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本音と匿名

 月曜日の朝。

 教室の空気は、妙にざわついていた。


「ねぇ、やっぱ相沢が“ウラトモの神”だったってマジなの?」


「すげーじゃん! でもなんか意外〜」


「いや、地味なやつがやることじゃなくね?」


 聞こえないふりをするのも、もう疲れた。

 黒板の前を通りすぎるたびに、クラスメイトたちの視線が俺を追う。まるで珍しい動物を見る目で。


 でも、今の俺は、少しだけ前とは違っていた。

 だって、白石さんが、何のためらいもなく俺の方を見て、「おはよう」と笑ってくれたからだ。


 その一言だけで、クラスのざわめきは一瞬止まる。


(白石さんが、ちゃんと“おはよう”って言ってくれた)


 俺は心の中でそうつぶやき、静かに笑い返した。



          ***



 放課後。

 情報教室のPCルームには、凛ではなく、白石さん、そして俺がいた。


 モニターの中央には“ウラトモ”の管理画面。サーバーの停止カウントダウンが、無機質に光っている。


【運営メッセージ】

 本日24時をもって、「ウラトモ」正式版を終了します。

 ご利用ありがとうございました。


 文字が画面に浮かぶたびに、胸の奥が締め付けられる。


 数千の投稿、無数の匿名の声。笑い合ったこと、救われたこと、切なさ――ぜんぶ、ここに詰まっている。


「本当に、終わらせるんだね」


 白石さんの声は穏やかだった。少し寂しそうでもある。


「うん……でも、“終わり”っていうより、“次”に進むための節目だよ」


 俺はキーボードに手を置く。指先が小さく震える。

 スクロールしては目を止める。保存しておきたい投稿が山ほどある。


 誰かの「ありがとう」、誰かの「ごめんね」、誰かの「好き」。

 匿名の向こう側にある一つひとつの名前を、俺は心の中で思い浮かべていた。


 白石さんが画面を見つめながら、ぽつりと言った。


「ねぇ、相沢くん。私、思うんだ」


「うん?」


「匿名って、たぶん“嘘”じゃなくて、“練習”なんだと思う」


 その言葉に、俺は一瞬言葉を失った。


「練習?」


「うん。本音を言う練習。誰かに届くって信じる練習。で、自分を好きになる練習」


 彼女の言葉は、ゆっくりと胸の奥に染みた。


(夏音は、ウラトモをただの逃げ道だなんて思ってないんだな)


「だから、ウラトモが終わってもいい。だって、もう“本音”を言える場所、ここにあるから」


 そう言って、白石さんは俺の手をぎゅっと握った。

 手の温度。指先から伝わる軽い震え。

 その温かさに、胸の奥のなにかがほどける。


「……白石さん」


「ん?」


「俺、本音言ってもいい?」


 白石さんは目を細め、小さく笑った。


「どうぞ」


 言葉を飲み込むことに疲れていた俺は、空気を吸い込み、短く、でも確かに言った。


「俺、ずっと、白石さんが好きだった」


 数秒の沈黙のあと、彼女は優しく笑う。


「知ってた。でも、聞けて嬉しい」


 顔が熱くなる。白石さんの指が俺の指に絡む感触に、世界が少しだけ穏やかになった。



          ***


 俺は立ち上がり、モニターの前に戻った。

 最後の作業は“形に残すこと”。消えゆく場所に、これまでの証を刻む必要があるような気がした。


【ウラトモ運営ログ】

 管理者 相沢悠真:最終投稿


「本音を言うのは、怖い。でも、それが生きてる証拠なんだと思う。

 ありがとう、“ウラトモ”。俺の初めての居場所。」


 エンターキーを叩く。送信された文字列が、静かにログに残る。


 画面の端でカウントダウンがゼロになり、サーバーは穏やかにシャットダウンしていく。


 モニターが暗くなる。


 でも、俺の中では何かが確かに灯った。

 匿名の中にあった“勇気”が、今、ちゃんと“名前”を持っている。



          ***


 数日後、陽の光が少しだけ強まった頃。

 校門前の木の下で、白石さんがスマホを差し出して笑った。


「ねえ、新しいアプリ、もうリリースされたんだ」


 画面にはシンプルなUI。白地に淡い色のボタンが並ぶ。


TomoTalkトモトーク ― つながる、声で。』


 説明文にはこうある。――顔が見えるチャット。匿名ではなく、名前で話す場所。互いに承認し合うことで安全に会話をする、新しいコミュニケーションの形。


「これ、相沢くんが言ってた“次の場所”?」


「うん。匿名で練習した後に、“名前”で話せる場所を作りたかった。

 ウラトモがくれた“勇気”を、今度は顔と名前で確認できるようにしたいんだ」


 白石さんはうれしそうに画面を覗きこむ。


「へぇ……いいね」


「βテスト、してくれる?」


「もちろん。だって、私は“ウラトモのヘビーユーザー”だからね」


 ふたりで笑い合う。どこからか花びらがひらりと舞い落ち、二人の肩にそっとのる。


 匿名がくれた勇気は、もう名前を持っている。


 だから、これからは相沢悠真として話そう。嘘のない言葉で、君と。



          ***



 夜、部屋に戻った俺は、TomoTalkのテストアカウントを開設した。


 設定画面で必要な項目を入れ、プロフィール写真の代わりに小さなアイコンを選ぶ。


 名前欄には、ためらわず自分の名前を書き込んだ。

 画面の向こう側に、既に数人のテスターが集まっている。


 匿名で始まった会話が、ゆっくりと形を変えていく。

 誰かが本名で「今日は疲れた」と書き込めば、別の誰かが名前で「お疲れ」と返す。


 そのやり取りは、どこか温かくて、どこか生々しかった。


(これが、次の段階なんだ)


 心の中でそう呟きながら、俺はふと思う。

 匿名の世界で学んだ“言葉の扱い方”は、名前のある世界でもきっと役に立つはずだ。慎重に、でも誠実に。


 窓の外で、やわらかい風が明日の予感を運んでいく。

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