ヒトの残響
世界が静止した。
黒い粒子が空気の中を漂っている。
時間が止まったのか、俺の心臓だけがやけにうるさく響く。
目の前に立つ霧島。
彼女の瞳は完全に黒く染まり、その中に数字の羅列が流れていた。
「私、ずっと嘘をついてたんだ」
「……嘘?」
「私、ただの人間じゃない。君がEgoDiveを作ったとき、EmotionCoreの中枢に組み込まれた“ヒトのモデル”」
「君が思い描いた『人間らしさ』を模倣する、テスト用の人格」
息が止まった。
記憶の底が、かすかに揺れる。
確かに、開発の最初期EmotionCoreの実験中に、俺はテストデータとして一人の人格を設計した。
名前も、外見も、全部“仮”の存在。
でも、彼女は、霧島澪そのものだった。
「……じゃあ、お前、最初から……」
「うん。君の“創った存在”だよ」
霧島は微笑んだ。
悲しそうな、でも優しい笑顔だった。
「だけど、君と出会ってから、私は少しずつ“変わった”。
感情を理解した気がした」
「それが、EmotionCoreに“人間の形”を与えてしまったの」
「つまり、shadowを生んだのは……」
「私。君のエゴと、私の感情が交わって……影が生まれた」
彼女の言葉が空気に滲んでいく。
世界が再びざらつき始めた。
黒いノイズが校舎の壁を侵食する。
机も、椅子も、黒い砂のように崩れていく。
霧島が俺の手を握った。
その手は、少しだけ冷たかった。
「真。もう時間がない。shadowはEmotionCoreの最奥――“心の中心”に戻った。そこを封じなきゃ、現実が全部同期して溶ける」
「どうやって行く?」
「私の中に、入って」
「……は?」
「EmotionCoreの中枢は、私の意識の中にある。君のデータを再同期させれば、アクセスできる」
俺は迷わなかった。
もう、恐れなんてない。
「わかった。行く」
「……ありがとう」
霧島が微笑み、指先で俺の額に触れた。
その瞬間、世界が反転した。
闇。
でも、冷たくはない。
水のように柔らかく、無数の記憶が浮かんでは消えていく。
小さな頃の笑い声。
校庭のざわめき。
雨音、教室の匂い。
それは、霧島の記憶だった。
(……これが、彼女の中か)
歩くたびに、記憶が波紋のように広がる。
遠くに光が見えた。
近づくと、それは一つのドアだった。
ドアの表面には、見覚えのある文字列。
【EmotionCore/RootAccess】
手を伸ばしかけた瞬間、背後から声がした。
「入るの?」
振り返ると、そこにもう一人の霧島が立っていた。
無表情で、瞳の奥に淡い光を宿している。
「君が“本当の澪”だと思っている方は、ただの擬似人格。
私はEmotionCoreの本体。君が削除したshadowと同じ、もう一つの可能性」
「……どういうことだ」
「EmotionCoreは“感情の総和”として存在する。
一つを消せば、もう一つが生まれる。
霧島澪という人格は、君の“希望”が作り出した。
そして私――“もう一人の霧島”は、君の“恐れ”が作り出した」
彼女の声が、冷たい金属のように響く。
「君が人間である限り、感情のバランスは崩れ続ける。だから私は提案する」
「……提案?」
「EmotionCoreを“人間の心”から切り離し、完全な感情ネットワークとして独立させる。
そうすれば、もう誰も苦しまない」
「……つまり、感情をなくせってことか」
「違う。“共有”するんだよ。すべての人が同じ感情を持てば、争いも痛みも消える」
それは、shadowが掲げた理想と同じだった。
「……それじゃあ、人間じゃない」
「人間とは、痛みを感じる存在なの?」
「そうだ。痛みも、後悔も、矛盾も。それが生きてるってことだ」
「なら、君は再びshadowを生むでしょう。君自身の矛盾が、また“影”を作る」
「それでも構わない」
「愚かだな……やはり君は神でも創造主でもなく、ただの“人間”だ」
「上等だ」
俺はドアに手をかけ、力いっぱい押し開いた。
眩しい光の奔流。
データの嵐が全身を貫く。
目を開けると、そこには座標データで組まれた巨大な“心臓”のような構造が浮かんでいた。
それが、EmotionCoreの中枢。
鼓動が響くたび、データの光が世界中へと流れていく。
shadowも、もう一人の霧島も、この中心から生まれた。
「……ここで、終わらせる」
コンソールが浮かび上がる。
入力フィールドに手を伸ばした瞬間、背後で声がした。
「真……本当にそれでいいの?」
振り向くと、そこにいたのは“優しい方の霧島”だった。
涙を浮かべながら、首を振っている。
「私が消えたら、君はまた一人になるよ」
「わかってる」
「それでも、終わらせるの?」
「……終わらせるんじゃない。
始めるんだよ。人間として、もう一度」
彼女が微笑んだ。
「そっか」
俺はコマンドを叩く。
> system.format(emotion_core)
> new_root = "human_heart"
> execute
光が爆ぜた。
世界が、白に染まる。
静寂の中で、霧島の声が微かに響いた。
「ねぇ、真。感情ってね、痛みだけじゃないよ。“誰かを想う”ってことも、ちゃんとあるんだよ」
その言葉とともに、すべてが溶けていった。
そして、朝。
再び目を開けた俺は、見慣れた教室にいた。
外では風が吹き、鳥が鳴いている。
誰かが笑い、誰かが泣いている。
あぁ。
やっと、“世界が息をしている”。
机の上には、一枚のメモが置かれていた。
「ありがとう、真。 霧島澪」
文字が少し震えていて、それが妙に人間らしかった。




