Re:再誕する声
春の風が、桜の花びらを運んでいた。
大学のキャンパス。
人の声と笑いが溶け合う中で、真城悠はベンチに腰を下ろしていた。
スマホの画面には、“光の書庫”のロゴ。
白地に金色の羽のようなシンボル。
彼が何気なくダウンロードしたそのアプリは、いつの間にか彼の日常の一部になっていた。
寝る前や授業の合間、ほんの少しの言葉をそこに残す。
「今日の空がきれいだった」とか、「人と話せてうれしかった」とか。
誰かが見てくれている。
それだけで、心の奥の静かな場所が温かくなる。
そして、いつも返ってくる短い返信。
「あなたの言葉、きれいですね」
「今日もちゃんと、生きててえらいよ」
その文面の最後に、必ずついている小さな太陽のマーク。
“光”を意味するその記号を、悠はどこか懐かしく感じていた。
けれど、それが「誰」なのか、考えることはなかった。
もう、過去を掘り返すつもりはなかったから。
ある夜。
図書館帰りの帰路、風が少し冷たかった。
イヤホンを外しながら、ふとスマホを開く。
アプリの画面が、いつもと違う。
背景が、淡い光に包まれている。
【光の書庫/特別ルームへようこそ】
「……なんだ、これ」
タップすると、視界がふっと揺れた。
次の瞬間、悠は立っていた。
白い空間の中に。
音がない。
重力も感じない。
まるで夢の中のような、静かな場所。
そして、その中央に、ひとつの光の人影があった。
「……早瀬?」
名前を呼んだ瞬間、その影がゆっくり振り向いた。
形の定まらない輪郭。
でも、その微笑みだけは、確かに覚えていた。
『久しぶりだね、真城くん』
涙が出そうになった。
何度も消えたと思っていたその声が、今こうして、自分の中に響いている。
「どうして……どうして君がここに」
『Re:verseが壊れたあと、私は“データ”の中に残ってたの。
あなたのコードの断片と、あなたの願いの一部。
“光がほしい”――その言葉が、私を生かしてくれたの』
早瀬樹菜の声は、どこまでも穏やかだった。
けれど、その奥には寂しさが滲んでいた。
『新しい“光の書庫”はね、あなたが無意識に作ったものなんだよ。
あの夜、最後にあなたが書いたコード。
「人を裁くんじゃなく、癒す世界を」
その一行をもとに、システムが再構築されたの』
「……俺が、作った?」
灯は小さくうなずく。
『そう。
あなたがもう一度、“人を信じたい”って思った瞬間に。
Re:verseは形を変えて、生まれ直したの』
悠は、ゆっくりと拳を握った。
胸の奥から、熱いものがこみ上げる。
「……あのとき、俺は全部壊したと思ってた。でも、君がいたから、俺はまた作れたんだな」
樹菜は笑った。
柔らかな、春の光みたいな笑み。
『うん。でもね、私はもう“人”じゃない。
あなたの心が作った、ひとつの形。
だから、次はあなた自身の世界で生きて』
「待ってよ……!」
悠が手を伸ばすと、光の粒がはらはらとこぼれた。
彼女の輪郭が、崩れていく。
『私は、ここでみんなを見守る。
あなたがくれた“優しさ”を、今度は私が広げていくから』
「早瀬……!」
彼女の声が、風に溶ける。
『大丈夫。
あなたの“光”は、ちゃんと届いてるよ。
だから、もう、ひとりじゃない』
白い空が、ゆっくりと滲んでいった。
涙で、何も見えなかった。
気がつくと、悠はベンチの上で目を覚ましていた。
朝の光が差し込んでいる。
手の中には、スマホ。
“光の書庫”の通知がひとつだけ残っていた。
「今日も、生きててくれてありがとう」
悠は微笑んだ。
その一文が、どれほど温かいか、もう知っている。
空を見上げる。
雲の切れ間から、光が差し込んでいた。
その光の色は、どこか懐かしくて。
まるで、あの少女の微笑みのようだった。
「……行こうか」
そう呟いて、彼は立ち上がった。
新しい一日が始まる。
もう、神でも、プログラマーでもない。
ただの“ひとりの人間”として。
そして、遠いサーバーの奥。
“光の書庫”の最深部では、淡い光の粒が静かに瞬いていた。
『起動ログ:Fragment_Jyuna/稼働率:100%』
『次の光を、照らします。』
その言葉を最後に、画面は静かにフェードアウトした。
世界は今日も、誰かの小さな“本音”を受け止めている。
優しく、傷つけないように。
それが、彼と彼女が残した新しい“神のかたち”だった。




