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第八話 大谷の観音

 若き僧侶は、比叡山の空如(くうにょ)であった。

 織田信長が、元亀二年、比叡山を焼き討ちしたことで、以降、僧兵は途絶えたかに見えたが、信長の死後、天海僧正が比叡山を復興したことで、僧兵の残存兵力が息を吹き返したようだった。

 その後、徳川家康の寺社法度により、寺社は完全に幕府の支配下にくだった。と伝えられていたが、そうした中にあっても、薙刀片手に白い頭巾姿の弁慶が如き僧兵は、地下組織のように、この日本国の至るところで存在し続けていたのである。

 というのも、空如もその一人であった。

 彼は一見、ひとり旅をしている高野聖が如き僧侶に見える。

 しかし彼の杖は、さっと宙で振り動かせば、刃が空転し、たちまち薙刀となるのである。


 ……というようなことは勿論、平次郎は知らない。

 しかし彼は、空如の発する気迫におされて、烏天狗の姿で、すっかり硬直してしまった。

「貴様は烏天狗だろう……」

 そう言われてみるとそうかもしれないと平次郎は思う。


「そうかもしれぬ」

「それならば妖ではないか。妖は退治するものぞ」

「しかしこの大谷の地においては、この束帯姿の烏天狗こそ真なる住人であり、人間であるそちこそ、異邦人なのだぞ」

 と答えたのは平次郎ではなく、カンクロウであった。カンクロウの割れた声が、大谷の地に響き渡る。

「それは確かにそうだ。しかしこうして出会ったからにはどちらかが死ぬ定め。拙僧はまだ彼岸に渡るわけにはゆかぬのだ」

「争うことはあるまいに。それでも争うというのなら、その体、叩き斬って進ぜよう」

 というが早いか、カンクロウは一陣の風と共に羽ばたいて、空如を吹き飛ばすと、たちまちつむじの風の中に閉じ込めてしまった。


「なにを……!」


 カンクロウは長槍で、空如を突き刺そうとする。しかしその刹那、空如が唱えた真言の呪力に侵食され、たちまちカンクロウは空転、空転、空転の後に、地面に石の如く突き落とされてしまった。体がいうことを効かなくなり、土中でもがいていると、その背中に空如の草鞋が飛び乗った。


「そなた、人間ではあるまいな。これほどの神通力を、密教僧といえ、ただの人間が会得できるはずがない……」

 とカンクロウが絞りだすような声を上げる。

「拙僧は人間だ。神や仏ではない。まして妖の類でもない。比叡山で修行した後、救われぬ魂を供養しようといって、旅を続けるものだ」

「この大谷の地に何の用だ」

「大谷に観音あり、と伝え聞く。拙僧はさらなる神通力を得ることを求むる。宇野宮宿でその噂を聞いて、山林を歩いてきたが、妖気が充満していて、とても観音堂に辿り着かない。そなたはここの住人だと申したな。どこに観音堂はあるのだ……」

「結界の中……。しかしこのカンクロウの縄張りの外……」

「まだ遠いのか」

「極楽浄土よりも……」

「そんな馬鹿な」

 空如は笑った。カンクロウの背中を、草鞋で踏み締めていたが、どけるとまたしても美声で呪文を唱える。


 カンクロウは体がすっと軽くなるのを感じた。カンクロウはふらふらと立ち上がろうとして尻餅をついた。

 空如は木の根に座り込み、じっと憐れな烏天狗を見つめている。

「お坊さん。そんなに力があるのなら、ひとつ人助けをしてくれないか」

「人助けとな?」

「そうよ。人助けよ。今、このカンクロウは、菱沼平次郎という宇都宮藩の若侍に憑依している。この若侍は、おなごに取り巻く無宿人を殺して、もう藩にゃ戻れねぇと嘆いていやがんだが、それはそれとして、恋慕している阿蘭というおなごを探しているんだ。おなごはこの大谷のどこかにいるのだが、知らねえかね」


 空如は、深刻な表情を浮かべつつ、カンクロウをじろりと睨んだ。そして僧侶らしい慈悲心を起こしたのか、目を瞑ると経文を唱えた。それは神妙なる響きをもった観音経であった。

 しばらくして、空如が語ることには、

「阿蘭というおなご……。カンクロウとやら、大谷のことについてはそなたの方が詳しかろうに……。しかし、拙僧にはそのおなごの居場所がわかる。ふっとこの目に浮かんだ。美しいおなごが一人、大谷の観音像の前で手を合わせておる。すなわち、今、阿蘭というおなごは観音堂にいる……」

 言い終えると、ちらりと空如がまたカンクロウを見たので、カンクロウはドキリと心臓が波打つのを感じた。

 これは、観音堂へと案内させようとして吐いた嘘ではないのか、とカンクロウは勘繰ったのだが、空如の神通力を前にすると、怯んでしまって、とてもそのようなことを疑っている余裕はなかった。時が止まったように、あたりは静まり返った。しばらくすると、カンクロウの意識は薄らいできて、いつの間にやら、平次郎に戻っていた。


「お坊さん。一緒に観音堂へ行ってくれませんか」

 と平次郎は人間の声で言った。

「しかし、そなたに取り憑いたカンクロウとやらは、道案内できぬ様子であったぞ」

「カンクロウが道案内できぬのは妖ゆえ。仏の妙光が眩しいからでございます。この菱沼平次郎は人間であり、宇都宮藩士であるゆえ、案内することができまする」

 そう言って、ふらつく体をおして、菱沼平次郎は僧侶を引き連れると、烏天狗の姿のまま、山林を歩いていった。ここがどこなのかわからない。しかしカンクロウの知恵と、自分の知恵を総合すると、大谷観音の方向は、ぼんやりとわかる気がしたのだった。それは雲の霞みたる明月の下であった。果たしてそこに阿蘭はいるのだろうか……。

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