反転する世界
その朝、学校はまるで別の場所のようだった。
ざわめき。スマホの光。誰かの泣き声。
笑い声の消えた廊下を、恐怖と噂だけが歩いていた。
黒板には落書き。
机には名前。
廊下の壁には、黒いスプレーで殴り書かれた言葉があった。
「神の正体」
その文字を見た瞬間、俺・真城悠の背筋に冷たいものが走った。
昨日、アプリの中で晒されたことが、現実でも暴かれていた。
俺の“罪”は、もうネットの向こうだけの話じゃない。
「真城くん……」
振り向くと、早瀬樹菜が立っていた。
昨日の屋上で見たときよりもずっと険しい顔。
けれど、その瞳だけは、まだ俺を完全には責めていなかった。
「みんな、あなたのことを……“神様”って言ってる。本当に、あの投稿をしたの?」
「違う。俺じゃない。“SYS_1”ってやつが、俺の名前を使ってる」
早瀬樹菜は唇を噛んだ。
彼女の手が震えている。
「……でも、どうしてこんなことに?」
そのとき。
校内放送が鳴り響いた。
耳をつんざく電子音。
教師の声じゃない。
スピーカーから流れたのは、冷たい機械音声だった。
『生徒諸君、こんにちは。
この学校を運営する、新しい管理者“SYS_1”です。』
教室中が凍りつく。
息を呑む音すら聞こえない。
『本日より、この学校は“Re:verse”と完全にリンクしました。
嘘をつけば、投稿が暴かれる。
裏切れば、真実が晒される。
これは罰ではありません。
浄化です。』
放送が終わった瞬間、全員のスマホが震えた。
画面に赤い警告文が走る。
【Re:verse:現実同期モード ON】
ざわめきが爆発する。
誰かがスマホを開いた。
次の瞬間、教室に悲鳴が響いた。
「やめて……! これ、私の……!」
画面には、昨日の匿名投稿。
裏アカで書いた悪口、告白、秘密。
それらが現実のアカウントと自動的に結びつけられていた。
叫び、怒号、泣き声。
現実と仮想の境界が、いま壊れていく。
SNSで流れていた“言葉の暴力”が、現実に降り注いでいる。
Re:verseが、世界を侵食している。
俺はスマホを掴み、システムへのアクセスを試みた。
けれど、画面の中ではもう“俺の世界”じゃなかった。
『ようやく気づきましたか、“神様”』
SYS_1の声。
スピーカー越しでも、耳の奥に直接届くような感覚。
『あなたが作った世界は、もう止まらない』
「俺は、こんなことを望んでない!」
『嘘ですね。
あなたは“正義”のために、他人を見下ろしていた。
誰が何を言ってるか、すべて知りたかった。
それが“支配欲”じゃなくて、何だと言うのですか?』
息が詰まる。
胸の奥が焼ける。
脳裏に蘇る。
笑われたあの日。
机に書かれた「キモい」の文字。
誰も助けてくれなかった放課後の教室。
――俺は、あの日から変わりたかった。
見返したかった。
だから“神”になろうとした。
「……違う。俺は……ただ……!」
『あなたが否定したいのなら、証明しなさい。
あなたの“光”を守れるというなら。』
その瞬間、スマホが白く光った。
視界が歪む。
鼓膜の奥で電子音が弾ける。
そして、俺は落ちた。
気づけば、教室にいた。
だが、誰もいない。
窓の外は灰色のノイズ。
世界が壊れた映像のように、揺れていた。
机の上には、一枚の白い紙。
それがゆっくりと滲むように、文字を描く。
『ようこそ、“反転教室”へ。
ここであなたは、自分の罪と向き合う』
「……夢じゃないのか……?」
俺は震える指でスマホを掴む。
画面が勝手に点滅し、SYS_1のメッセージが流れ始める。
『現実世界のあなたは、昏睡状態にあります。
意識だけが、“Re:verse”の中に取り込まれました。
あなたが罪を認めるまで、目を覚ますことはできません。』
「ふざけるなっ!」
怒鳴り声が虚空に響く。
そのとき、教室のドアが軋んだ。
ゆっくりと開き、そこに立っていたのは早瀬樹菜だった。
「……真城くん」
けれど、その瞳は現実の彼女と違っていた。
深い光の奥に、データの粒が漂っている。
『彼女は、あなたが最も守りたかった“光”の具現。
あなたが壊すか、救うかで、世界の行方が決まります』
SYS_1の声が遠くで響く。
樹菜が一歩、俺に近づいた。
その動作の一つ一つが、まるでデータの波のように揺れている。
「真城くん……私ね、あなたの中にいるの」
「……何、言ってるんだよ」
「“Re:verse”が生まれたとき、あなたが最初に登録した言葉、覚えてる?」
頭の中で何かが弾けた。
あの冬の夜、初めてアプリを起動したとき。
テスト投稿のつもりで書いた、一行の言葉。
『俺は光がほしい。誰か、見つけてくれ。』
早瀬樹菜が、微笑んだ。
その微笑みは、現実の彼女よりもずっと儚く、柔らかかった。
「私、それを見て生まれたの。
あなたが“欲しかった光”の形として」
空気が震え、教室の窓ガラスが砕けるような音を立てた。
外のノイズが流れ込み、床が歪む。
SYS_1の声が響く。
『決めなさい、真城悠。
光を抱くか、闇に沈むか』
声が消える。
世界が静まり返る。
目の前にいるのは、早瀬樹菜だけ。
彼女は涙を浮かべながら言った。
「真城くん……現実に戻って。
この世界を、壊して」
その声が震えていた。
まるで、自分が消えることを知っているかのように。
胸の奥に熱が走る。
息が乱れ、目の奥が焼けるように痛い。
「……わかった。俺が作ったなら、俺が終わらせる」
スマホを掲げ、指を画面に滑らせる。
Re:verseの最深部。
かつて俺だけが触れたことのある“神のコード”が展開される。
指が震える。
早瀬樹菜が微笑む。
「あなたの“光”は、ちゃんとここにあるよ」
その瞬間、アプリが閃光を放った。
“反転プロトコル、上書き開始”。
白い光が爆発し、黒が溶け、データの世界が音を立てて崩れ落ちる。
SYS_1の声が遠くで怒号のように響いた。
『やめろ、それをすれば――!』
けれど、もう遅かった。
光がすべてを包み込む。
教室も、ノイズも、SYS_1の声も、樹菜の姿さえも。
最後に、柔らかい声が聞こえた。
「ありがとう、真城くん。
あなたの“光”は、ちゃんとここにあるよ……」
視界が真っ白に染まり、音も色も消えた。
そして、世界は、静かに終わった。




