匿名の正義、暴露の快感
昼休みが終わる五分前。
教室の空気が、まるで冷気を含んだみたいに沈んでいた。
原因は――俺だ。
正確には、俺の“投稿”だ。
SNSアプリ『Re:verse』に流れた一本の匿名投稿。
『某クラスのイケメンが、女子をランキングしてるらしい。
「顔だけ」って書いてるのが、リアルすぎて笑えない。』
たったそれだけの文章が、教室を燃やした。
「これ……うちの学校のことじゃね?」
「“顔だけ”って言葉、翔がよく使ってるし……」
ざわめき。
笑い声も消え、翔はスマホを固く握りしめていた。
「俺、知らねえよ。なんでこんな……」
普段の軽口も出ない。
イケメンの仮面が、ほんの少しだけ剥がれた瞬間だった。
俺はその光景を、窓際の席から黙って見ていた。
心臓が速く打つ。
手のひらにじっとり汗が滲む。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、同時に。
胸の奥で、熱いものが弾けていた。
“俺が、動かした。”
この空気を。
このざわめきを。
この、彼らの“世界”を。
復讐って、もっと冷たいものだと思ってた。
でも実際は、こんなにも、快感なんだな。
そんな俺の内側を見透かすように、スマホが震えた。
『Re:verse』の通知。
トレンド:#顔だけランキング 上昇中。
いいね機能のない世界でも、反応は“波紋”として広がる。
「見えない拍手」が、俺の脳をくすぐるように響いた。
俺は、静かに笑った。
だが、その笑みはすぐに凍る。
『匿名の裏側に“神”がいるって噂、本当かな?』
ユーザー:Lumi_0
その投稿を見た瞬間、時間が止まった。
……早瀬樹菜。
彼女のアカウント名【Lumi_0】。
“Lumi”は、光(Lumière)の略だ。彼女らしい。
けれど、この投稿は俺を見てる?
まさか、気づいたのか?
いや、偶然だ。
きっとただの噂話のひとつだ。
そう思い込もうとした瞬間、また通知が鳴る。
『神様がいるなら、お願い。
私の“本音”を、誰にも見せないで。』
画面を見つめる指が止まった。
胸の奥が、冷たい水で満たされる。
……どうして。
彼女の投稿履歴を開く。
彼女は“Re:verse”の初期から、静かに使っていた。
誰にも知られず、匿名のまま。
投稿内容は、日記のように淡々としている。
『友達って、いつから“数”で決まるようになったんだろう』
『笑ってるときほど、涙が出そうになる』
『誰かを嫌いになりたくない。でも、守れない自分も嫌い』
……優しい子だ。
そんな言葉を、誰にも言えずに書き込んでたんだ。
俺はその記録を見ながら、唇を噛んだ。
俺の作った世界が、彼女の“逃げ場所”でもあったのに。
それを今、俺が――汚している。
モニターの片隅に、翔たちの投稿ログが次々と更新される。
「このアプリ、バグってるだろ!」
「俺じゃない、俺じゃねえ!」
「誰だよ、こんなことしたやつ!」
画面越しに、混乱と恐怖が流れ込んでくる。
俺は笑いかけて、笑えなかった。
指が、無意識に“管理ツール”を閉じようとした。
そのとき。
――ピコン。
新しい投稿が表示された。
『誰かの仮面を剥がす神様より、
そっと仮面を直してくれる人の方が好き。』
Lumi_0
……早瀬樹菜。
俺の指が止まる。
心臓が痛い。
復讐の熱が、冷たい涙に変わっていく感覚。
何やってんだ、俺は。
俺のせいで、彼女の世界まで壊してる。
窓の外では、チャイムが鳴っていた。
放課後。
如月翔はまだスマホを握りしめ、担任に呼び出されている。
周囲の視線は冷たい。
俺は、立ち上がれなかった。
自分が何を“神”だと名乗っていたのか。
ただの臆病者じゃないか。
机の上のスマホが、もう一度震えた。
Lumi_0からの、新しい投稿。
『でも、ありがとう。
あの場所を作ってくれた人がいるおかげで、
私はあの日、初めて“本音”を言えたから。』
画面が滲む。
胸の中に、痛みと温もりが同時に溶けた。
俺はスマホを胸に押し当てて、呟く。
「……ごめん。早瀬」
誰にも聞こえない声だった。
ただ、夕焼けだけが優しく教室を染めていた。
俺の“復讐”は、まだ始まったばかり。
だけどその向こうで、“もう一つの本音”が、静かに目を覚まそうとしていた。




