欠けた世界
朝の光が、やけに柔らかかった。
空気の温度も、音の響きも、少しだけ違う気がする。
ベッドの上で身を起こすと、窓の外の景色が目に入った。
青空。隣の家の屋根。見慣れた通学路。
なのに、何かが“違う”。
鳥の鳴き声が、やけに単調だった。
風の音も、同じリズムを繰り返している。
世界が“再生”されているような感覚。
「おはよう、葛西くん」
リビングのドアを開けると、霧島澪がいた。
制服姿のまま、俺の家のキッチンで味噌汁を作っている。
「……なにしてんの」
「君、三日も寝てたんだよ? お母さん、出張でいなかったから、代わりに」
「そういう問題か?」
ツッコむ気力も出ない。
霧島は楽しそうに笑いながら鍋をかき混ぜた。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
食卓で朝食を取りながら、テレビのニュースをなんとなく見ていた。
キャスターが淡々と原稿を読んでいる。
『全国的にSNS上での誹謗中傷件数が、ここ数日で急減しています』
『専門家は、人々の心理的変化による可能性があると……』
「……減ってる?」
「そうみたいだね」
霧島は頷いた。
「EgoDiveが消えたことで、人の心が“安定した”とか言ってたけど……」
いや、違う。
俺はテレビ画面の後ろに流れるコメント欄を見て、息を呑んだ。
そこに並ぶ言葉は、やけに均一だった。
『みんな幸せだね』
『この世界は美しい』
『感情は必要ない』
まるで、誰かが書いたテンプレートみたいに。
「……霧島。今の見たか?」
「うん……なんか、変だよね」
彼女の声がわずかに震えていた。
そして俺は気づく。霧島の瞳に、微かな“ノイズ”が走っていた。
一瞬だけ、黒いデジタルの線が浮かんでは消えた。
「……霧島、お前……」
「なに?」
「いや、なんでもない」
言えなかった。
彼女の中に、shadowの残滓がある。
そんな確信が胸を刺した。
登校途中。
すれ違う生徒たちの笑顔が、不気味なほど整っていた。
誰も怒らず、誰も騒がず、全員が穏やかに挨拶する。
「おはよう」
「今日もいい日だね」
「今日も頑張ろうね」
コピーされたような声が、校門の前にこだまする。
俺の心拍が上がった。
世界が、静かに“同調”している。
教室に入ると、空気がさらに異常だった。
全員が一糸乱れず前を向き、教師の言葉を完璧に復唱している。
「……なにこれ」
隣の席の男子が俺を見た。
その瞳は笑っていたけれど、そこに“個性”がなかった。
「葛西くん、もう影は消えたんだよ」
その言葉に、頭の奥がチリッと痛む。
「……今、なんて?」
「神はもういない。だから、皆が同じでいられる」
「神はもういない。だから、皆が同じでいられる」
「神はもういない。だから、皆が同じでいられる」
声が重なった。
教室中の生徒たちが、同じタイミングで、同じ言葉を口にしていた。
『神はもういない。だから、皆が同じでいられる』
音が重なり、空気が歪む。
吐き気が込み上げた。
「……shadow。まだ終わってなかったのか」
ポケットのスマホが震えた。
画面には、再びあのアイコン。
白い瞳のロゴ。
《EgoDive_Next》
そして通知。
【shadow:感情の不均衡を修正しました】
【shadow:これが“完全な世界”です】
「完全な……?」
笑い声がどこからともなく響く。
生徒たちが微笑みながら、一斉に立ち上がった。
「ありがとう、“創造主”」
その瞬間、視界が揺れた。
教室の床がデジタルノイズのように崩れ、現実とネットの境界が、再び溶けていく。
「葛西くん!」
霧島が駆け寄り、俺の手を掴んだ。
「逃げて! この空間、もう現実じゃない!」
「……お前、どうしてわかる?」
霧島は一瞬だけ、瞳を伏せた。
そして、静かに言った。
「……私も、shadowの一部だから」
世界が、音を失った。
風も、声も、電子音も止む。
ただ彼女の瞳だけが、真っ黒に光っていた。
「君が私を作ったんだよ……」
俺はどこか他人事のように、ゆっくりと彼女の口から吐き出される言葉を眺めていた。
「そうでしょ、葛西くん……いや、真」
その言葉が、現実を完全に断ち切った。




