10月8日火曜日18:13:ログアウト
「莎楼! ま、まって!」
走り去る莎楼の背中に向けて叫んでも、こちらを振り返ることはなかった。
慌てて走って追いかける。苔のむす階段を、徒競走みたいな速さで駆けていく莎楼。
危ないよ、って叫ぼうとした瞬間。自分の右足が苔を踏み、体が一瞬だけ無重力になった。
「いっ!」
背中から思い切り倒れ込む。咄嗟に出した両手は、一応クッションとしての役割を果たしてくれた。
もし正面に倒れていたら、この途方もない長さの階段の下まで転げ落ちていたと思う。でも、そんなことはどうでもいい。
階段の真ん中に付いている金属製の手すりを掴んで、立ち上がる。
「は、早く追いかけないと……」
右足が痛い。背中もおしりも、両手も肘も痛い。
でも、それよりも心が痛い。
早くしないと、全部が終わってしまう。動け、走れ。早く。速く。
「はやく……うごいてよ……!」
よくて捻挫、悪くて骨折。右の足首に、そんな激痛が走る。階段の下を見てみたけど、莎楼の姿はもう見えなかった。
「莎楼……」
何度も間違えては思い知り、反省してはまた同じことを繰り返す。
莎楼からの告白。
ずっと待っていた言葉だったのに、自分のことを先に考えてしまって、最初に言うべき返事を誤った。
これで何度目だろう、本当に嫌になる。もっと自分のことが嫌いになる。
莎楼はボクの言葉を、手遅れだったと認識していた。違うのに。ずっと待ってるって言ったのは、ボクの方なのに。
「変われなかったのは、ボクの方なのに……」
手すりに体重を預けて、軽く右足を浮かせながら階段を下りる。
一番下に着いた頃には、莎楼が走り去ってから10分は過ぎていた。どう帰ったかはわからないけど、もう追いつくのは不可能だ。
「ただでさえ手遅れなのに……早く、ちゃんと話さないと」
さようなら、と言った莎楼の顔がずっと目の前にある。泣きたいし消えてしまいたい。
けど、涙を浮かべて後悔を繰り返しても、時計は左向きには回らない。
足を引きずって、ほとんど夜と相違なくなった歩道を歩く。ヘンゼルとグレーテルとは違って、莎楼の痕跡は落ちていなかった。
「ん……?」
ヘッドライトを点け始めた車が行き交う中、見覚えのある一台が歩道に寄せて停まった。
「カサ。足を引きずってるみたいだケド、怪我してるの」
「センパイ……」
「取り敢えず、乗りなよ」
「血っ、シートに血がついちゃうかも……」
「いいよ別に。病院行った方がいいよね」
「ううん……大丈夫。だっ、大丈夫だから」
どうしよう、泣きそう。泣いていいのはボクじゃないのに。
押し殺していた感情が、助手席に座ってセンパイの顔を見た瞬間に、堰を切ったように溢れ出す。
「うぅ……ひっ、ひぐぅ……!」
「……病院に行かないなら、私の家に来てもらうケド」
「うっ、うん……。あっ、あのね」
「話は後でゆっくり聞く。ティッシュはダッシュボードの中に入ってるからね」
「ありっ、ありがとぉ……」
目をこすりながら、動き出した車の中から外を見る。もしかしたら、まだ莎楼がいるかもしれない。そんな淡い期待を胸に探してみたけど、やっぱりいない。
もう、キスできないのかな。
優しく抱きしめてもらえないのかな。
面白い話も、他愛ない会話もできないのかな。
あの素敵な笑顔も、もう見れないのかな。
「着いたよ」
シートベルトを外して、車から降りる。
鍵をかけたセンパイが、ゆっくり歩こうとするボクのことをお姫様抱っこした。……え?
「えっ、センパイ?」
「足、痛いでしょ」
「い、痛いけど……」
「階段上るだけだし、我慢して」
別にイヤなわけじゃないんだけど。
というか、センパイの細い体のどこにこんな力があるんだろう。背負われるくらいならまだわかるけど。
階段を上り終え、ドアの前で静かに下ろしてもらった。
解錠したセンパイの後に続く。ドアの音を聞きつけたタイラちゃんが、ぺたぺたと歩いてやってきた。
「おかえり、ヒアちゃん。……と、カサちゃん?」
「ただいま」
「おじゃまします……」
「きーちゃん、薬箱持ってきて」
「うん。わかったよ」
リビングに向かうタイラちゃんに着いていく形で、部屋の中に入る。
「ソファに座って足見せて。……うん、折れてはいないね」
「わかるの?」
「元陸上部だし。何度も見てきたよ」
そういえばそうだった。当時は今のニケよりもすごかったらしいし、ボクのことをお姫様抱っこできるのも頷ける。
「ヒアちゃん、薬箱と氷水を入れた袋を持ってきたよ」
「ありがとう。捻挫した直後は冷やす、というわけで氷水をしばらく当てといて」
「うん」
「手の平と、後は何処が痛いの」
「肘とおしり……かな」
「頭を庇って、後ろ向きに倒れたってことか。本当に転んだだけなの」
喧嘩やトラブルに巻き込まれたんじゃないか、と心配するセンパイ。
漫画とかでも転んだだけって言う言葉は疑われるんだけど、今回は本当にただ足を滑らせただけ。
「うん。……あのね、莎楼のことを悲しませちゃったの」
「サドちゃんを追いかけて転んだってことか」
センパイは話を聞きながら、手馴れた様子で消毒を済ませて、絆創膏と包帯でボクの手を治療している。
本題に入ろうとしたところで、タイラちゃんが空気を察したのか寝室に入っていった。別に聞いてもいいのに。
「莎楼がね、告白してくれたの。でも、今のボクじゃ付き合えないと思って……」
「あんなに待ってたのに、断ったんだね」
「し、進路もまだ決まってないし。莎楼はどんどん成長してるのに、ボクは全然変わってなくて」
「変わってると思うケド」
「……え?」
「私が高校に通っていた頃に比べたら、カサは変わったよ」
「たとえば……?」
「よく笑うようになった。一人で抱えないで、相談してくれるようになった。友だちも作れるようになったし、成長してると思うよ」
とても優しい声色。柔和な表情。そしてきっと本心で言ってくれている言葉。
「……センパイも変わったね」
「褒めてるの、それ」
「うん。すごくいいと思う」
「そう。はい、終わったよ」
「ありがとぉ」
手を握って開いてを繰り返してみる。大丈夫、ちゃんと動かせる。
「で、どうするの。サドちゃんの家まで送ろうか」
「……いや。多分出てきてくれないと思う」
「電話……は出るわけないか」
「うん。どうしようかなぁ」
明日は、2年生は修学旅行の振替で休みだから学校では会えない。直接家に行ったとしても、きっと出てきてくれないだろう。
肝心な時に役に立たないスマホに、八つ当たりの一つでもしたくなる。
家に行くでもなく、電話でもメッセージでもなく、莎楼と話す方法。何かないか、記憶を必死に辿る。
悲しみで麻痺した記憶の中から、たった一つだけ、決して冴えているとは言えない方法を見つけた。
「……センパイ、肆野に連れて行って」
「良いケド。サドちゃんの家には行かないんでしょ」
「うん。あ、その前にボクの家に寄ってもらってもいい?」
「ん。きーちゃん。ちょっと出てくるから、夕飯を3人分よろしく」
「はーい」
「行くよ、カサ」
「うん!」
役に立たないプライドを、捨てる時が来た。
想いは言葉にしないと伝わらない。何度も思い知ったことだけど、何度も間違えてしまうけれど。
こんなに心が痛いままじゃ終われない。
ずっと一緒に居たい、そんな簡単な言葉も言えないままで終わっていいわけがない。
この恋を、こんな形で終わらせるわけにはいかない。
「……まっててね、莎楼」




