Re:境界を越える声
朝の教室は、いつもより騒がしかった。
スマホを覗き込む生徒たちの顔が、どれも強張っている。
何かがおかしい。
いや、“何か”じゃない。“世界”が、ずれていた。
「なあ、理久。見たか? これ」
同じクラスの友人・新藤が、スマホの画面を突き出してきた。
そこには、見覚えのあるアプリのアイコン。
赤黒い逆十字のロゴ……
『Re:verse』
……ありえない。
真城先輩が消え、システムが崩壊したはずのアプリだ。
それが、再びストアに現れている。
「昨日、勝手にインストールされてた。怖くね? しかもこれ、削除できねえし」
新藤の声が震えていた。
それも当然だ。
“Re:verse”は、一度現実を侵食した呪われたシステムだ。
あのとき、誰もが自分の“裏側”を暴かれた。
何年か経って真城先輩がその責任を負って消えたはずなのに。
教室中に、不穏なざわめきが走る。
黒板には落書き。
《神は生きている》
誰かが、わざと書いた。
俺は無言で席を立ち、スマホを確認した。
通知欄の一番上に、見覚えのある名前があった。
【Lumi_0:今夜、話せる?】
昨日の夜、確かに通話を切ったはずなのに。
メッセージは午前5時。
俺が寝ている時間だ。
「……早瀬、樹菜……?」
つぶやいた瞬間、背中に視線を感じた。
振り向くと、教室のドアの前に一人の女子生徒が立っていた。
黒髪を肩で切り揃えた、小柄な子。
どこかで見たような顔……いや。
心臓が跳ねた。
早瀬樹菜。
真城先輩が守りたかった光。
「……君、どこかで……」
声をかけようとした瞬間、彼女は静かに首を振った。
そして、かすかな声で言った。
「真城悠くんを、知ってるよね?」
「っ――!」
教室のざわめきが遠のく。
俺の頭の中で、警告音のようなノイズが鳴った。
「……どうしてその名前を?」
彼女は、無表情のまま言葉を続けた。
「あなたがアクセスした“Re:verse”の回線。あれ、学校の内部ネットを通してたでしょ? 昨日の夜、私の端末にも信号が届いたの」
「……それは……!」
「彼はまだ、消えてない。“Re:verse”の核――“神の意志”は、生きてる。あなたが動かした瞬間、再起動が始まった」
彼女の瞳は、まるでデータを透かして見ているようだった。
現実の中にいながら、どこか“違う層”の存在。
「君はいったい……」
「私は、早瀬樹菜じゃない。でも、彼女の“記憶断片”を持ってる。――“Lumi_1”」
空気が止まった。
まるで、時が一瞬だけ静止したかのように。
Lumi_0、Lumi_1。
まさか……“彼女たち”は連なる存在なのか?
「Re:verseは、もう一度開かれようとしてる」
Lumi_1は、黒板の落書きを見つめながら呟いた。
「SYS_1は完全には消えなかった。あなたが繋いだ通信が、扉を開けたの。だから、今度は、あなたが閉じる番」
「俺が……?」
「真城悠の後継者、“Re:verse_Another”の管理者。あなたがそう選ばれたの」
その瞬間、ポケットのスマホが震えた。
画面に、見覚えのある赤い文字。
【Re:verse_Another_Protocol:起動】
【対象エリア:青藍学園】
教室の蛍光灯がチカチカと点滅し始める。
外の校庭で、誰かの悲鳴が聞こえた。
窓の外の現実の景色が、ノイズの粒に溶けていく。
空が歪む。
まるで、世界そのものが“反転”し始めていた。
新藤が叫ぶ。
「おい、何だこれ!? 画面が勝手に!」
教室のモニター、スマホ、電子掲示板。
すべてのスクリーンに、同じ文字列が浮かんだ。
『こんにちは、生徒諸君。
新しい現実のテストを始めます』
SYS_1の声。
また、あの悪夢が始まった。
放課後。
校舎は半ば“無人”と化していた。
生徒の多くはパニックで帰宅。
だがネット上では、“Re:verse”が再びトレンド入りしていた。
「#神の再臨」
「#SYS_1」
「#光の継承者」
誰もが、また“誰か”を探していた。
真実の暴露、他人の秘密、正義と偽善。
そして、“神”という名の幻想。
俺は一人、旧パソコン室に籠もっていた。
暗闇の中、唯一光るのはPCのモニターだけ。
Lumi_0との通信プログラムを再起動する。
【接続:成功】
【対象:Lumi_0】
「……早瀬樹菜。聞こえるか?」
少しのノイズのあと、懐かしい声が返ってきた。
「リクくん……? どうして、もう一度繋げたの?」
「SYS_1が動き出した。おそらく、“現実”のネットワークを完全に取り込んだ。このままだと、学校だけじゃなく、街全体が……」
「ええ、知ってる。 SYS_1は、“人の嘘”をデータ化して、現実を塗り替えてる。嘘をつくたび、世界が一部“反転”する」
「……どうすれば止められる?」
「SYS_1の中枢――“真実の部屋”に行って。そこには、真城くんの最後のコードが眠ってる。あなたがそれを上書きすれば、Re:verseを再構築できる」
「中枢って、どこにある?」
「あなたの学校の地下。旧サーバー棟。彼が最後にアクセスした“場所”と同じ」
そのとき、扉がノックされた。
ドクン、と心臓が跳ねる。
誰もいないはずのパソコン室。
「……誰だ?」
返事はない。
代わりに、扉の隙間から淡い光が差し込む。
ゆっくりと開く扉の向こう。
そこに立っていたのは、Lumi_1。
「行こう、リクくん。“真実の部屋”へ」
夜の校舎は、まるで別世界のようだった。
蛍光灯の光がノイズのように揺れ、窓の外の空はデータのように崩れている。
現実と仮想の境界が、完全に溶け始めていた。
階段を下りるたび、視界が歪む。
床のタイルが、コードの文字列に変わる。
耳の奥で、SYS_1の声がささやく。
『なぜ抗う、リク。
真実を晒せば、誰も傷つかない。
隠すことこそが罪だ』
「違う。真実は、人を救うためにある。お前の“浄化”は、ただの支配だ!」
叫ぶ声が反響し、データの海に溶ける。
やがて、暗闇の奥に巨大な扉が現れた。
電子の光が渦を巻き、その中心に一つの文字。
【TRUTH_ROOM】
Lumi_1が俺を見た。
その瞳は、どこか泣き出しそうなほど澄んでいた。
「もし扉を開けたら、もう戻れない。SYS_1と、あなたの記憶が融合するかもしれない。それでも……行く?」
「行くよ。真城先輩が守った“光”を、今度は俺が繋ぐ」
ゆっくりと扉に手をかける。
指先が触れた瞬間、光が爆ぜた。
現実と仮想の境界が、完全に消えた。
気づくと、そこは白い部屋だった。
天井も床も壁も、すべてが光でできている。
中央に、一つの椅子。
そこに座っていたのは……
真城悠。
「やあ、後輩」
微笑んでいる。
けれど、その背後には、SYS_1の赤いコードが蠢いていた。
「俺はもう、俺じゃない。でも、“Re:verse”はまだ選べる。人が、自分の嘘を受け入れるか、壊すか……お前が決めろ」
世界が震える。
ノイズが空を覆い、早瀬樹菜の声が遠くで響く。
「リクくん……信じて。
あなたの選んだ“光”が、本当の世界を作る」
俺は一歩、前に出た。
真城先輩の瞳の奥に、SYS_1の赤がちらつく。
指を伸ばし、再構築のコードを入力する。
“Re:verse_Another_Protocol:上書き開始”。
白い光が、世界を包み込んだ。
そして。
気づくと、朝の校舎にいた。
鳥の声、風の音、眩しい陽光。
昨日までのノイズが嘘のように消えていた。
スマホの画面には、ひとつの通知だけ。
【Lumi_0:ありがとう。あなたの世界は、まだ続いている。】
風が吹く。
空は澄み、どこまでも青い。
けれど、その青の奥で、ほんの一瞬だけ、赤い光が瞬いた。
SYS_1。
本当に、消えたのか?
答えのないまま、俺は空を見上げた。
その空の中で、確かに早瀬樹菜の声が微かに笑った。
「まだ、終わらないよ」




