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54日目:先輩、家に帰る。

お泊まりも終わり。

 朝。目覚まし時計が鳴る五分前。


 カーテンの隙間から朝日が射し込むことはなく、代わりに雨音が窓を軽く叩いている。

 そろそろ梅雨が明けてもおかしくないと思うけど、空の悪足掻きだろうか。幸い、そこまで強い雨ではなさそうだ。


 今日はシャワーを浴びなくても平気そう。本格的に暑くなるのはまだ先のようで一安心する。

 昨日の夜は色々なことをすると言っていたけど、なんだかんだでキス止まりだったし。いや、それで良いんだけどね。


 幸せそうに眠る先輩の顔をボーッと眺めていると、先回りした私の五分を取り返すかのように目覚まし時計が鳴り響いた。しかし眉毛を少しだけ動かしただけで、起きる気配がない。流石は眠り姫。


「先輩、起きてください」

「……キスで目覚めるらしいよぉ」

「どこ情報ですか、それ」


 出典(ソース)は童話だろうか。寝起きで口にキスをするのは(はばか)られるから、頬にしておこう。姫の言いなり。


「おかげさまで目覚めたぁ。おはよぉ」

「おはようございます」

「今日は雨なんだねぇ。大丈夫ぅ?」

「これくらいの雨なら、まだ平気な方です」

「そっかぁ」


 まず私の心配をしてくれるなんて、優しすぎる。雨が降っているイコール私がダメになる、という等式が先輩の脳内で成立しているのだろう。


「……あの、心配してくださりありがとうございます」

「あはぁ。これくらい当然のことだよぉ」


 そう言って、寝起きとは思えないほど見事……いや、美事とでも形容すべき笑顔を私に向ける。その笑顔は、雨雲に隠れた太陽の代わりに、私を明るく照らしてくれる。


 ここからは昨日と同じように朝食を食べて、登校準備を済ませて駅に向かうだけだ。

 雨が降っているから、傘も持っていかないと。


―――――――――――――――――――――


「センパイからメールがきたんだけどぉ、ボクの家に父親はもういないみたい」

「探偵かなんかですか」


 昼休み。第二理科準備室は使えないので、購買で買ったパンを空き教室で食べている。勿論、先輩と一緒に。

 この二年生の階にある空き教室は、普通の教室の約二つ分の広さで、どの学年の生徒でも自由に使うことができる。

 食事をする人、カードゲームに興じる人、昼寝をする人。様々な人が好きなように過ごしている。


「ボクの家の前を通ってくれたみたいでねぇ。車も停まってないし、夜の九時に電気も点いてなかったってさぁ」

「つまり、お泊まりは終わりですか」

「そうなるねぇ。バイトが終わったら、荷物を取りに行くね」

「わかりました。……そっか、もう帰っちゃうんですね」


 思った以上に寂しい。むしろ、今回のケースの方がレアなわけで、先輩が泊まっていることの方が稀有で希少で普通じゃなかったわけで。

 いつもの日常に戻るだけなのに、なんだろうこの喪失感は。


「ボクが帰っても、いつでも会えるよ?」

「えっと、まぁそうなんですけども」


 明日が前期の終業式で、明後日からは待ちに待った夏休みだ。流石に毎日は会えなくても、高頻度で会えるのは間違いないだろう。先輩のおばあちゃんに会いに行くのと、北海道に旅行に行く予定まであるわけだし。


「そういえば、旅行許可証は出したぁ?」

「出しましたよ。未成年だけでも旅行許可って下りるんですね」

「驚いたよねぇ。ダメだったらセンパイにお願いしようと思ってたんだけど」

「流石に北海道にまでは同行してくださらないのでは?」

「大学生って暇らしいよぉ。夏休みがすごく長いから」

「なるほど」


 大学進学を目指すのも悪くないかもしれない。なんて、動機が不純すぎるか。

 お互いパンを食べ終え、昼休みの残り時間を確認する。あと十五分。何を話そうか。


「夏休みに入ったらさ、暇な時はいつでも連絡してもいい?」

「積極的にログインしようとする姿勢、大事ですよね」

「最低でも、三日に一回はログインしたいねぇ」

「是非、そうしてください」


 先輩と遊ぶ以外の予定が本気で無い。強いて言うなら宿題くらいだろうか。それも大したことではないけれど。


「それじゃ、そろそろ教室に戻るねぇ」

「はい。では、また後で」


 後でというのは、バイトが終わって、家に帰る時を意味する。仕方がないことだけど、もう少し泊まってくれても良いのに。


―――――――――――――――――――――


 あっという間に先輩が帰る時間になった。

 荷物をまとめて、リュックを背負う先輩。もう帰っちゃうんだ。泣きながら抱きしめたりしたら、思い留まってくれたりしないかな。なんて。

 とは言え、私とお母さんがどれだけ平気でも、ずっと泊まり続けるのは先輩の心が落ち着かないだろう。逆の立場なら、私だってきっとそうだ。


「本当にお世話になったねぇ。ありがとぉ」

「いえ、とても楽しくて幸せでしたよ」

「ふふふ、ボクも」

「……なんか、本当に寂しくなります」


 冗談のつもりだったのに、本当に泣きそうだ。先輩が家に帰れることを、喜ばないといけないのに。

 瞳が潤みそうになるのを必死に堪え、先輩を見送る。


「また明日ねぇ」

「はい……また、明日」

「莎楼?」

「は、はい?」

「ボクはいつでも君と一緒だよ?」


 先輩は、私が別れを惜しんでいることを看過するほど鈍い人ではない。

 その言葉だけで、なんだかとても優しい気持ちになれた。そうだ、一つ屋根の下で過ごさなくても、先輩はいつも一緒にいるじゃないか。


 大切なのは体の距離ではなく、心の距離だ。


「そうですね、その通りです。何も心配することなんてありませんでしたね」

「そうだよぉ」

「では、また明日」

「また明日ぁ。おやすみぃ」

「おやすみなさい。……あ、忘れていました」

「んぅ?」


 先輩の唇に、優しくキスをする。いってらっしゃいのチューってこんな感じなのかな。


「朝は頬にしましたが、口にはしてませんでしたよね」

「えへへ。嬉しいなぁ」

「それでは。今度こそ、また明日」

「うん、また明日ねぇ」


 笑顔で玄関のドアを開ける先輩に、笑顔で手を振る。

 今夜は、浴槽やベッドがいつもより広く感じたりするのだろうか。

次回、終業式。前期が終わります。

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