ⅢⅩⅢ
突然周囲の空気が凍りつく。 反射的にサリウスがダガーを構えたのだが、一瞬にして肉薄したファエットの鳩尾を喰らい、苦悶の悲鳴をこぼしながら地に伏せる。
「お二人の命を救ってくれた恩人じゃからな。 殺しはせんから安心せい。 離宮に戻ったらメイドとしての仕事を教えないとならんからのう、しばらく眠ってもらうとするぞ?」
「ふ、ふざけんな、っつうの! あんた、二人の気持ち本当にわかってんのかよ!」
サリウスが腹部を抑え、地面にうずくまりながら必死に声を上げる。
その隙に僕は、懐に忍ばせていたナイフで自らの手のひらを切り、こっそりと海に血を垂らした。 僅かな希望を添えて、ファエットに見られないようタラタラと血を海に流し続ける。
「ええ、ぼっちゃまは本気だとわかったからのう。 説得しても無意味と判断したまでじゃ」
「——だったら!」
「だからこそ、力ずくで連れ帰る必要があるのじゃ。 わしはもう、家族が死ぬ絶望を味わいたくないのじゃから」
儚げであり、心の奥底に憎悪を秘めた複雑な表情で、もがき苦しむサリウスを見下ろす。
その視線を受けたサリウスは何も答えることができず、ただ悔しそうな顔でお腹を押さえながら必死に立ちあがろうとしていた。
だが立ちあがろうとするサリウスの後頸部に手刀が落とされ、サリウスはその場に力無く倒れ伏した。
「わたくしめが、なんとかいたします。 ストールおぼっちゃまはお逃げを」
わずかに震えながら小声で耳打ちしてくるジェイミー。 俺の心を読んだジェイミーは、俺の狙いに気がついたのだろう。
時間稼ぎにしかならないと分かっていながらも、震える手で武器を握ったのだが、
「ジェイミー、おぬしの怪我は重症じゃぞ? 動くことは許さん」
瞬きしてる間に背後に回られたことを知り、ジェイミーはすぐさま離れようとするのだがあまりにも反応が遅かった。
ジェイミーの後頸部にも手刀が打ち下ろされ、ジェイミーまでもが昏倒する。 俺は一瞬の出来事に反応できず、ほうけた顔でその様子を見ていることしかできなかった。
血が滴る手のひらを慌ててポケットにしまい、背後に立ち尽くしているファエットへ恐る恐る視線を向ける。
ファエットの人間離れした身体能力を前に、隣りにいたリューズは目を見開きながらジリジリと後ずさっていく事しかできない。
「リューズお嬢様。 あなた様もぼっちゃまと同じく、このままわしを置いて逃げることをご所望ですかな?」
突然声をかけられたリューズはビクリと肩を跳ねさせ、恐る恐る腰につけていた革のバックに手を伸ばす。
「わたくしもお兄様と同じ気持ちです! 例えこの世界では双子の兄妹になってしまったとしても、前世での思いを受け継いでいるのです! 血が繋がっていようが関係ありません! わたくしは、お兄様と結婚して、新婚旅行の続きをするのです! だから、邪魔をしないで!」
決死の覚悟で言い放った言葉で自信を鼓舞しながら、六本のナイフを投擲する。 六本のナイフは不規則な軌道でファエットに襲い掛かるが……
「確かに、強力な絶眼でしたな。 わしが相手でなければ、全てかわすのは容易ではないじゃろう」
ファエットは何食わぬ顔で全てのナイフを指に挟んでキャッチした。
キャッチしたということは、攻撃対象が触れている。 当たっているということだ。
必中の絶眼を持ってしても、ファエットには通じない。
驚異的な身体能力を見て、リューズは顎を震わせながら後ずさっていく。
「リューズお嬢様。 抵抗しなければ何もいたしませぬ。 ですから大人しく離宮に帰りましょう。 我々は一緒にいられるだけでも、楽しかったではありませんか。 今度はおぼっちゃまと秘密基地を作るのでしょう? わしは二人が作る秘密基地を見るのが楽しみなのです」
優しく語りかけるファエットの声音。 甘い甘言のようなその言葉は、僕やリューズの足を鈍らせるのには十分すぎるほどだった。
だが、絶妙なタイミングで、船が大きく揺れ始める。
揺れた船を総覧しながら、ファエットは一目散にマストを駆け登った。 垂直に立っているはずのマストを、地面をかけるかの如く登っていったファエットはすぐに船の一番高いところに踊りでる。
「周辺に船影はない。 なら、下じゃな!」
この状況下、ファエットが判断したのは僕とリューズの安全だったのだろう。 すぐさま揺れの原因を突き止めようと動き出す。
当然だ、この船は絶海の孤島のようなもの。 船のどこへ僕たちが逃げたところで、ファエットは子供をあやすような労力で捕らえることが可能なのだ。
厄介になるであろうジェイミーとサリウスさえ気絶させてしまった今なら、僕たちが何をしたところでなんの脅威にもならない。 そう判断したのだろう。
走り回るファエットを注意深く観察しつつ、僕は横目に水面を伺ってみると、この辺り一体の海だけが周りの海よりもより一層濃くなっているのがわかった。
濃くなっている原因は簡単なものだ。
「魔物が船にたかっておる! この影の大きさ、まさかクラーケンか?」
クラーケン、海に生息する魔物の中でも非常に大きく、最も恐れられる存在である。 人間の血の匂いを嗅ぎつけて現れては、その巨体で船ごと丸呑みにしてしまうと言われる海の悪魔。
その悪魔が、よりにもよって最悪なタイミングで襲ってきたのだ。 もはや僕は神に嫌われているのだろうか?
と、今までの僕なら思うだろう。
前世では船の沈没で命を落とした。 沈没する船の中で僕は思ったんだ、特別な力があれば星成を守れたのに、と。
だからこそ、血の匂いに惹かれて現れたクラーケンを見た瞬間、僕が真っ先に思ったのは
———願ってもいない大チャンスだ。
☆
ファエットは自らの失態にようやく気がついたのだろう。 僕が血を海に垂らしていた理由を、ここに来て察する。
「ぼっちゃま! まさか先程自らの手を切っていたのは……」
「こいつは僕が呼んだんだ。 ファエットを説得するためにな!」
傾いていく船の中で、ファエットが剣を構えながら必死に叫ぶ。 だが僕は、薄ら笑みを浮かべながら近くに寝ていたサリウスの腕を自分の肩に回していた。
「リューズ! ジェイミーを頼むぞ!」
「任せてくださいませ!」
リューズは有無を言わさぬ速さでジェイミーの腕を肩にかけた。 それを見た僕は平然とした顔つきでサリウスを引きずりながら船尾の方に駆けていく。 僕たちの様子を見たファエットは狼狽していた。
「ぼっちゃま! あなたはクラーケンの怖さを分かっていないのですか!」
「慌てるなよファエット。 二人は僕の脱走に手を貸してくれる仲間だ、二人は僕たちで助ける。 それよりファエット、僕たちよりも自分の身を案じたらどうだ?」
「ぼっちゃま? 一体何を?」
僕は海から襲いかかるクラーケンの、丸太のように太い足を一瞥する。
「おいクラーケン。 この船を飲み込め」
体の一部さえ視認できれば、僕の絶眼は発動する。 森を出る前に検証済みの事だ。
僕の命令を聞いたクラーケンは、ものすごい勢いで長い足を船に叩きつける。 僕とリューズは船尾の柵に捕まったまま、船の中央を両断するように振り下ろされたクラーケンの足を傍観する。
ファエットは額に汗を浮かべながら、慌ててクラーケンの足を切り裂くが、別の足がすかさず船に突き刺さり、船は大きく揺れ始める。
「ぼっちゃま! おやめください! すぐに命令を取り消すのです」
「ファエット、立場をわかっているのか? これは交渉じゃないんだ。 ただ選択肢を与えているに過ぎない」
「せ、選択肢ですと?」
「クラーケン、僕たちを足に乗せろ!」
ゆっくりと、クラーケンの巨大すぎる足の一本が僕たちのすぐそばにやってくる、リューズたちを先に乗せ、余裕の足取りで僕もクラーケンの足に乗った。
船はほぼ垂直に競り上がり始め、ファエットは立っていられなくなり船尾のマストにしがみつく。
足元が不安定な船の上では、さすがのファエットもバランスを取れず、あの驚異的な速さも活かせない。
クラーケンの足の上から沈んでいく船を見下ろしつつ、僕とリューズはまっすぐな瞳でファエットを見据えた。
「僕たちを見逃せば、ファエットの命だけは保障できる。 だが、僕たちと共に来てくれるのなら、国外逃亡に協力してくれるならファエットも連れて行ける。 さあどうする? 僕が垂らした血の匂いに引かれてきたのはクラーケンだけじゃないぞ?」
ファエットはギョッと目を開きながら海に視線を落とすと、興奮して互いを喰い合う鮫の姿が目に映る。
「カモーリア? ぼっちゃま! あなた様はまさか!」
「ああそうだ。 こいつらは全て僕の命令に従うだろう。 なんせこの辺りは危険生物が多数生息する死の海域なんだろう? 海の中でこいつら全員を始末できるか? 流石のお前も、海の中では満足に動けないだろう?」
ファエットは歯を食いしばりながら海で暴れるサメの魔獣カモーリアと、クラーケンを順繰りに見る。
「お兄様! 船が飲み込まれ始めましたわ!」
リューズの指摘を受け、僕は余裕の笑みを浮かべながらファエットを凝視する。
「どうするファエット、僕を昏倒させればこいつらを止めることは不可能だ。 だからと言って僕と交渉する手段をお前は持っていない。 ジェイミーもサリウスも僕たちが連れているからな」
ファエットは僕とリューズの身を案じるばかりに、選択肢を誤った。 クラーケンの襲撃を予期した瞬間にジェイミーかサリウスを人質に取るべきだったのだ。 そうすれば交渉にはなっていたかもしれない。
だがファエットは僕たちの身を守ろうと、すぐにクラーケンと闘おうとしてしまった。 ファエットの善意を踏み躙るような形で彼を追い込んだ。
罪悪感がないわけではない。 だが、どんな手段を使ってでも僕はリューズとの約束を果たすと誓ったのだ。
「ファエット、時間はないぞ? お前を襲わないようこいつらには命令できる。 お前を殺したくないからな。 だから選択肢を与えているのだ。 僕たちを見逃して一人で離宮に帰るか、連れ帰るのを諦めて僕と共にこの国から逃げるか!」
メインマストに縛り付けていた黒外套は、すでにクラーケンに飲み込まれ、船の五割は沈み始めてる。
カモーリアとクラーケンが暴れているせいで、水飛沫がそこらじゅうに上がる死の海を眺めながら、ファエットは逡巡する。
「ファエット! 僕はお前を本当の親同然に慕ってきた! 僕の執事だと今なお思ってくれているのなら! 僕の手を取ってくれ! もう、お前を悲しませたくもないし、離れて心を傷めるのも嫌なんだ!」
僕が伸ばした腕を呆然と見上げ、ファエットの視線は泳ぎ始め、フルフルと肩が震え始める。
「お前が危惧した通り、僕が暗殺される危険はこの国から逃げるまでは消えたりしないだろう。 けれど見てみろ! 最強と言われていたお前ですら追い込むほどの力を、僕の絶眼は持っている! ジェイミーやサリウスも一緒なんだ! 僕たちなら襲い来る刺客を返り討ちにすることも容易なはずだろう!」
「わたくしもいますわ! 必中の絶眼は、ファエットには通じませんでしたがあの黒い方は追い込めましたもの!」
「ファエット! 一緒に逃げよう!」
すでに船は数秒で全て飲み込まれるだろう、そんなタイミングで、ファエットは悔しそうに歯を食いしばりながら顔を伏せた。
「わしは、王妃様に忠誠を誓っているのです。 ぼっちゃまの命を守るよう、仰せ使っているのです」
「だったらなおさら一緒に来い! お前が近くにいれば……宝帝剣と恐れられたお前がいれば、僕たちは安全なはずだ! お前の隣が、一番安全な場所のはずだろう! 離宮に戻らなくとも、お前がそばにいてくれれば僕たちは安全なんだ!」
船が最後の断末魔を上げながら、クラーケンに飲み込まれていく。 これ以上は待てない。 わずかに残った船尾側のマストに捕まっていたファエットに、最後の祈りを込めて手を伸ばす。
「ファエット、僕たちは絶対に死なない! お前ですら捕まえることができなかった僕たちならば、死ぬわけがない。 そんな僕とお前が一緒なら絶対に! どんな敵が来ようと誰も死なずに返り討ちにできる!」
僕の叫びを聞きながら、ファエットは目を見開き、マストにしがみついていた腕にグッと力を入れる。
「うだうだ迷っているんじゃない! 敗者なら敗者らしく、黙って勝者である僕の命令に従え!」
僕の最後の叫びを聞いたファエットは、呆れながらもため息をこぼした。
「まったく、随分とわがままなぼっちゃんに仕えてしまったわい」




