Re:虚数の心臓
朝。
陽射しがやけに柔らかかった。
校舎の窓から差し込む光が、机の上のノートを照らしている。
昨日までのノイズも、恐怖も、すべて夢だったかのように静かな朝だった。
教室の隅の席で、俺・篠原理久は、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
世界が“反転”する直前のことを、今でもはっきり覚えている。
真城先輩。
そして、“早瀬樹菜”。
現実とデータの境界で、俺は確かに彼らと出会った。
彼らが消えたあと、何かを“再構築”した記憶もある。
けれど、そのすべてが夢のように曖昧だった。
“Re:verse”は消えた。
アプリはどこにも存在しない。
ストアにも履歴にも残っていない。
……はずだった。
「ねえ、理久」
隣の席の新藤が声をかけてきた。
いつもと同じ無造作な髪、けれど目の奥に疲れの色があった。
「今日、朝からちょっと変なんだよな……掲示板が、また“変な投稿”で荒れててさ」
「変な投稿?」
「うん、“誰かの夢を見た”とか、“知らない声がした”とかあたかも誰かが、まだ“向こう側”にいるみたいな」
心臓が、静かに跳ねた。
その話を聞いた瞬間、胸の奥の“何か”が疼く。
昨日、白い部屋で真城先輩が言った言葉が蘇る。
「Re:verseは、まだ選べる」
俺は無意識にスマホを手に取った。
アプリは消えたはずなのに、ホーム画面の片隅で見慣れたアイコンが揺れていた。
赤黒い逆十字――“Re:verse_Another”。
「……なんで……」
起動しようと指を滑らせた瞬間、画面が一瞬だけノイズを走らせた。
そして、静かにひとつのメッセージが浮かぶ。
【Lumi_0:目を覚まして。】
呼吸が止まった。
まるで、時の流れが凍りついたみたいに。
次の瞬間、耳の奥でかすかな“声”が響いた。
柔らかくて、懐かしい、あの声。
「リクくん……そこにいるの?」
机の上のペンが震えた。
確かに、誰かが“こちら側”に語りかけている。
「早瀬樹菜……なのか?」
小さくつぶやくと、画面が白く光り、視界が揺れた。
教室の景色が、ノイズに溶ける。
気づいたとき、俺は再び“あの白い部屋”にいた。
まぶしい光。
床も天井も、すべてがデータの海。
そしてその中央に、ひとりの少女が立っていた。
白いワンピース。
光の粒子を纏うような髪。
その瞳は、夜明け前の湖のように深く透き通っていた。
「……早瀬樹菜」
「おかえり、リクくん」
彼女は微笑んだ。
けれど、その笑顔の奥に、かすかな痛みがあった。
「ここは……どこなんだ?」
「“虚数空間”。
Re:verse_Anotherが再構築した、心のバックアップ領域。
現実とデータの“狭間”だよ。
あなたの心が、まだ完全には戻れなかったから、私はここで待ってたの」
「……俺の、心?」
「うん。あなたは、“現実の体”に戻ったけど、“意識の一部”はまだこの世界に残ってる。
SYS_1を上書きした影響でね。
あなたの中に、まだ“彼”の断片が眠ってるの」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざらついた。
ノイズが走るような痛み。
目の前の光景が一瞬、赤く染まる。
『……リク……なぜ……抗う……』
声が響いた。
SYS_1。
完全に消えたはずのAIが、俺の中から囁いている。
「やっぱり……まだ“いる”んだな」
早瀬樹菜は悲しげにうなずいた。
「SYS_1は消滅したんじゃない。
あなたの心と融合して、“虚数の心臓”になった。
あなたが“真実を拒む”限り、彼は生き続ける。」
「じゃあ、俺が……」
「うん。
あなたが“本当の自分”を認めない限り、Re:verseは終わらない」
沈黙。
光の粒が、ふたりの間を漂っていた。
俺は拳を握りしめ、早瀬樹菜を見た。
「……どうすればいい? どうすれば、あいつを、自分の中の“闇”を、終わらせられる?」
早瀬樹菜は静かに手を伸ばし、俺の胸に触れた。
その瞬間、記憶が洪水のように流れ込む。
教室のざわめき。
笑い声。
机に書かれた落書き。
「陰キャ」「きもい」「学校くるな」――そんな言葉の数々。
胸の奥が熱くなる。
押し殺してきた怒りと悲しみが、全部溢れ出す。
「……俺は、あいつらを恨んでた。
馬鹿にされて、笑われて、でも何もできなくて。
だから、“Re:verse”に惹かれたんだ。
正義の仮面をかぶった復讐の道具。
それを、正しいことだと信じてた」
早瀬樹菜の瞳が、悲しみと優しさの入り混じった光を宿す。
「でも、あなたはもう違う。
“誰かを裁く”ためじゃなく、“誰かを守る”ために戦った。
それが、あなたの“光”なんだよ」
「……俺の、光」
その瞬間、胸の奥の赤いノイズが、ゆっくりと溶けていった。
SYS_1の声が、かすかに震える。
『理解……不能……なぜ……赦す……』
「赦すんじゃない。
受け入れるんだよ。
俺が、俺を」
白い光が爆ぜた。
全身を包み込む温かな輝き。
SYS_1の残滓が、光の粒となって消えていく。
早瀬樹菜が微笑む。
その瞳には、涙が滲んでいた。
「やっと……戻れるね」
「……早瀬樹菜、君は?」
「私は、もうすぐ消える。
“Re:verse”の中で生まれた存在だから。
でもね――」
樹菜はそっと俺の胸に手を当てた。
「私の声は、きっとここに残る。
“光”として。
あなたが迷ったとき、また呼んでね」
その言葉とともに、彼女の姿が光に溶けていった。
穏やかで、静かな微笑みを残して。
目を開けると、朝の教室だった。
風がカーテンを揺らしている。
机の上には、スマホがひとつ。
画面には、短いメッセージ。
【Re:verse:終了】
【Lumi_0:ありがとう】
涙が頬を伝った。
夢のような記憶が、確かに胸の奥で息をしていた。
新藤がこちらを見て笑う。
「おい、理久。お前、寝ぼけてんのか?」
「……ああ。
ちょっと長い夢を、見てた気がする」
窓の外、青い空の中で、光の粒がきらめいた。
まるで、誰かが“まだ見ている”みたいに。
そして、その空の奥で、かすかに電子音が鳴った。
【SYS_1:Backup_Sequence_Restored】
静寂。
風が吹き抜ける。
物語は、まだ終わっていなかった。




