告白のコード
お祭りの夜が明けて、日曜日の朝。
部屋の中には、まだ昨夜の余熱が残っていた。
机の上にはノートPCと、開きっぱなしのコード画面。
モニターに映るのは、見慣れた文字列。
『ウラトモ管理者ログ』
けれど、その一行一行が、今日は胸の奥を刺すように感じた。
(……完全にバレた)
昨夜、あの瞬間。
白石さんの目に、俺の“裏側”はすべて映ってしまった。
もう隠し通すことなんて、できない。
けれど、不思議と後悔はなかった。
彼女のあの言葉。
「言葉じゃなくて、あなたの優しさで、答え合わせしたかったから」
その意味が、まだ胸の中で静かに響いていた。
***
昼すぎ。
ウラトモのアクセス数は急激に下がっていた。
原因はわかっている。
昨夜の不正アクセスの影響で、一部の投稿データが壊れたのだ。
復旧処理をしても、完全には戻らない。
匿名の“居場所”を守るはずだったのに、守りきれなかった。
そしてもう一つ。
白石さんと、まだちゃんと話せていない。
スマホの画面を開いて、何度も打っては消したメッセージ。
「昨日は、ごめん。」
「もう一度、話せないかな。」
指が止まる。
送信ボタンを押せないまま、時間だけが過ぎていく。
(逃げてたら、何も変わらない)
そう自分に言い聞かせて、俺は立ち上がった。
ノートPCを閉じて、背負い慣れたリュックを掴む。
向かう先は決まっていた。
あの中庭。放課後、いつも白石さんが本を読んでいた場所。
***
夕方。
蝉の声が少しずつ弱くなっていく時間帯。
中庭のベンチには、やはり彼女がいた。
制服のまま、文庫本を膝に置いて、風を感じるように目を閉じていた。
「……白石さん」
声をかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。
「あ、相沢くん」
その声には驚きよりも、どこか優しい響きがあった。
でも、視線の奥にはまだ少し迷いが見える。
「昨日のこと……話したくて」
「うん、私も」
二人して同じ言葉を言って、思わず苦笑する。
その小さな笑いが、ほんの少し空気を軽くした。
ベンチの端に腰を下ろし、少しだけ距離を取る。
沈黙が落ちる。
それは、言葉を選ぶための沈黙だった。
「……俺、はっきりと言えなかった。
本当は、白石さんにだけは知られたくなかったんだ。ウラトモのこと」
「うん。なんとなく、そんな気はしてたよ」
「でも……気づいても、黙っててくれたよね。どうして?」
「たぶん……私も、逃げてたからかな」
「……」
「それにね、相沢くんがアプリにどのくらい関わってるか昨日までちゃんとわかってなかったし」
そう言って、彼女は視線を落とした。
風が髪を揺らす。影の間から見えた横顔は、少し切なげだった。
「ウラトモでね、私……ずっと本音を吐き出してた。
“好きになるのが怖い”って、“相手に届かないのが怖い”って。
それを言葉にするたび、少しだけ楽になって、でも……相沢くんには言えなかった」
「……」
「だから、気づいたの。私、結局自分の言葉に逃げてただけなんだって」
彼女の声は震えていた。
けれど、その震えの中に、確かな“覚悟”が混じっていた。
「白石さん……」
「相沢くん。
あなたが作ったウラトモ、たぶんたくさんの人を救ってた。
でもね、私はもう、そこに“隠れて”いたくない」
静かな決意。
それは、匿名の世界にいた彼女が初めて“自分”として言葉を放つ瞬間だった。
「だから、伝えるね」
白石さんは、まっすぐ俺を見た。
瞳の奥で、お祭りの花火よりも強い光が揺れていた。
「私、相沢くんが好き。
ウラトモの“中の人”としてじゃなくて、
いつも静かにノートPCをいじってる、ちょっと不器用なあなたが」
言葉が、胸に落ちた。
文字でも、コードでもなく、音として、心に届いた。
俺は、ゆっくり息を吸って、言葉を返した。
「……俺も、白石さんの投稿に救われてた。
最初は知らない誰かの言葉だと思ってたけど……いつの間にか、それが生きる理由みたいになってた。
だから、ありがとう。
そして、俺も……白石さんが、好きだ」
沈黙。
蝉の声も、風の音も、一瞬だけ消えたように感じた。
次の瞬間、白石さんは小さく笑って、目を細めた。
「……やっと、本音で話せたね」
「ああ。やっと、だな」
ベンチの上。二人の距離が少しずつ近づく。
その間に、もう“匿名”の壁はなかった。
***
夜、帰宅後。
俺はウラトモの管理画面を開いた。
ユーザー数は減っていたけれど、不思議と焦りはなかった。
画面の端に、新しいメッセージがひとつ届いていた。
@nanonanonano
「匿名の向こうで、誰かを想うのも悪くないけど──
ちゃんと名前で、想ってもらえるのは、もっと嬉しいね。」
その文を見て、思わず笑ってしまった。
俺はキーボードを叩き、返信欄に短く打ち込む。
@ura_admin
「了解。本音モード、起動。」
“送信”を押した瞬間、画面が小さく光った。
(……これからは、もう隠れなくていい)
コードの行間に、そんな思いを込めて。
俺は画面を閉じ、夜風を吸い込んだ。
外では、遅れて上がった花火の音が響いていた。
まるで、あの夜の続きを描くように。




