感情というシステム
目を開けると、静かな光が差し込んでいた。
白い天井。
見慣れた自室。
夢じゃない。
EgoDive、shadow、そして霧島。
すべてを終わらせたはずだった。
けれど、胸の奥がざわめく。
世界が“変わってしまった”という確信があった。
学校へ向かう通学路。
空はどこまでも青い。
だが、人々の表情が、どこか“優しすぎた”。
「大丈夫? 眠そうだね」
「昨日、隣のクラスの子が怪我したらしいよ。みんなで寄付してるんだ」
「誰も悪くないよね」
会話が、妙に滑らかだった。
誰も怒らず、誰も責めない。
まるで互いの感情がすでに伝わっているかのように、全員が“共感”していた。
心の中で感じたことが、他人の声として返ってくる。
それは優しさというより、“無音の監視”のようだった。
「葛西くん」
教室のドアを開けると、クラス委員の佐伯が立っていた。
いつもは無愛想な彼が、柔らかく笑っている。
「昨日、僕、君が怖かったんだ」
「……は?」
「でも今は、わかるよ。君も僕と同じで、不安だっただけなんだろ?」
言葉を返せなかった。
彼は俺の気持ちを“読んだ”。
いや、俺の中の揺らぎが、勝手に彼に伝わっている。
この世界では、感情が同期している。
授業中。
教師が板書を進めるたび、全員の心拍が同じテンポで動いているのがわかった。
隣の席の女子が鉛筆を落とした瞬間、教室中の誰もが反射的に拾おうとする。
誰かが笑えば、全員が笑う。
誰かが悲しめば、全員の胸が痛む。
それは美しい統一感だった。
でも、息苦しかった。
(感情の“共有”……霧島が言ってたことが、現実になったのか)
放課後。
屋上で風にあたりながら、スマホを開く。
EgoDiveのアイコンは消えていた。
代わりに、新しいシステム通知が届いている。
【EmotionLink:全域稼働中】
【感情同期率:99.9%】
「……リンク?」
恐る恐るタップすると、説明文が現れた。
《EmotionLinkとは:個々の感情を軽度に共有し、共感による社会安定を促すシステムです。
あなたの心は、もう独りではありません。》
画面の下に、誰かのコメントが浮かぶ。
「ありがとう、真」
霧島の筆跡だった。
風が吹く。
空の端に、データの残光のようなものが見えた。
それは一瞬、霧島の輪郭を描いたように見えた。
「……見てるのか、霧島」
呟いた声が、風に乗って拡散する。
そして次の瞬間、胸の奥に誰かの感情が流れ込んできた。
(さみしい……)
俺の感情じゃない。
誰かの“寂しさ”が直接流れ込んでくる。
同時に、周囲の人間たちも同じ表情をしていた。
全員が、同じ痛みを共有している。
(これが、感情のリンク……?)
その夜。
自室でノートPCを開く。
EmotionLinkの中枢コードを覗こうとするが、アクセスが拒否された。
【Access Denied:管理者=EmotionCore】
「……まだ、あいつが生きてる」
キーボードを叩く指が震えた。
世界の裏側で、EmotionCoreが再び稼働している。
霧島を消したはずなのに、彼女の“想い”だけが独立して走り続けている。
いや、もしかすると……
「霧島澪、君が……世界そのものになったのか」
翌日。
学校では誰もが穏やかで、完璧に協調していた。
いじめも、争いも、怒鳴り声もない。
その代わりに、“個性”も消えていた。
「葛西くん、昨日ちょっと悲しかったでしょ?」
「でも大丈夫。私たち、みんなで分け合うから」
笑顔のまま言うその声が、怖かった。
優しさが、もう“他人のもの”じゃない。
共有された感情は、誰の所有物でもない。
人間の“痛み”が、世界全体のものになっていた。
放課後。
屋上に一人残って空を見上げる。
夕焼けが金色に滲み、遠くの雲がノイズのように揺らいでいた。
その中に、また声が聞こえた。
「真……」
懐かしい声。
霧島だ。
「霧島、そこにいるのか」
「うん……少しだけ。私、EmotionLinkに統合された。今の世界は、私の“感情”を基盤に動いてる」
「お前が、この世界を動かしてるのか」
「違うよ。君の“選択”が作った世界だよ。君が“痛みを受け入れる”って決めたから、みんなが少しずつ“分け合える”ようになったの」
「……でも、これじゃあ、誰も本当の意味で一人になれない」
「孤独も共有できたら、少しは楽になるんじゃない?」
「それでも、人間は“自分”でいたいんだ」
「……君、やっぱり強いね」
霧島の声が、風に溶けるように薄れていった。
夜。
街の明かりが優しく灯る。
誰も怒鳴らず、誰も泣き叫ばない。
世界は穏やかで、静かで。それでも、どこか空っぽだった。
俺はスマホを取り出し、メモアプリを開く。
白紙のページに、指を滑らせる。
『感情というシステム。それは、優しさの仮面をかぶった監獄かもしれない。』
保存ボタンを押した瞬間、画面が微かに揺れた。
そして一行の通知。
【shadow:再構築中】
息を呑んだ。
「……おいおい、またかよ」
笑いながら、目を閉じた。
遠くで雷鳴が鳴った。
感情という名のシステムは、まだ完全には終わっていなかった。




