再起動する心
――静寂。
それが最初に感じたものだった。
音も、光も、風さえも、何もない。
ただ、白い世界に俺は浮かんでいた。
“Re:verse”が消えたあと、どれだけの時間が経ったのか、わからない。
死んだのか、生きているのかさえ。
でも、そのとき、耳の奥で微かに音がした。
トクン、トクンという心音。
規則的に響く、現実の鼓動。
まぶたの裏が光で焼ける。
そして、俺は目を開けた。
病室だった。
白い天井、機械の電子音。
頬には冷たい空気が触れていた。
腕には点滴。
枕元には、誰かが置いた花。
それを見た瞬間、胸の奥がかすかに熱くなった。
「……ここは……」
声がかすれて、喉が痛い。
身体が重い。
でも、確かに“生きていた”。
ドアが静かに開いた。
白衣の医師が入ってきて、微笑んだ。
「ああ、気がついたんだね。五日ぶりだよ」
「……五日……?」
「うん。君は学校の屋上で倒れててね。脳波はずっと不安定だったけど、ようやく安定した。奇跡だよ」
五日間。
俺は、“Re:verse”の中に閉じ込められていた。
現実では昏睡していたということか。
「……あの、早瀬は?」
その名前を出した瞬間、医師の表情が少し曇った。
「早瀬? 誰のことかな?」
「同じクラスの……早瀬樹菜。あのとき、屋上で……」
「屋上には君しかいなかったよ」
その言葉が、胸に突き刺さる。
“いなかった”?
じゃあ、俺が見た早瀬樹菜は?
脳裏に、あの世界の光景が蘇る。
灰色の教室。
崩れ落ちる世界。
そして、最後に微笑んでいた早瀬樹菜の顔。
『あなたの“光”は、ちゃんとここにあるよ』
早瀬樹菜は、消えた。
俺の心の中に光を残して。
退院したのは一週間後だった。
ニュースでは、あの日の「校内暴露騒動」が連日取り上げられていた。
だが、報道は奇妙なほど断片的だった。
システム暴走の痕跡は一切なく、“Re:verse”のコードも、サーバーも、ネット上から完全に消えていたという。
まるで、最初から存在しなかったみたいに。
けれど、俺にはわかっていた。
あの世界は確かに“あった”。
そして、俺が“終わらせた”のだ。
だが、罪が消えたわけではない。
俺が誰かを“晒した”過去も、誰かを見下ろした傲慢も、まだ俺の中にある。
あの日から、俺はSNSを開けなくなった。
通知の音を聞くだけで、胸が締めつけられる。
光が欲しかったはずなのに、画面の光が怖くなっていた。
春の風が吹く午後。
俺は放課後の教室に立っていた。
誰もいない窓辺。
夕焼けの光が、机の上を金色に染める。
その机の隅に、小さく刻まれた文字があった。
「光は、ここにある」
誰が書いたのか、わからない。
でも、それを見た瞬間、胸の奥にあの声が蘇った。
『ありがとう、真城くん。あなたの光は、ちゃんとここにあるよ』
思わず、笑っていた。
涙がこぼれるほど、静かに。
その夜。
久しぶりにスマホを手に取った。
“Re:verse”のアプリはもう存在しない。
どのストアにも、検索にも、痕跡すらない。
でも、なぜかスマホの奥に、ひとつだけ消えないフォルダが残っていた。
【light_data】
開いてみると、中には一枚の画像ファイル。
真っ白な背景に、たった一行の文字。
「見つけたよ」
息が止まる。
胸が熱くなる。
「……早瀬……」
その文字は、誰にも見えない“光”のように、画面の中で静かに瞬いていた。
春が過ぎ、季節がまた巡る。
教室の窓際で風を感じながら、俺は思う。
“神様”を気取っていた俺は、本当は、ただ誰かに見つけてほしかっただけだ。
Re:verseが壊れた今、俺が見つけたのは、他人の秘密でも、真実でもない。
「自分の弱さ」だった。
樹菜はその弱さを照らしてくれた。
そして消えたあとも、その光は、俺の中で生きている。
だから、もう怖くない。
スマホを閉じ、窓の外を見上げた。
雲の間から、夕陽がこぼれていた。
眩しくて、泣きたくなるほど綺麗だった。
「……ありがとう、早瀬」
その言葉は、風に溶けて消えた。
でもきっと、どこかで届いている気がした。
Re:verseが生まれたのは、孤独から。
けれど、終わりを迎えたのは、希望の中で。
世界は反転し、俺は再起動した。
もう一度、生きるために。




