第19話 手を伸ばした先
「それで今日も、落ち込んでいるのですか?」
入浴を済ませた後、前回の反省を活かした私は、思い切ってグリフィスに今日の出来事を打ち明けた。
案の定というべきか、返ってきたのは、呆れた声だった。
「だ、だって、あっちでもこっちでもダメだったんだよ。これで凹まない方がどうかしているわ」
こんな愚痴をグリフィスにいう自分も、大概どうかしている。けれど帰り道に美味しいものを食べに行ったり、帰ってきたら帰ってきたで、お風呂上がりにカモミールティーを出されたりしたら、嫌でも愚痴が自然と口から出ていた。
「……アゼリアは、初めからなんでもできるのですか?」
「できるように見える?」
「いいえ。最初の頃、家事を手伝ってくれましたが、お世辞にも――……」
「あ、あれは! この世界の道具とか、家の中の物とか、何をどうしていいのか分からなかったからで」
けして掃除が下手だとか、洗濯の干し方がイマイチだったわけじゃない。だけどそれ以降、グリフィスがさせてくれないため、情報を上書きできないでいただけである。
「あの後も家事をさせてくれたら、絶対に上手くなっていたと思うわ」
これでも前の世界では一人暮らしをしていたのだ。私だってこの世界のやり方を覚えれば、グリフィスほどはできなくても、少しくらいできたはずである。
「なら、何一つ問題はないですね」
「え?」
「誰だって最初から上手くいくわけがないんですから、気を落とさないでください」
「……グリフィスでも?」
「勿論、ダメダメでしたよ。何をしても敵いませんでした」
何に対してそう言っているのかは分からなかったが、心が少しだけ軽くなったような気がした。だからだろうか。向かい側に座るグリフィスの隣に行き、そっと顔を覗き込んだ。
「グリフィス?」
私よりも苦しそうな、悲しそうな顔が、そこにあった。思わず手が伸び、金色の髪に触れる。初めて感じた感触に驚いて手を引っ込めようとしたら、なぜか逆に掴まれた。
「ごめんなさい」
「どうして謝るのですか?」
「だ、だって……勝手に触れようとしたから、悪いなって思ったの」
「悪いのですか?」
「え、えぇぇぇぇぇ」
な、何、急に。これは逆に触れてほしいってこと? グリフィスが、私に!? とはいえ、はいそうですか、ともいかないのよ!
けれど手を引っ込めることができなかった。そんなに強く掴まれていないというのに。こういう時でさえ、グリフィスは私の気を遣う。
遠慮しないでほしい、と常々思うのに、またさせてしまった。どうしたら、本心を見せてくれるのだろうか。
「もしかして、撫でてもいいの?」
その綺麗な顔の上にある金髪を、私のようなものが。
「どちらかというと、好きなんですよ。昔から撫でてもらうのが」
「……誰に?」
「姉です。何をしても敵わないから、せめて身の回りのことはしてあげようと。そしたら、いつも撫でてくれるんです「ご苦労様。あなたがいてくれて、本当に良かったわ」って。それがほしくてやっていたような気がします」
珍しい。グリフィスが自分のことを話すなんて。それに「何をしても敵わない」ってさっきの続きかしら。家事全般を担うようになった言い訳のようにも聞こえるけど、お姉さんのことが好きだから、褒められるのも撫でられるのも好きなのね。
そう思ったら、自然と手が前に出ていた。上に伸ばしたことで、掴んでいたグリフィスの手が離れる。
「いつもありがとう、グリフィス。こうやって悩みを聞いてくれたり、身の安全を心配してくれたり、時々過剰かなって思うこともあるけど。この世界に来て、最初に出会ったのがあなたで良かったわ」
二番煎じだとは思ったし、グリフィスの思い出を穢してしまうのではないか、という不安もあった。だけど私もグリフィスの心を癒してあげたかったのだ。いつも私の心を解してくれるから。
「では、抱きしめてもいいですか?」
「え?」
「人肌を感じたくて」
「ひっ!」
人肌!? え、私たち偽装結婚で、本当の夫婦じゃなくて。だから、まだ……と思っていたら、背中に腕を回され、気がつくとグリフィスの体が近距離にあった。
強引に抱き寄せたって怒りはしないのに、どこまでも優しい。だから私も、さらにグリフィスの体に密着するように抱きしめた。
すると、なんとなくだけど、安心感が増す。心臓の音が聞こえるからかもしれない。
一定のリズムをしていて……ドキドキが速まったり、増したりすることがどうしてないの!? 自分から言ったから?
思わず顔を上げると、今度はグリフィスの顔が迫ってきた。驚いて目を瞑った瞬間、頬に温かいものが触れた。
これってまさか! いや、でも、なんか面積大きくない?
「っ!」
恐る恐る目を開けると、確かにグリフィスの顔が近距離にあったものの……これは、どういう状況? 頬と頬が触れあっている?
異世界と私のいた世界とでは、こういうのも認識が違う、とでもいうの?
だけど、グリフィスは人肌って言っていたから……つまり、そういうことなのかも。頬の触れ合いもまた、人肌だし……というのは無理はあるか。
「グリフィス……くすぐったい」
すると躊躇いもなく、すぐに離れていく顔。頬に感じていた温もりがなくなり、少しだけヒヤリとした。まるで寂しいといっているかのように。
それが心へと移ったのだろうか。温もりを求めて、再び顔をグリフィスの胸に押し付けた。
「すみません」
頭上から謝罪の言葉が降って来る。何が「すみません」なのか、思った瞬間、突然睡魔に襲われた。
「姉の、ウルリーケの魔力を感じたら、懐かしくて……」
グリ、フィス?
「どうして、あなたから感じるのでしょうか」
悲しいの? 今日、浮かんだタロットカードの白ウサギみたいに。
「もしかして……いえ、すみません」
再び謝るグリフィスに、私は声をかけたかったが、襲い掛かる睡魔に抗うことはできなかった。だから、その後に続いた言葉がなんだったのか、知らずに眠りに落ちた。
「アゼリアが占いをしなければ、ウルリーケもまた……」




