仮面の裏の、声
翌朝。
教室の空気は、昨日とはまるで違っていた。
いつものざわめきが、奇妙な沈黙の中に吸い込まれていく。
机を叩く音、ページをめくる音。
それらが妙に耳につく。
誰もがスマホを伏せ、ひそひそと囁き合っていた。
笑い声は消え、目に見えない疑念だけが教室中を漂っている。
「昨日の投稿、やっぱ翔だったんだろ」
「本人、否定してたけど……内容、リアルすぎたもんな」
「“リバース”、マジでやばくね? 本音バレるとか、もう人間関係終わるじゃん」
その会話を聞きながら、俺・真城悠は机に肘をついていた。
窓から差し込む光がまぶしいのに、心の奥は真っ暗だった。
――やりすぎた。
分かってた。
分かってたのに、止められなかった。
匿名の“真実”を暴く快感。
自分だけがすべてを掌握しているという支配感。
それが、俺を神にした。
でも、昨日、その神の手が、ひとりの人間を焼いた。
如月翔のアカウントは炎上していた。
「裏切り者」
「二重人格」
「偽善者」
SNSのタイムラインは罵倒で埋まり、まとめサイトには如月翔の顔写真まで貼られている。
俺が作った世界が、ひとりの現実を壊したのだ。
冷たい汗が背中を伝う。
スマホが震えた。
通知の量が異常だ。
「……っ」
画面を開くと、見慣れないアイコンが目に入る。
“システム管理者モード”――【SYS_0】。
それは俺の権限だけが使えるはずの領域。
だが、その下に見たことのないログがひとつ増えていた。
【SYS_1】。
……は?
そんなID、登録した覚えはない。
ログを確認する。
確かに、昨夜の二十三時。
アクセス履歴があった。
IPは完全に匿名化され、ルートの追跡は不可能。
「誰だ……?」
コードを解析しようとしたその瞬間、画面に白い文字が浮かび上がった。
『君、本当に自分のことを“神”だと思ってるの?』
心臓が跳ねた。
血の気が一瞬で引く。
誰かが、俺の裏にいる。
そんなはずはない。
俺はひとりでRe:verseを作った。
バックドアも、秘密の共有鍵も存在しない。
でも、画面に映るその文字列は、確かに“内側”から出ていた。
背筋に冷たい汗が流れる。
俺は慌てて端末を閉じ、ポケットに突っ込む。
周囲の声が一瞬で遠くなった。
耳の奥で、自分の心臓の音だけが響く。
ドクン、ドクン、と不規則に跳ねる音。
教室の喧騒は、ざわざわとした海の波のようにぼやけて聞こえた。
「……真城くん」
呼ばれて、はっと顔を上げる。
そこに立っていたのは、早瀬樹菜。
柔らかな光を纏ったような、穏やかな笑顔。
昨日と同じ制服なのに、なぜか彼女だけ色が違って見えた。
「昨日の“リバース”のことで、ちょっと聞きたくて」
息が止まる。
まさか、気づいたのか?
「噂になってるでしょ? あの投稿」
彼女の声は静かで、淡々としていた。
「でもね、私、あのアプリが悪いとは思ってなくて」
「……え?」
意外すぎて、思わず声が漏れる。
「本音を言える場所があるって、悪いことじゃないと思うの。
現実じゃ、誰もが“いい子”を演じてる。
でも、どこかに吐き出せる場所があるなら、少しは救われる人もいるんじゃないかなって」
樹菜の目はまっすぐだった。
その瞳の奥に、嘘がひとつもない。
「でも……誰かを傷つけるために使われるのは違うよね。それって、“匿名”の意味がないと思う」
言葉が、喉の奥に刺さった。
俺は、ただ頷くことしかできなかった。
目の前の彼女の言葉が、心の奥の罪を照らしていく。
「もし、“あの世界”を作った人がいるなら……」
樹菜は少しだけ遠くを見つめた。
「その人には、聞いてみたいな。本音って、どこまで許されるんだろうって」
彼女の声は、優しいのに、なぜか痛かった。
俺は精一杯の笑みを作り、嘘を吐いた。
「……そうだね。俺も、同じこと考えてた」
樹菜はふわりと笑い、「そうなんだ」と言って席に戻っていった。
残された俺は、机の下で拳を握りしめる。
胸が痛い。
息が詰まりそうだった。
彼女に、嘘をついた。
神なんかじゃない。
俺はただの臆病な人間だ。
正義を語りながら、罪を隠した卑怯者だ。
ポケットの中のスマホが、再び震えた。
ディスプレイに浮かぶのは、赤い警告。
“Re:verse”の管理ログが更新されている。
投稿者:【SYS_1】
投稿内容:
『神は沈黙した。
だから、代わりに私が“裁き”を続ける。』
血の気が引いた。
指が震える。
ページをリロードすると、アプリ全体のタイムラインが次々に更新されていく。
匿名投稿の中に、ひときわ異質なアイコンが混じっていた。
投稿主:【unknown】
内容:
『裏切り者を晒す。
最初の“標的”は、嘘つきのプログラマー。』
息が詰まる。
教室の空気が凍りついたように感じた。
誰かが、俺を知っている。
いや、それ以上だ。
俺の“神の座”を奪おうとしている。
教室の外でチャイムが鳴る。
日常の音が、異様な世界の中でかすれて聞こえる。
早瀬樹菜が振り返った。
その笑顔はまだ俺を信じていた。
けれど、俺の世界は、もう静かじゃなかった。
“もうひとりの俺”が、楽園を壊し始めている。
なら、止めなければ。
たとえ、その相手が誰だったとしても。




