第3話 強引なところも
あの場にいることが、どれほど危険なのかは分からない。けれど初対面の相手を横抱きにするほどのことだ、ということは理解できた。
彼の反応を見る限り、尋常でもなさそうだし、ここは大人しくしていよう。暴れてこの顔に傷がついたら、大惨事だ。この世界の女性に恨まれてしまうかもしれない。
そんな私の心境とは裏腹に、彼はすぐにこの場を離れようとはしなかった。危険だと言っていたのにもかかわらず、である。
辺りを見渡しているところから、どちらへ行くのか決めかねているのかもしれない。今は下手に話しかけないでおこうと思った矢先、彼が何かに気づいた様子だった。すぐに近くの草むらに移動したのだ。
どうして、こんな近くに?
私を横抱きにしたまま、彼が腰を下ろしたからだ。さらに密着したような気がしたが、気にしている暇など、私たちにはなかった。
「おい、いないぞ。ここにいるんじゃないのか?」
突然、さっきまで私たちがいた場所から声が聞こえたのだ。視線を向けると、頭から黒いフードを被った二人組の姿が見える。
辺りを見渡す素振りや発言から、誰かを探しているらしい。私は思わず横を向いた。けれど彼は顔を横に振り、顎をしゃくって私のことだと言っているようだった。
なぜ? と首を傾げるが、彼はただ前を見据えるだけで応えてくれない。
「反応は確かにここだった」
「だが、誰もいないんだから、間違えたんじゃないのか?」
「そんなことはない。さっきまでここを指していたんだ」
「突然、消えたとでもいうのか? まさか、相手はそれほどの力を持った人物……だと?」
「それは当然だろう。我々の目的を遂行するために呼び出したのだから」
「……これが本当だとしたら、俺たちの手に余るのではないか?」
「……そうだな。一旦、戻った方がいいかもしれない」
静かにそのやり取りを見守っていると、黒いフードの男たちは頷き合い、次の瞬間。
「っ!」
男たちの足元が光り出したのだ。書店の帰り道、私が体験したのと同じ光。消える男たち。そして探している人物。危険だという彼。嫌でも答えが脳裏に浮かんだ。
「どうやら行ったようですね。ん? どうしたのですか?」
「そ、それはこっちのセリフよ。あなたはあの男たちが来ることを知っていた。探している人物が私だということも。つまり、あの男たちの仲間なんでしょう?」
本当は、今すぐにでも彼から離れたかった。けれど体は反対に、彼のシャツを握り締めている。
「仲間だったらわざわざ危険だと告げず、彼らにあなたを差し出しています。座標から離れた位置に召喚されたあなたを見つけた、となれば報酬くらい貰えそうですからね」
「……で、でも事情を知っているじゃない」
「事情を知っていなければ、あなたを助けることもできませんよ」
それは……そうなんだけど。なんだろう。問い詰めている方はこっちなのに、なぜか私の方が困惑していた。何か、そう何かを身をとしているような気がしたのだ。
「……どうして?」
だからだろうか。脈略のない言葉が口から出た。
「それはあなたを助けたことについてですか? それとも、あの男たちの事情を知っていることに対する疑問でしょうか?」
「……分からない」
でも、疑問を投げかけずにはいられなかった。まるで駄々をこねる子どものようだとは思ったが、脳が処理し切れなかったのだ。
私は俯き、彼の胸に顔を埋めた。あの男たちの仲間ではなくても、彼だって私の敵かもしれない。けれど縋れる相手が彼しかいないのだから仕方がない。
「とりあえず、この場から離れましょうか。またあの男たちが戻って来るとも限りませんから」
その言葉に思わず体が跳ねた。すると、彼は優しく「大丈夫です」と頭を撫でる。私の心に、再び「どうして?」という言葉が浮かんだ。
どうしてこの人は、初対面の私にここまでしてくれるのだろうか、と。そう思った途端、目の奥が熱くなり、涙が頬を伝った。声には出さなかったが、彼も気づいていたのだろう。
離れたい、と言っていたのに、すぐに移動しなかったからだ。
***
「ごめんなさい」
移動している最中、顔を隠した方がいい、ということでそのまま彼の胸に埋めていたのだが、まさか服を濡らしていたとは思わなかったのだ。
「服は洗えますから問題ありません。あなたの方は、もう大丈夫なのですか?」
「あっ」
「すみません。まだ混乱していますよね。ここは私の家なので、心配はいりません」
何が心配いらないのか分からなかったが、私は彼の視線から逃れるように俯いた。泣いたせいで、顔がぐちゃぐちゃになっているはずなのに、向き合って座っているなんて……。
けれど彼は、別の意味として受け取ったようだった。
「責めているわけではありません。そうですね……あっ、自己紹介がまだでした。私はグリフィス・ハウエルと申します」
「反田梓葉……です」
すると、グリフィスは私の名前を、何度も反芻した。始めは言いづらさを感じているのかと思っていたが、どうやら違うようだった。
「あの男たちから身を隠すには、目立つ名前ですね」
「そんな変わった名前だとは思わないけど」
別にキラキラネームでもないし、とグリフィスの方を見ると、なぜか微笑まれた。いや、ホッとした顔なんだとは思うけれど、何しろ常人場慣れした美しい顔。目元が緩み、口角が上がっただけで、眩しく感じるのだ。
「どうかしましたか?」
「いえ、あまりに美し過ぎて」
「……嫌でしたら、顔を隠しますが」
「それはダメ! 絶対に!」
美しい顔を隠すことの方が罪だわ。
「つまり、この顔を気に入ってくださった、ということですか?」
「え? まぁ、綺麗な顔を嫌いな人はいないと思うけど」
「それは良かったです」
何が良かったのかは分からないけれど、とりあえず顔を隠さないことに安堵した。けれどその直後に、グリフィスから爆弾発言が飛び出した。
「これから共に暮らすのに、嫌だと言われたら大変ですから」
「くら、す? 誰と誰が?」
「私とあなたです。名前もそうですね。アゼリアとこれからは名乗ってください」
「どうして?」
「先ほど目立つといったでしょう」
確かに聞いたけど、変える理由が分からない。
「あの男たちから身を隠すためには、この世界の人間だと思わせなければなりません」
うんうん。木を隠すなら森の中、というからね。
「けれどあなたを保護してくれる場所は、今のところありません。だから――……」
「あぁ、そうか。今の私は、身寄りがないんだ」
「そう悲観しないでください。そのために今から提案しようとしていたのですから」
「提案?」
あっ、それで共に暮らすってことか。けれどグリフィスが言っているのは、ただ暮らすだけではなかった。
「はい。私と偽装結婚してもらいます」
「……え? なんで?」
「あなたの身元を保証するためです」
「それなら結婚しなくても……」
「ただの同居人では、何かあった時に困りますから」
「何かって、何?」
この世界の常識は、これから学んでいけばいいのだし、グリフィスに迷惑をかけるつもりはない。けれどグリフィスが危惧しているのは、そのことではなかった。
「勿論、誘拐ですよ」
とてもいい笑顔で言われた。そんなこと、絶対にあり得ないわ! とは言えず、グリフィスの提案を呑むしかなかった。
つまり最初から、この偽装結婚に私の拒否権などなく。私はグリフィスの妻、アゼリア・ハウエルとして、この世界で生きていくことを余儀なくされたのである。




