何かが変わりそう
「酔っ払いは見慣れているからな。平気だ」
腕の中で静かになってしまった小夜に、ルキアノスは宥めるように声を掛けた。実際、社交に酒はつきもので、礼儀を欠いて泥酔する者はちらほらいた。それに比べれば小夜の酔いようは稚気があって可愛らしく、いつまでも愛でていたいと思えるものであった。
「忘れてくださいぃ……」
覗き込もうとするルキアノスから必死に顔を背けながら、小夜が懇願する。それがいつぞやとは逆転しているように思えて、ルキアノスはまた小さな笑い声を漏らしていた。
「忘れるかよ」
「……ッ」
仕返しとばかりに声を低めて囁けば、バッと小夜が振り向いた。今までの反応を振り返ってみて、こういう語調に弱いということは把握済みである。案の定、小夜は口をあわあわと震わせて声を詰まらせた。
「やっとオレを見た」
「!」
振り向いた瞬間に腕の力を緩め、今度は正面から抱きすくめる。ダンスの練習に付き合いだして思ったが、たかだか半年ぶりだというのに、小夜が少し小さくなったような気がした。
それだけ、ルキアノスの背が伸びたということなのだろうが。
「……な、なんで、そんな、い、色気が……!」
「色気? ……惚れたか?」
「っい、今更……!」
ルキアノスの問いに、小夜が月明りでも分かるほど顔を真っ赤にして反論する。
小夜はいつも言葉選びに脈絡がない。だが今はそれすらも面白いと思えた。喋れば喋るだけ、小夜の本音が聞ける。
今更、の続きを聞きたい気もしたが、これ以上意地悪をして小夜が本気で拗ねても困る。
ルキアノスは腰に回した腕を少しだけ緩めて、小夜の正面に顔を落とした。
「これで両想いだな」
「……………………へ?」
物凄い間が空いた。目が点になるとはまさにこのことというくらい、小夜が目を見開いている。
だから、少し不安になった。
「……違うのか?」
カマをかけたのは悪かったと思っているが、『オレのことが好き』と言ったと言って、小夜は否定しなかった。つまり、本心ではそういうことなのだと承知したつもりだったのに、この反応である。
まさかまるで見当違いの話をしていたのかと、更に顔を近付ける。小夜の瞳が、何故か更に潤んでいた。
「なっ、何ですかその聞き方! もう犯罪くさいんですよぉっ」
「なっ、何で今にも泣きそうなんだよっ?」
顔を真っ赤にして逃げようとする小夜の腰をがっつり掴まえる。ここで離したら二度と戻ってこない気がしたからだ。勿論、絶対に捕まえるけど。
「泣きますよそりゃそんな声で言われたら!」
真っ赤な顔に潤んだ瞳で怒られた。『そんな声』がどんなものかはよく分からないが、取りあえず謝っておく。
「なんか、悪かった……」
だがそれで気が済むことはなく、更に嫌々という風に首を横に振られた。
「大体、両想いって何ですか……。ルキアノス様の気持ちなんて知りませんよ……!」
これには、ルキアノスもカチンときた。ずっと掴んでいた右手首を放し、しつこく逃げようとする小夜の顎を掴んで上向かせる。
「知らないだと? そんなわけあるか」
こんなにも小夜を欲しているのに、少しも気付いていないというのか。帰るなとも言ったのに、よもや本気で理解していなかったとでも言うのか。
鈍いにも程がある。それとも意識的に鈍いふりをして、無意識的に自分の心を守っていたのだろうか。小夜が言う、醜い自分というやつを理由に。
だが、そんなものはどうでもいい。
「小夜。好きだ」
「!」
「これで知っただろ。他にまだ文句があるのか?」
小夜の濃茶色の瞳がどんどん潤んで形を失くす。心なしぷるぷると震えている気さえする。わなわなと動いても何の声も発せずにいる小夜の唇が、噛みつきたいくらいに愛しかった。
あと拳一つ分。その距離を、そっと縮める。
「……だ、ダメです、酔っ払いなのに」
完全にルキアノスの影に沈んだ小夜が、迫る唇を自由になった両手で押しとどめる。ここまでしてもまだ抗うかと思うと、むっとするような、可笑しいような気分であった。
勝手に緩む口を押し開いて、その指をぺろりと舐める。
「びゃ!」
「……甘い」
林檎酒が指に染みているのだろうかと思うくらいに甘かった。小夜がバッと両手を放し、瞳をぐるぐると泳がせる。
もう、遮るものは何もない。
「あ、あの、ルキアノス様……ッ」
「気にするな。オレも酔っている」
甘い吐息が唇にかかる。それすらも食べてしまいたいと思いながら、林檎よりも何倍も柔らかなそれに自分の唇を重ねる。
思った通り、今まで味わってきた何よりも甘く、そして熱かった。
◆
いけないことだと、最初から分かっていた。
ルキアノスは一国の王子で、その結婚相手もきちんとした家格のきちんとした教育を受けたお嬢様でなければならないことも。小夜よりも九歳も年下で、女性経験の少ないルキアノスは物珍しさに小夜を気にしているだけだということも。ファニへの傷心に、人恋しがっているだけだということも。
何より、生きる世界が違うということを。
何もかも、最初から嫌になる程分かっていたのだ。
触れ合えば触れ合うだけ、好きになってしまうということなど。
だからこそ、ずっと予防線を張っていたのに。
(なんてこった……)
そっと離れていく唇を見つめながら、小夜は呆然とそんなことを考えた。正しくは、そんなことくらいしか考えられなかった。
(好き……ルキアノス様が、私を……?)
とても信じられるような文面ではない。嫌われてはいないとは思っていた。だがそれは、単純に人間性を受け入れられているだけの話だったのではないか。ルキアノスはファニにもセシリィにも、同じように優しかったはずだ。
(だって、こんな……あり得ない……ことじゃないの?)
想定外の事態に思考が追いつかない。頭がふわふわする。現実味がどんどん失われている。自分を囲い込むルキアノスの腕だけが熱くて、地に足がついていない気分だ。
溺れてしまいたい、と思う。
現実も常識も善悪も何もかも考えることを放棄して、ただルキアノスの体温と言葉に溺れてしまいたい。射抜くような鉄灰色の瞳だけを見つめて、大好きなその声だけに耳を傾けて、一層逞しくなったその胸に顔を埋めてしまいたい。
(それでも、いいのかな……?)
いいわけがない、と理性が言う。けれど心を満たすのは信じられないほどの幸福であった。寸前まで隙間風と不安とが荒れ狂っていた心に、ぽかぽかと温かいものが満たされていく。
けれど単純に幸せというには、罪悪感が強すぎた。
「小夜?」
もう一度顔を近付けようとしたルキアノスが、浮かんでは沈む小夜に気付いて声をかける。今までと違って格段に甘く優しく聞こえるのは、気のせいであろうか。
「……な、なんで、私なんかを、その……」
好きだなんて思うのか、とは、言葉にはできなかった。恥ずかしいというのが一番だが、根底にはやはり変えようのない現実がちらつくからに他ならない。
ルキアノスを惑わせているのではないか。無駄な寄り道をさせているのではないか。誰も賛成してくれはしないのではないか。
何より、すぐに飽きられてしまうのではないか、という心配があったのだろうと、後になれば分かった。
学生の恋愛など、そんなものだ。一生続くものなど、一割にも満たない。だから余計に、年下との恋愛は怖いという感覚が、無意識にでもあったような気がする。
だがルキアノスは、小夜の葛藤などお構いなしに、こう言った。
「お前が可愛いからだが?」
しかも真顔で。
(………………………………どこが?)
本気で思ったし、本気で聞きたかったが、反応が予想できなくて、口にするのは諦めた。後で視力を聞こうと思うだけに留める。
代わりに、小夜は今日の標語・なるべく拒否しないを思い出して、素直に返事をすることにした。
「……あ、ありがとうございます」
もじもじと俯きながら、何とかそう絞り出す。顔から湯気が出そうな思いであった。
と思ったら、またぎゅうっと抱き締められた。
「わっ」
「ダメだ、可愛いすぎる……」
「へ?」
小夜の首筋に額を押し付けて、ルキアノスが呻く。一体どこが、と小夜は思ったが、無粋はやめることにした。二十八歳には情けないだけの醜態でしかないが、今はルキアノスしか見ていない。
ぎりぎりのところで押し留めていた両手を、溜め息一つ、ルキアノスの背中に回す。よしよしと、何の気なしに撫でた。
体からやっと緊張が抜ける。ルキアノスの肩越しに、満天の星が見えた。
(いや……)
空が見ている、と思った。もしくは、小夜がこの世界に足を踏み入れることを許した世界が。
(何かが変わりそうな夜だ)
天の川を見て、流れ星を見て、暈のかかった月を見て、ふとそう思う時がある。時折姿を現す綺麗なものは、何の根拠もないのに怖いくらい胸を逸らせて、尻尾すら掴ませずに消えていく。
けれどそれは年を取るごとに回を減らし、社会人になってからは、そんな夜はほとんど訪れなくなった。稀にそんな思いが去来しても、すぐに退屈な反語が後を追いかけるのだ。
そんなことあるわけがない、と。
(でも、あるのかもしれない)
少なくとも、ルキアノスとの関係は今宵、変わった。それがささやかなことなのか劇的なことなのかはまだ分からないけれど、決定的であることは確かだ。
(……今だけでも)
そうだ。今だけは、この温もりに浸っていてもいいのではないか。
糾弾も罰も、あとでちゃんと受けるから。
だから、今だけは。
ルキアノスのせいで糖度の加減が分からない……。




