132日目:mother(前編)
愛を知らずに、人は優しくなれない。
金曜日。テストという困難を乗り越えた私たちにとって、それはまさに読んで字の如く、黄金に輝いて見えた。
残念ながら、天候はお世辞にも輝いているとは言えない曇天だけど。なので、今朝の理科室は少し暗い。
「明日、いや今日の夜からお泊まりしたいんだけど。いいかなぁ?」
ログボの前に、嬉しいお誘いを受けてしまった。
それに対して、私がどう返事をするかなんてわかりきっているだろうに、敢えて『提案』という形を取る先輩。
いや、いつもなら土曜日の朝からとかだけど、今日の夜からっていうのは珍しいからかもしれない。
それとも、私はお母さんに許可を得たりしないといけないから、それに対する配慮かな。優しい。
「もちろん。どちらの家でします?」
「ボクの家でいい?」
「大丈夫ですよ。一度、家に帰ってから向かいます」
「はぁい。実はね、ちょっと見てもらいたいものがあって。だからボクの家にしたくって」
「子猫とか拾いました?」
「違うよぉ。別に、楽しみにしてもらうものでもないんだけどさ。来てからのお楽しみってことで」
「あれっ、結果的に楽しみにすることになっちゃいましたが」
「あはぁ。日本語って難しいねぇ」
楽しみにすることではなくても、こんな前フリをされてしまったら気にはなる。
先輩の家じゃないと見れないってことは、持ち運ぶのが困難な何か、ってところだろうか。
皆無に等しい情報から推理しても仕方ない、素直に今夜を楽しみに待とう。
「取り敢えず、今日のログボをどうぞ」
「はぁい。ちゅー」
それはとても軽い、海外なら軽い挨拶と思われるくらいのキスだった。
「あっさりしてますね」
「だって、今日はお泊まりだよ?」
「……なるほど」
それは、今夜は濃厚で濃密なキスを沢山するよ、という宣言に等しい。
いや、もしかするとキスでは済まないかもしれない。だって私たち、恋人同士なんだから。
想像したら、鼻血が出そうになってきた。まるで鼻に直接、熱の塊を注ぎ込まれたみたいだ。……なんだろう、熱の塊って。
「それじゃあ、また後でねぇ」
「はい、また後で」
理科室を出て、それぞれの教室に向けて歩き出す。
妄想により発せられた熱はゆっくりと冷め始めて、それとは裏腹に、心臓はまだ早鐘を打っている。
それはきっと、先輩の言う『見せたいもの』のこととか、多分優しくはしてもらえないであろう夜のこととかが、グルグルと頭の中を駆け巡っているからだろうな。
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「君に見てもらいたかったのは、これだよぉ」
授業を終えて高速で帰宅し、超速で支度をして先輩の家に突撃した私の眼前に、立派な錠前でロックされている箱が置かれた。
少なくとも、素人がペンチだとかで破壊するのは不可能だと思わせる程度には立派だ。
箱は、恐らく木製。昔のゲームに出てくる宝箱を小型にしたような見た目をしている。
「これが、私に見せたかったものですか。中には何が入ってるんですか?」
「それが、どうしても鍵が見つからなくてさぁ。この箱はね、使ってない部屋を片付けたら出てきたんだけど」
「鍵は見つからなかった、と。無理やり開けるのは難しそうですし、一緒に探し……」
錠前を手に取り、鍵穴を見た瞬間に電撃が走った。
あるじゃないか。伏線と呼ぶかも怪しかった、用途不明の鍵が。
「せ、先輩!」
「な、なに?」
思ったよりも大きな声を出してしまった。びくっ、とした先輩に謝罪をしつつ、まだ確定したわけじゃないから期待はさせないように言葉を紡ぐ。
「もしかしたらなんですけど、心当たりがあります。一度、家に戻りますね」
「ボクも一緒に行くよ」
「いえ、あの本当にすぐ帰ってくるので。自転車を借りても良い?」
「うん、いいよぉ。はい、自転車のキーだよ」
「ありがとうございます。じゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃあい」
先輩に見送られ、車のような顔つきで駐車場に置いてある自転車の盗難防止用ロックを外す。
流石に自転車で家に戻るのは無謀だろうか。でも、今は電車を待つ時間が惜しい。
サドルに座り、カゴの中に入っていたヘルメットを被る。先輩、ちゃんとヘルメット着用してるんだ。偉いな。
スタンドを蹴り上げて、自宅に向けて全力疾走する。乗るのは久しぶりだけど、一度覚えたことは体や脳は覚えている。
「はっ、はっ、はっ……意外と疲れる……」
夜風が気持ち良いけれど、同時に寒くもある。お風呂上がりじゃなくて良かった。風邪を引きかねない。
息を切らしながら走行していると、気が付けば自宅付近に到着していた。信号がほとんど青だったことが功を奏した。
帰りのことを全く考えていなかったけど、まぁなんとかなるだろう。
あの時、先輩の母親から受け取った鍵を回収したら、水でも飲んで再出発だ。
家に到着し、静かに自転車を停める。スタンドを立てて、しっかりロック。ヘルメットをカゴに入れて、家のドアに手をかける。
「……あれっ、鍵がかかってない。忘れてたのかな」
ドアを開けると、玄関に見たことのない靴があった。なるほど、来客か。珍しいな、こんな時間にお母さんに用がある人なんて。
邪魔するのも悪いし、なるべく足音を立てないようにリビングの横を通過する。けど、覗くつもりは無かったのに、なんとなくドアが開いていたから見てしまった。
「……え?」
「あら。忘れ物でもしたの?」
「え、えっと……そんな感じなんだけ、ど。その、え……?」
いつもとなんら変わりないお母さんに返事をしつつ、動揺を隠せない。
目の前の光景を、受け入れられない。
脳が、魂が、全力で拒否をしている。けど、夢や幻覚でないことは自明だった。
「はぁ。また会っちゃったね」
「先輩の、お母さん……?」




