1-18 朗らかなお姉さんだ。きっといい人なんだろうなあ。
以後の帰り道は極めて順調なものだった。
探索者たちが頻繁に通るルートを中心に進み、少しでも敵影が見えたら迂回路を使って安全を優先する。おかげで道を先導する私の精神的負担が非常に軽くなった。
道を知っているというだけでこれほど違うものなのか。これまでの道中に比べればまるでピクニックのようだ。まだ深層であることは変わらないので気は抜けないが、それでも大分楽をさせてもらっていた。
(……いや。道を知ってるって、だけじゃないかも)
ひょっとすると、命がけの迷宮探索は少しだけ私を成長させたのかもしれない。今までより鋭敏になった感覚で見る迷宮は、遠くまで透き通って見えた。
ほどなくして迷宮の通路を埋め尽くす水晶がまばらなものとなり、代わりに湿った岩肌が姿をあらわす。深層を抜け、中層に入ったようだ。
第一迷宮・洞窟のクレイドルが中層、地底湖。巨大な地底湖を中心に脇道が張り巡らされた、湿度の高い洞窟だ。深層に比べて魔力濃度は薄く、棲み着く魔物は比較的弱いが、湖を中心に広がる生態系は多種多様を極める。
以前ならこの場所を歩くのも緊張感があったが、今はそこまでの威圧感を感じない。もし魔物と出会ってもなんとかなるだろうと思っていたので、罠の解除も最小限に、最短ルートを突っ切ることにした。
「あ、アルタ。あれ」
「ん?」
地底湖の畔を進んでいた時、湖を泳ぐ一匹の魔物が目についた。水面から頭だけを出して泳ぐ、特徴的な爬虫類。アルザテラワニの迷宮種だ。
そういえば、余裕があればあれを狩ろうなんて話をしていたような気もする。
「せっかくだし」
念動力・魔手を発動する。遠隔から伸ばした魔力の手でワニを掴み上げ、手元まで引き寄せた。
遺宝の力を使わなくとも、私自身の魔力だけでこれくらいはできる。さすがに力任せにすり潰すだけの魔力はないが、ちょっと掴んで持ってくるくらいのことは簡単にできた。
「アルタ、これ斬っていいよ」
「お前なぁ」
空中に吊るされてじたばたとあがくワニを、アルタは一刀で切り伏せる。必要最小限の太刀筋で、魔物の命が刈り取られた。
結局アルザテラワニの討伐依頼は受けてこなかったが、討伐証明部位を持っていけばいくらかのお金になるかもしれない。もし他のパーティが依頼を受けていた場合はタダ働きになるが、その場合は仕方ないことだ。
そんなことを考えていると、アルタに頭を小突かれた。
「弱いものいじめするな」
「えぇ……? 倒そうって話してなかった?」
「今更こんなの倒してもなんにもならんだろ」
「お金にはなるよ?」
「もっと強いのにしとけ」
まあ……。それもそうかもしれないけど。
時々出会う魔物を追い散らしながら進み、私たちは上層に登った。上層ともなれば喧嘩を売ってくる魔物も少なくなり、散発的に出会った魔物も風魔法・槌風で鼻先を殴ってやれば引き返していく。
こうなってしまえば、怖いのはもう罠だけだ。アルタの凶運は相変わらず魔法陣の罠を引き寄せたが、遠くから魔法を撃ちこむだけで安全に解除できた。最初からこうすればよかったと、私は今更ながらに後悔した。
そんなこんなで帰り道を進み、ようやく入り口の光が見えた時、私は安堵のため息をついた。
「やーっと帰ってこれた……。あー、つっかれたー」
「腹減ったなー。肉食おうぜ、肉」
「僕はお風呂入って十二時間ぐらい寝るよ……」
ここまで来れば魔物に襲われることもない。後はもう帰るだけとなって、いよいよ私は気が抜けた。
しかし、気を抜いたからと言って目を閉じたわけではない。注意を向けてなくとも見えるものは見えるし、聞こえるものは聞こえるはずだ。それなのに。
目と鼻の距離に近づくまで。
私は、その女の存在に気が付かなかった。
「おかえりなさい。お待ちしておりましたよ」
声をかけられて初めてそこに何かがいることを認識する。それは、姿形としては人間の女だ。
美しい、女だった。
背丈は私よりも高い。亜麻色の髪は銀河のように煌めいて、顔立ちはどこか超然とした美を惜しげもなく晒している。素肌は陶器のように美しく、微笑みは女神さながらだ。にこにこと微笑んでいるはずなのに、感情は帳を下ろしたように伺い知ることが出来ない。何もかもを美しい微笑みの裏に隠してしまう。そんな、凍てつくほどに顔がいい女だ。
服装は特別なものではない。ふんわりとした白いブラウスにコルセット・ベスト。厚手のロングスカートにワークブーツ。街でもよく見るような服装を、ごく自然に着こなしている。かわいらしいお嬢さんといった出で立ちだが、この迷宮という場所にはどう見てもそぐわない。
その人間の女が、私の目の前にいるはずなのに。
まるで背景の一部であるかのように、存在感が希薄だった。
「え、と……?」
「あ、ひょっとして見えづらかったですか? すみません、人前に姿を現すのは久々で……。今、調整しますね」
女が何かをしたことはわかった。逆に言えば、それしかわからなかった。
次の瞬間、希薄だった女が凄まじいまでの存在感を放つ。存在感なんてものではない。それはもはや暴力の域だ。ただ相対しているだけなのに、自分という存在がかき消えてしまいそうになるほどの強大な威圧を感じる。
それはまるで、目の前に神があらわれたかのようだった。




