偶然の出会い
30年来の友人と飲みに行く約束をしたのは6月上旬、梅雨入りしたばかりの金曜日だった。
駅から100m程先の一角にある狭くて薄汚い大衆居酒屋は、もうずいぶん昔から行きつけの店だ。
小田 尚照はその日の仕事帰りに友人と共に訪れ、入口傍の小さな2人掛けテーブルに座り、いつものように酒を酌み交わした。
1時間ばかり雑談とも言える会話を繰り広げると、程よく酔い始めた友人の携帯電話が音楽と共に震え始めた。
それまで陽気だった友人はさも面倒くさげに、渋々といった態度でスラックスのポケットからそれを取り出すと、案の定かみさんからだと大袈裟な溜息を零した。
うんざりとした表情を見せながらもすぐさま通話ボタンを押したのだから、それほど嫌がってもいないのだろう。
向かいにまで漏れ伝わる妻の大きな小言にはいはいと聞き流す友人の様子を見つめながら、今夜はそろそろお開きだなと苦笑を浮かべた。
すまん、また今度と詫びながら先に帰ってしまった友人を見送ると、1人テーブルに取り残される。
目の前に置かれたビール瓶の中身もつまみ程度の惣菜も、まだ半分ほど残っていた。
自分以外の周囲からガヤガヤと響く騒々しさに次第に居心地も悪くなり、自分も早々に引き上げようとテーブルにグラスを置いた。
席から立ち上がるため一度背後を気にすると、ちょうど同じタイミングで脇を通り掛かろうとする1人の男と視線をぶつけた。
偶然にも見覚えのある男の顔だった。
尚照は立ち上がることもすぐに忘れ、無意識に男の顔をじっと見上げた。
「こんばんは」
軽く会釈をし静かに声を掛けたのは彼の方だった。
確かに彼の視線は自分に向けられていたので、ようやく我に返った尚照は慌てて会釈を返した。
「こんばんは」
同じ挨拶を返すと、彼は再び軽く頭を下げる。
そのまま尚照の背後を通り過ぎ、隣のテーブルに腰を下ろした。
予想外の出会いに確かに驚いた尚照は、店を出るタイミングをすっかり逃してしまった。
再び席に腰を落ち着けると、テーブルに残ったビールを一口ゆっくりと含んだ。
仕事帰りに立ち寄ったのだろうスーツを纏った彼は、尚照よりずいぶん若い男だ。
おそらく親子程に年の開きがあるだろう、見た目は30代前半の印象を受ける。
視線は手に握るビールグラスに向けたまま、隣のテーブルに座る彼にさりげなく意識を向けた。
とうに青年と言える齢は過ぎただろう落ち着いた彼の佇まいは、自分には元から存在しない育ちの良さを感じさせるものだった。
彼より遥かに年長者であるのは自分なのに、先ほど目を合わせ挨拶を交わした時は思わず動揺した。
それに、まさか彼に声を掛けられるなど思いもしなかった。
尚照は確かに以前から彼を見知っていたが、どうやら相手も挨拶の言葉を掛ける程度には自分の顔を覚えていたらしい。
ただの挨拶程度でも、せっかく彼の方から声を掛けてくれたのだ。
この際互いに1人同士隣り合わせの時間、気軽を装い声を掛けてみればよいのではないか。
仕事帰りかい? ご苦労様と一言明るく話しかければ、おそらく彼は何かしら答えてくれるだろう。
けれどそれをしないのも尚照にとって当然のことだった。
そして、それは彼にとっても同じだろう。
互いの立場の相違――――――分厚く隔つ大きな壁は大衆居酒屋の隣同士でさえ軽い世間話すら憚れる。
有名企業の将来有望なエリートサラリーマンとしがない清掃員。
互いの共通点は共に働いている場所だけだ。
「加我谷お疲れー、早いじゃん」
「先輩、お待たせしました」
隣り合わせのわずかな時間が過ぎ、途切れることのない周囲のざわめきの中、彼と同じくスーツ姿の2人の男が掛け声と共に店に現れた。
どうやら同僚と待ち合わせだったらしい、男2人は到着するなり彼の向かい席に勢いよく腰を下ろした。
それもそうかと、尚照はグラスを見つめたまま今さら1人納得した。
彼のような男が1人でこの薄汚い大衆居酒屋に立ち寄るとは、到底思えない。
隣りで同僚達と話を始めた彼に間違っても声を掛けなくて良かったと、内心息を漏らした。
「ちょっと槙先輩! 最初っからそんなに飛ばさないでくださいよ!」
「お前こそさっきからチビチビチビチビ…………何だそのみみっちい飲み方は! 仮にも男だろ、もっと豪快に飲め」
「俺は自分の限度をちゃんと知ってるんですよ。誰かさんと違って無茶はしないだけです」
「若年寄りか! 広夢、お前いくつだ? まだ25だろ」
「人様に迷惑をかける生き方だけはしちゃいけないって死んだばあちゃんがよく言ってました。俺のポリシーです。槙先輩こそ、そんなこと言っちゃっていいんですか? 調子に乗ってこないだみたいに酔いつぶれたって容赦なく置いて帰りますからね?」
「ずいぶん生意気な口利くようになったじゃねえか広夢…………一体今まで俺がどれだけ面倒見てやったと思ってんだ!?」
「槙先輩にお世話になった覚えなんて一度もありません。それどころか、酔いつぶれた先輩の面倒見るのはいつも俺じゃないですか!」
「当たり前だ、俺はお前の大切な先輩だぞ!」
「痛い! 槙先輩痛いって! ちょっと加我谷先ぱーい、笑ってないでこの人何とかして下さいよ」
ただの同僚同士というより砕けた会話を繰り返す隣の様子を耳にしながら、帰りそびれた尚照も再びちびちびと残ったつまみを食べ始めた。
ほんの少しくらいなら、さり気なく気付かれぬよう若者達の会話を楽しむくらい罰が当たらないだろう。
彼のプライベートを覗き見ているようで少しばかり後ろめたいのも事実だが、それでも久しぶりに湧き上がった好奇心が勝り、尚照をこの場に留めさせた。
「加我谷先輩聞いてくださいよ。槙先輩ってば、さっき俺のこと迎えにわざわざ来てやったとかなんとか言って、ちゃっかりうちの小林さんに合コンやろーってしつこくナンパしてたんですよ」
「経理の小林さん、お目目クリクリでめっちゃ可愛いよねぇ」
「ついこの前はうちの吉田さんにも同じこと言ってナンパしてたじゃないですか! 槙先輩、もう経理出入り禁止です」
「ちょっと広夢ちゃーん、そんな固いこと言わないの! お前もちゃんと混ぜてあげるからさ、今度の合コン」
「元から行く気ありませんよ。だって俺彼女いるし」
「だからお前は固い、固すぎるんだ! いいか? 合コンと彼女は別もんだろ、要はバレなきゃそれでいいんだ」
「俺は彼女一筋なんです。加我谷先輩、この人の軽くていい加減でどうしようもない性格なんとかしてくださいよ」
「槙は口だけだよ。彼女ができればいい加減なことはしない」
「えー本当に? 信じらんない……」
「……まあ、長続きもしないけどな」
「おい広夢、俺の軽くていい加減でどうしようもない性格以上にどうにかしなきゃならない奴が今ちょうど目の前にいるだろ」
「……え? どこに? 俺の目の前には加我谷先輩しかいませんけど?」
「ほら、ちゃんといるじゃねーか」
「は? もしかして加我谷先輩のこと言ってます? 先輩のどこに問題が?」
「どう考えても問題大ありだろ。いいか? こいつは俺がいくら合コンに誘っても完全スルーだ」
「それは仕方ないですよ、加我谷先輩はこう見えて結構シャイで人見知りだし、合コンとか苦手だから……」
「そんなのん気なこと言ってられるのも今だけだぞ! 今からこんなに枯れやがって、成人男として問題大ありだろ」
「……それはまあ、確かに」
「このままじゃ彼女どころか好きな女もできないぞ。こいつはそれでも平気な顔を装ってる。どう考えたってこいつの将来お先真っ暗だろ」
「槙先輩! それはいくらなんでも言いすぎですよ!」
「広夢、よく考えてみろ。このままじゃこいつは結婚もできず一生独身だぞ。その先に待ってるのはなんだ? 言ってみろ広夢」
「…………なんですか?」
「孤独死だ、孤独死」
「孤独死……」
「どう考えたって、こいつが一番心配だろ」
「た、確かにそうかも…………加我谷先輩! 孤独死なんて絶対駄目です! 俺の大切な加我谷先輩が1人さびしく孤独に死んでいくなんて、俺そんなの絶対耐えられません!」
「そうだぞ加我谷、後輩がこんなにも心配してるんだ。お前もそろそろ合コンに出るなり少しは努力するべきなんじゃないのか?」
「大袈裟だよ……槙、これ以上広夢を煽らないでくれ」
「でも先輩、今回限りは槙先輩の言う通りです! 合コンに参加して下さい! 前向きに努力すれば先輩にも良い出会いがきっと!」
「良い出会いは努力して得るものじゃない、自然と訪れるものだよ。無駄な努力はするものじゃない」
「せんぱーい……」
がっくりと後輩と思われる男が項垂れた姿を横目で眺めた尚照は、ようやく自分の席から静かに立ち上がった。




