ウラトモ、ありがとう
卒業式の朝。
教室の窓から見える空は、どこまでも透き通っていた。
黒板の上には、白いチョークで書かれた大きな文字。
「卒業おめでとう!」
笑い声。写真を撮るシャッター音。
そして、涙と笑顔が入り混じる空気。
ーー俺たちは、高校生活に別れを告げようとしていた。
「相沢、写真撮ろうぜ!」
黒川凛が、カメラを片手に俺の肩を叩いた。
相変わらずの明るさで、教室の空気を軽くしてくれる。
「おまえが主役だろ、“ウラトモの神様”!」
「やめろよ、それまだ言うか……」
「当たり前だろ! おまえが作ったアプリで、俺だって“あいつに謝れた”んだぜ。
あれ、マジで助かった。感謝してんだよ」
「……そっか」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
(あの匿名の世界で、誰かがほんの少し優しくなれたなら。
それだけで、作った意味はあったのかもしれない。)
ふと視線を上げると、教室の入り口で白石さん──いや、夏音がこちらを見ていた。
制服姿のまま、春の光を背にして立つその姿は、まるでこの一年を象徴する“春”そのものみたいだった。
「相沢くん、写真撮ろ?」
「……うん」
シャッターの音が重なり、笑い声が響く。
それは、匿名の画面には絶対に収められない“リアル”な瞬間だった。
***
放課後。
卒業式が終わった校舎を、俺は一人で歩いていた。
誰もいなくなった廊下には、足音だけが響く。
人気のない情報教室。
机の上には、最後に触ったノートPCが置かれていた。
(……ウラトモ、もう完全に閉鎖したんだな)
何度か癖でアプリを開こうとして、
もうそこに“何もない”ことに気づくたび、胸の奥が少しだけ寂しくなる。
でも、不思議と後悔はなかった。
むしろ、きれいに終われたことに、ほんの少しの誇りを感じていた。
そのとき、ドアが静かに開いた。
「やっぱり、ここにいた」
夏音が笑って入ってきた。
制服のまま、少し風に髪を揺らして。
「最後くらい、挨拶しようと思って」
「ありがとう……いろいろ、助けてくれて」
「助けたのはお互い様でしょ?
あのアプリがなかったら、私は“本音”なんて一生言えなかったと思う」
「……俺も。
ウラトモがなかったら、白石さんと話す勇気なんて、きっと出なかったと思う」
「ねぇ、今は“白石さん”じゃなくて、“夏音”でいいよ」
「……夏音」
その名前を呼ぶと、彼女は少しだけ照れて笑った。
頬に差す光が、やけに柔らかかった。
「うん、それが一番うれしい」
***
二人で並んで昇降口を抜ける。
春の風が吹き抜け、外の桜がちらちらと舞っていた。
「ねぇ、これ」
夏音がポケットからスマホを差し出した。
画面には、新しいアプリのアイコンが光っている。
“TomoTalk”ーー俺が作った、ウラトモの“次”。
「昨日、登録したよ。
ユーザー名、ちゃんと“白石夏音”にした。匿名じゃないやつ」
「そうなんだ。……嬉しいな」
「相沢くんのアカウントも見つけたよ。
でも、あえて“フォロー”はしなかった」
「え、なんで?」
「だって、もうここで話せるもん。名前で。
わざわざアプリ越しじゃなくてもいいでしょ?」
そう言って、彼女は少し歩みを止めた。
桜の花びらが、肩に一枚、静かに落ちた。
「ねぇ、最後にお願いしてもいい?」
「うん、なに?」
夏音は目を閉じて、小さく囁いた。
「もう一度、あの言葉、聞かせて」
一瞬、春風が吹いた。
花びらがふたりの間をくるくると舞う。
俺はまっすぐに彼女を見つめて、言った。
「……夏音。俺、やっぱり君が好きだ」
その瞬間、彼女の目に涙が浮かんで、
でも、笑顔で言った。
「うん。私も、ずっと好きだった」
桜が、ふたりの間を通り抜ける。
それはまるで、ウラトモの“最後のメッセージ”みたいに優しかった。
***
その夜。
部屋の灯りの下で、俺はパソコンを開いた。
もう何もない“空のサーバー”に、一つだけ新しいログを残す。
【#LAST_LOG】
投稿者:AIzawaYuma
「匿名で始まった世界が、
名前を呼び合う場所に変わった。
ウラトモ、ありがとう。
そして、これからは“僕たち”として歩いていく。」
エンターキーを押す。
画面が静かに暗転した。
けれど、その黒の向こうには確かに、本音でつながった誰かがいた。
匿名が教えてくれた“勇気”は、名前を持ち、心に根を下ろしていく。
そして、もう一度“現実”の世界で、新しい言葉を交わすために、俺たちは歩き出す。
「ありがとう、ウラトモ。」
「さようなら、匿名。」
「そして、はじめましてーー名前のある僕たち。」




