」
冷たかった。ゾッとするほど。




