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第四話 妖猿

 自分が今や、カンクロウに憑依されたことは菱沼平次郎にも明白な事実だった。


 後になって平次郎自身、知ることになるのが、このカンクロウというのは、大谷(おおや)カンクロウという名で知られている、大谷の地を根城に飛び廻る烏のもののけであった。


 奥州道中と日光道中の追分(おいわけ)である宇都宮宿は、宿場であると共に、宇都宮藩の城下町でもある。

 カンクロウに憑依された平次郎は、烏の(つら)では藩屋敷にも戻らぬし、宿場でも化け物扱いされるばかりで、阿蘭を頼る他、生き延びる道はなさそうだった。


 といって、その阿蘭は、武田武士の意志を継ぎ、幕府転覆を宿願とする女賊であるから、どのみち平次郎の将来は、お先真っ暗というわけであった。


(もうこうなったら、もののけとして生きてゆく他はない)

 と、杉林の木陰から宇都宮城の天守閣を眺めながら、平次郎は悲しく思うのだった。


「そう悲観するでねえ。このカンクロウが憑いているんだから、おめえさんは万事、大丈夫だ!」

 と烏の楽観的な声がどこからか聞こえてきて、平次郎は無性に腹が立った。


(何が大丈夫なものか……宇都宮藩士として真っ当な人生が歩めたはずなのに……)


「しかし阿蘭っておなごを助けたのはおめえさん自身じゃねえのかい! 今更泣き言をゆうねえ! おめえさんが選んだ道じゃねえか!」

 烏のもののけの言うことが当たっていればいるほど、平次郎の気持ちは解消する術も無くて、無性に苛立ってくるのであった。


「そんなにお腹立ちなら人でも斬ってみるかい。人を斬りゃ、ちょっとはスッとするぜい」


 平次郎にはそんな度胸もないのだった。


「しかしだな、平次郎。何度もゆうようだが、おめえさんは幸せもんだぜ。阿蘭っておなごの漢として生きてゆく道がちゃあんと用意されてんだし、このカンクロウが憑依していりゃ、並の人間には手も足も出せねぇ、立派なもののけなんだぜ。ビクビクすんねぇ……」


 平次郎は、その言葉を聞いているうちに、妙にこのカンクロウという化け物が、妙に頼もしく思えてきた。

 確かに、もののけの呪力を持つ自分が、宇都宮藩士に捕えられるということは、当分無さそうだった。

 それに、平次郎は、阿蘭というおなごと、わずかばかり運命を共にしたに過ぎなかったにも関わらず、すでに彼女に魅了されてしまっているのだった。


(阿蘭に会いたい……)

 平次郎は、のそりと立ち上がり、ふらふらとした足取りで、大谷の山奥へ向かって、道なき道を進み始めたのだった。


 ……どれほど歩いたことだろうか。

 霧深き森の中では、まったく方角も掴めない。

 大谷の奇岩群も見えてこないので、これでは阿蘭に再会することもできぬ、と平次郎がひどい気鬱に悩まされていると、

「平次郎。おめえさんは猿のもののけと戦わなきゃ阿蘭と再会できねえようだぜ!」

 という烏の声が天に木霊した。


「猿の妖怪だと!」

 平次郎が叫ぶや否や、空から一匹の猿が飛びかかってきた。

 平次郎は、腰の太刀を抜きながら、杉の枝へと跳び上がる。

 刀身が眩く宙を舞ったものの、それは空振りであった。


「なんだ……あの猿は……この山のあるじか……」

 と平次郎は、杉の大木にしがみつき、木の枝にぶら下がってこちらの様子を見ている、一匹の醜怪な妖猿を見据えて言った。


「このあたりの山にゃ、烏もいりゃ、猿もいるってことよ。そんで、もののけ同士の喧嘩出入りなんて茶飯事なんだぜ」


 そんなものに巻き込まれてはたまらない、と平次郎は思った。猿のもののけを前にして、背を向けるわけにもいかないけれど、わざわざ敵を作って、斬り結ぶ理由もない平次郎なのであった。


「もし、猿のもののけよ。わたしはそなたの敵ではない。ただ阿蘭というおなごの元へとゆきたいだけなのだ」


 と人間の声で語りかけると、猿のもののけは、しばらく呆気に取られたように、平次郎の顔を見つめていた。


「おめえ、大谷のカンクロウじゃねえのかい。見た目はそっくりだが、声は人間のものとしか思えねぇ。もののけ違えだったら先ほどの狼藉、大変、申し訳ねぇ」


 と猿のもののけは、弁解がましいことを冷や汗をかきながら語っている。


「わたしは菱沼平次郎という人間だ。宇都宮藩士であるぞ」


「ずいぶんとみてくれの変わった人間だな。だいぶ苦労したことだろう」


「そうかもしれぬ。それで、阿蘭というおなごを知らぬか!」


「このところ、人間なぞは見ていねえ。この山にいるのは魑魅魍魎ばかりだ」


「それならば大谷の地に案内してくれぬか」


「大谷ならこの先だ。ゆくならひとりでゆきな。こちとら、カンクロウの野郎となにぶん喧嘩出入りの真っ最中だ。通り抜けてゆくがよいさ」


 そう言うと猿は、他の木の枝に飛び移って離れて行こうとする。


「かたじけない。礼を申すぞ!」


「なに、礼を言われるこたぁした覚えがねえ! だが、わしの名をよく覚えておくがよい。妖猿の大将、タカトビのゴンジュウロウ!」


 杉林の中にはその猿の声ばかりがしばらく残っていた。菱沼平次郎は、その名を聞き取れなかったが、カンクロウが申すところによれば、高跳びの権十郎という妖猿であるという。そして、この権十郎との出会いが、後々に縁となって、大きな物語を創出することに繋がるのであった。


 

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