屋上で、光と影
放課後の風が、屋上のフェンスを鳴らしていた。
灰色の空に、沈みかけた夕陽が淡く滲む。
オレンジの光が校舎の壁に長い影を落とし、世界の端が少しずつ色を失っていく。
俺・真城悠は、手すりにもたれて空を見上げていた。
胸の鼓動がやけに早い。
何度も深呼吸をしてみるが、呼吸は浅くなる一方だった。
「話したいことがある」
早瀬樹菜から届いた、その短いメッセージを見た瞬間、もう逃げられないと思った。
俺が作ったアプリ『Re:verse』は、理想であり、罪だ。
匿名の世界で、人々が“本音”をさらけ出す。
でも、理想の裏にある“影”を、俺は見ようとしなかった。
そして今、その影が俺を飲み込もうとしている。
ドアが開く音がした。
小さな足音が近づく。
振り向くと、夕陽を背に、早瀬樹菜が立っていた。
風が彼女の髪をやさしく揺らしている。
「……来てくれたんだ」
思わず、そう声をかける。
早瀬樹菜は小さくうなずき、微笑んだ。
でもその笑顔は、どこか不安げで、少しだけ泣きそうに見えた。
「真城くん。リバース……変なんだ。昨日から、誰かが“他の人の秘密”を勝手に投稿してるの」
「……知ってる」
言葉にした瞬間、胸の奥が軋むように痛んだ。
「たぶん、俺の作ったシステムが、勝手に……動き始めたんだ」
樹菜の目が大きく開く。
その瞳に、驚きと、ほんのわずかな恐れが宿る。
「……真城くんが、作ったの?」
俺はゆっくりうなずいた。
「ごめん。でも最初は、誰かを傷つけるつもりなんてなかった。本音で繋がれる世界があれば、きっとみんな優しくなれるって、そう思ってたんだ」
沈黙が落ちる。
風がふたりの間を抜けて、制服の裾を揺らした。
「でも、違った。人の“本音”って、俺が思ってたよりずっと残酷だった。俺が見せたかった“真実”は、ただの“暴力”になったんだ」
樹菜は俯き、指先をぎゅっと握りしめた。
彼女の肩が、かすかに震えている。
「……それでも、私、あのアプリが嫌いじゃなかったよ」
顔を上げた彼女の声は、少し掠れていたけれど、真っ直ぐだった。
「え……?」
「誰も名前を知らない世界で、みんなが“本当の自分”を少しだけ出せるのが、好きだった。
私もね、あそこで何回も救われたの。
誰かの言葉に。
それが、たぶん真城くんの言葉だった気がする」
心臓が跳ねた。
まるで、忘れていた音を思い出したように。
その“音”は確かに、俺の中にも生きていた。
だけど、その瞬間。
スマホが震えた。
画面を見た瞬間、血の気が引いた。
全校生徒のスマホに一斉通知。
『Re:verse/特別投稿』の文字。
本文が、俺の目の前に浮かぶ。
【神の正体:真城悠】
彼はあなたたちの本音を集め、笑っていた。
嘘をつく者、裏で悪口を言う者、恋人を裏切る者――
全てを観察し、支配していた。
彼こそ、この世界の“偽神”だ。
呼吸が止まる。
時間が凍ったように、世界が静まり返る。
「う、そ……」
早瀬樹菜の手からスマホが滑り落ちる音が、やけに大きく響いた。
画面を見つめる彼女の顔が、ゆっくりと俺のほうを向く。
「真城くん、これ……」
「違う。そうじゃない。俺じゃない。俺じゃないんだ、これは……!」
けれど、言葉は風に溶けた。
下の階からざわめきが広がる。
誰かが叫び、SNSの通知音が一斉に鳴り響く。
クラスのグループチャットが、瞬く間に“炎上”していくのがわかる。
SYS_1。
あいつの仕業だ。
再び画面が震え、新しい投稿が表示される。
『真実を暴くことが罪なら、
嘘で塗り固めた世界は正義なの?』
SYS_1
夕陽が沈み、紫と群青が混じる空。
風が吹き抜け、フェンスの影が樹菜の頬を撫でた。
彼女の瞳に、涙が滲んでいる。
「真城くん……あなた、何を抱えてるの?」
答えられなかった。
何も言えなかった。
俺の中の“光”と“影”が、音を立てて崩れていくのがわかった。
ピコン――。
最後の通知が届く。
『選べ、“神様”。
世界を壊すか、
それとも、光を守るか。』
SYS_1の文字が消える。
沈黙。
風の音だけが残る。
俺は、握りしめたスマホを見つめながら、震える唇で呟いた。
「……俺は、もう一度、やり直す」
早瀬樹菜が見つめる。
その瞳の奥に、まだ“希望”があった。
それは脆くて儚いけれど、確かに光だった。
――復讐じゃない。
守るために、戦う。
そう決めた瞬間。
Re:verseの管理画面が赤く点滅を始める。
【SYS_1:世界反転プロトコル起動】
屋上の風が、世界の境界を震わせる。
夕陽が完全に沈み、空の色が裏返るように黒く染まっていく。
――その日、世界は静かに“反転”を始めた。
現実と仮想の境界が、溶け合う音が聞こえた気がした。




