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いつもの席で珈琲を  作者: よろず
第一章
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シードルとりんごジュース6

坂上(さかがみ)さんって仰るんですか?」


 昨夜唯さんはまたうちに泊まった。酔い潰れた訳じゃない。そういう事をした訳でもない。ただ側にいて、お互いのいろんな話をした。


「名字、言ってなかったでしたっけ?」

「聞いてないです。昨夜、"坂上(さかがみ)の家が"って何度も言うのでそうなのかなと思っていたくらいです」


 今唯さんは、黒のタイトスカートの女性用の制服姿でバイトの研修中。

 朝起きたらバイトをやってみますって宣言したから、陣さんがさっさと動いた。まるで逃がさないって感じで、俺も唯さんも少しビビった。


「名字が"坂上(さかがみ)"だから"喫茶坂の上"。安易でしょう?」


 唯さんはメモ帳とペンを持って唸ってる。


「もっとこう…"人生の坂の上"とか、そういう深い意味かと」

「あぁ。お客さんにもよく言われます。この辺坂ないですから、本店が坂の上にでもあるんですかとか聞かれた事もありますね」


 なるほどと呟いた彼女は、その事までメモに取ってる。やけに熱心だなって、俺は小さく笑う。

 朝は早めに仕込みを終わらせて、着替えと必要な物を取りに行ってた唯さんが戻って来てから陣さんが仕事内容の説明と契約の書類を書いたりした。その後は午前中の客足が緩やかな時間を使って、俺がドリンク作りのレクチャー。最初は来店したお客さんに水とおしぼりを運ぶ所から。珈琲淹れるのは、修行してもらう。


「バイト、した事あるんですか?」


 接客が手慣れた感じだったから聞いてみた。そしたら彼女は、ほわりと笑って頷く。


「母子家庭でしたから色々やりました。カフェのバイト経験もありますよ」

「なら、心強いですね」

「頑張ります」


 燃えてる彼女は可愛い。

 昼のピークに、バイト慣れしている彼女の存在は助かった。接客全般を彼女が担当してくれて、俺はドリンク作りと唯さんのフォロー。状況を見て調理場のフォローにも回れたから、いつもよりスムーズで楽だった。人手って大事なんだな。

 常連の爺さん婆さん達に唯さんは好評で、会社員のおじさん達も女の子がいると華やいで良いねなんて言って喜んでた。


「昼時に、あんなに春樹さんファンの女性客がいるとは思いませんでした…」


 昼ピーク後の飯休憩。一緒に入ったら唯さんが拗ねて膨れっ面してる。


「ファン?気のせいじゃないですか」


 昼は確かに他の時間帯よりも若い女性客が増える。だけどそれは、陣さんが作るうまいランチ目当てで近くのOLさんが来てるだけだ。


「無自覚ですか?無自覚女たらしですか?」


 濡れ衣を着せられた。


「昼のピークなんて忙しくて、色目使う暇もありませんよ。真面目に接客してるだけです」

「その硬派な感じが良いんですよ。私が接客に行くとあからさまにがっかりされました」


 今日の昼飯はナポリタン。俺が作った。フォークを握った唯さんが不機嫌な様子でナポリタンを口に運ぶ。むぐむぐ咀嚼して、顔が輝いた。


「お味はいかがでしょう?」

「すっごくおいしいです!」


 機嫌が良くなった唯さんがおいしそうに夢中で食べてくれるから俺の頬は緩む。俺も自分の分を食いながら、彼女の顔を観察してた。


「例えファンとやらがいるんだとしても、俺が自分から話し掛けた女性客は唯さんだけです」


 唯さんの顔がナポリタンと同じ色。うまそうだ。


「…どうして、話し掛けてくれたんですか?」


 食事が終わってから唯さんに聞かれた。じっと見つめられて、俺は微笑む。


「フォンダンショコラが、おいしく出来たんです」


 それだけかって顔してる。不満そうな顔が可愛くて、その表情を堪能してから俺は続けた。


「いつもおいしそうに、にこにこしながら食べるじゃないですか。だから、食べてもらいたいなって思ったんです」

「だってここのミックスサンドも珈琲も、私の好みのどストライクだったんです」

「それと、帰りがけに寂しそうな顔をするのがずっと気になってました」

「ずっと…?」

「去年の、暮れ辺りからですかね」


 引かれるかなって思ったら、唯さんが真っ赤になった。視線を彷徨わせて狼狽えてる。それをずっと観察してるのも楽しいけど、休憩時間にやりたい事があったんだ。


「珈琲、淹れてみます?自分らで飲む分」

「良いんですか?」

「休憩時間に練習、嫌じゃなければ」

「全然!むしろやりたいです!」


 良かった。俺もこうやって陣さんに教えてもらった。それを俺が、今度は唯さんに教える。ここに来てから随分時間が経ったんだなって、なんだか改めて感じた。

 地獄みたいな、落ち続けていた日々が遠くなる。でも忘れるべきじゃない。自分のやった事は一生抱えなくちゃならない。でも前に進むチャンスをもらえたから、俺はまた、頑張る。


「いかがでしょうか?」

「…練習、しましょうね」

「はい…」


 がっくり項垂れた唯さん。

 彼女が初めて淹れた珈琲は、俺の初めてより全然ちゃんとしてる。だけどまだまだ、お客さんに出すには練習が必要。

 常連さんが恋人になって、恋人が後輩になった。それはこそばゆくて、なんだかすごく、楽しい。

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