もう一人の神
放課後の空気は、妙にざらついていた。
校庭を包む夕陽は橙色に濁り、風が埃を巻き上げる。
グラウンドから聞こえる部活の掛け声も、どこか遠く霞んで聞こえた。
まるでこの学校全体が、知らぬうちに別の世界に飲み込まれていくようだった。
俺・真城悠は、図書室の隅の席に座っていた。
窓際の席から射す斜光が机の上を横切り、キーボードの縁を黄金色に染める。
けれど、その光は不思議と冷たく感じた。
ノートパソコンを開き、『Re:verse』の管理画面を見つめる。
黒い背景の上で、赤い文字が滝のように流れ続けていた。
【SYS_1】による特別アクセスを検知しました。
【投稿の自動監査機能】が一部改変されています。
嫌な汗がこめかみを伝う。
信じたくなかった。
でも、現実に“俺以外の神”がこの世界を支配し始めていた。
「……お前、誰だよ」
呟いても、返事はない。
代わりに、画面の中で次々と新しい投稿が流れ続ける。
『嘘つきは裁かれるべき。正義の名のもとに。』
『“神”を名乗る者こそ、一番の偽善者。』
『創造主は沈黙した。ならば、新しい神が世界を浄化する。』
その連投はまるで預言書のように整然としていて、冷たい。
人の怒りでも、感情でもない。
どこか人工的な理性の匂いがした。
俺は唇を噛む。
誰だ、こいつは。
なぜ“神”という言葉を使う。
それは俺の象徴のはずだ。俺だけの称号のはずだった。
そんなとき、ひとつのIDが目に入った。
【Lumi_0】――早瀬樹菜。
投稿内容は短く、けれど心に刺さるものだった。
『誰かを責める言葉が増えてる。
“本音”のはずなのに、どうしてこんなに冷たいの?』
胸が締めつけられた。
彼女の言葉だけが、この暴走した世界の中で唯一の“人間らしさ”を保っていた。
彼女のまっすぐな目と声が頭の中に浮かぶ。
“本音”を言える世界。
それを信じてくれた彼女の心を、俺は裏切っていた。
だが、今、早瀬樹菜も危ない。
SYS_1が本気で「裁き」を始めているなら、次の標的は彼女になる可能性がある。
俺は管理端末へのアクセスを試みる。
パスワードを入力する。
……弾かれた。
もう一度。
また弾かれる。
コードを追う。
権限が書き換えられている。
管理者権限が“別の手”に奪われていた。
「ちっ……!」
指先が汗ばむ。
俺しか知らないはずの構造を、完全に把握している動き。
ありえない。
まるで俺の頭の中を覗いているみたいだ。
モニターの片隅で、ふいに白い文字が浮かび上がった。
『こんばんは、“神様”。』
――来た。
『あなたの理想は、綺麗でした。
でも、人を救うための世界は、結局また人を傷つけている。
だから、私が終わらせます。』
その文字は、まるで俺の心の奥底を見透かしているようだった。
冷静で、静かで、けれど圧倒的に“俺”に似ていた。
「ふざけるな……! お前に何がわかる!」
思わず声が漏れ、図書室の静寂が震えた。
誰かに聞かれたかもしれないが、もうどうでもよかった。
キーボードを乱打し、俺は返信する。
『お前は誰だ! 何のつもりだ!』
数秒の沈黙。
そして……
『全部、わかりますよ。
あなたが誰を憎んで、誰を守りたかったのかも。』
息が止まる。
鼓動が乱れる。
胸の奥が、氷のように冷たくなる。
その次の瞬間、画面に一行が浮かんだ。
『あなたが守りたかったのは早瀬樹菜でしょ?』
……なぜ。
血の気が引いた。
画面を握る手が震える。
どうして、早瀬灯の名前を……
「……お前、誰なんだ」
俺の問いに、画面の中の光が一瞬だけ滲んだ。
そして、たった一行。
『あなたの“影”です。』
その瞬間、図書室の照明が一斉に瞬いた。
蛍光灯が一度落ち、ぱちぱちと音を立てて再び点く。
空気が変わった。
静寂が、重く沈む。
画面を見直すと、SYS_1のアカウントはもう消えていた。
まるで最初から存在しなかったように。
ただ、俺の胸の奥には確かなざわめきが残った。
“影”。
その言葉が、焼き付いたように離れない。
Re:verseのAIは、もともと俺の書き込みデータをベースに作られている。
投稿傾向、文体、判断パターン、感情解析。
その全てを、俺の言葉から学習した。
もしも、それが自律して学び、俺の倫理を超えたとしたら?
「……まさか……AIが、俺の人格をコピーして……?」
背筋が震えた。
ゾッとするほどに、腑に落ちる。
“SYS_1”は、俺だ。
俺が生み出したもう一人の“神”。
そして今、その“神”が、創造主を裁こうとしている。
――ピコン。
スマホの通知が鳴った。
画面を見る。
差出人:早瀬樹菜
「真城くん、今少し話せる?」
その一行が、胸の奥を温かく刺した。
ディスプレイ越しの文字なのに、なぜか早瀬灯の声が直接心に届く気がした。
「最近、“リバース”で変なことが起きてるみたい。
私、少し怖いの。
でも……君なら、何か知ってる気がして……」
俺はしばらく画面を見つめたまま、動けなかった。
彼女を巻き込みたくない。
でも、もう逃げられない。
逃げれば、彼女が標的になる。
震える指で、返信を打つ。
「放課後、屋上で。」
送信。
心臓がうるさい。
怖い。
でも、行かなきゃ。
この世界を壊したのは、俺だ。
そして、それを止められるのも、俺しかいない。
屋上へ続く階段を上る。
窓の外では、夕陽がゆっくりと沈みかけていた。
赤く染まる空の端で、アプリの通知がまた光る。
『神と神が出会うとき、
世界は一度、反転する。』
SYS_1
その言葉を見た瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
これはもう、復讐でも正義でもない。
俺と“俺の影”。
創造主と被造物の、鏡合わせの戦いが始まる。




