90日目:きっともう私が居なくても
「しばらく、ログインボーナスはお休みにしない?」
朝、第二理科準備室。
いつも通りの時間に、いつも通りキスをするために扉を開いた私に、先輩は開口一番そう言った。
「え……?」
過去に自分からその提案をしたことはあるけど、まさか先輩から言われるとは思いもしなかった。
「あと二週間とちょっとで、テストが始まるでしょ。だから、そろそろお休みかなって」
「ま、待ってください。流石にまだ早いというか、そもそも別に休まなくても大丈夫ですよ。毎朝キスするくらいで、テストに支障なんて」
心臓が嫌なリズムを刻む。何故か必死になっている自分に気がつく。
事実テスト前ではあるわけだし、先輩の提案を断る理由なんて本当は無いはずなのに。
ログインボーナスなのだから、ログインするかどうかは先輩の自由だ。運営が無理強いすることでもない。
でも、けど、だけど。
「でもさ、せっかく君の順位が上がったわけだし。どうせならキープしてもらいたいから」
「……せ、先輩は平気なんですか。ログボが無くても」
「なくなるのは困るけど、お休みなら大丈夫だよ」
人生に足りないのはログインボーナスだと先輩は言っていたのに、もう満たされたのだろうか。
逆にどんどん欲しがって、歯止めが効かなくなっていたのは自分の方だったのか。
なら、私の人生に足りなかったのはきっと──
「取り敢えず、今日のログボはお渡ししますね。一応、90日目ですし」
「うん。お休み前に、いっぱいちゅーしよ?」
「今日はお互いバイトですし、授業までそんなに時間無いですけど」
「それもそっか」
キリのいい数字でも、特別なログボを渡せるとは限らない。
この感じだと、バイトの後に会うのも厳しそうだ。
きっともう私が居なくても、先輩は大丈夫なんだろうな。
そんなことを考えると、思わず泣きそうになる。
でも先輩に変な心配をかけたくないし、グッと堪えてキスをする。
先輩の、そして私の毎日に当然のようにあったキスという行為が、なんだか遠くに行ってしまうような感覚。
唇の感触、先輩の体温、長い睫毛、いつも通りの甘い匂い。
次のログボまで、忘れないようにしよう。
「……それじゃ、教室に戻りましょうか」
「うん。ありがとぉ、莎楼」
やっと語尾がいつも通りになった先輩と、第二理科準備室を出る。ここに来ることも、しばらくは無さそうだ。
ログボが無くても大丈夫だとあなたが言うのなら、それはきっと喜ばしいことなのだろう。
気を遣ってくれたことへの感謝も、先輩の人生が満たされつつあることへの喜びも、今は何も感じられない。
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「そういう時は、ちゃんと話し合った方が良いよー」
「ココさん……」
放課後。月曜日なのに珍しくシフトを入れていたココさんと、Ventiで皿を洗いながら会話している。
人に相談なんて、随分と柄にも無いことをしてしまった。
「先輩は本当にクグルちゃんのことを想ってそう言ったんだろうし、きっと断腸の思いだったと思うよー」
「そう、なんですかね。なんだか……もう、私が居なくても大丈夫なんじゃないかって。そればかり考えてしまって」
「このコップに水を入れ続けるとさ、取り敢えず満タンになるでしょ」
「は、はい?」
洗っている途中の、お冷用のグラスに溢れるまで水を注ぐココさん。
突然の展開に困惑する私を他所に、ココさんは続ける。
「でも、飲んだりひっくり返したり、なんなら普通に放置してるだけでもー、中の水は減っていくよね」
「そう、ですね」
「愛もそうだよ」
そのグラスはひっくり返され、中の水が全て排水溝に飲まれていく。
「一度は満たされたように見えても、いつかは空っぽになっちゃうから。だから、先輩にはクグルちゃんが必要だと思うなー」
「……泣いても良いですか?」
「えっ、そんなに響くとは思わなかったなー」
「いや、本当にもう……なんか、今日ずっと憂鬱になってたのが恥ずかしいです」
「悩んだり落ち込んだりできるってことは、それだけ相手のことが好きってことでしょー?」
「そう、だと良いな」
堪えきれず、涙が頬を伝う。
先輩以外の人の前で泣くの、初めてかもしれない。
「えっ、わっ、泣かないでクグルちゃん。いや泣いても良いんだけど、えっと」
「ふふっ、ココさんもそんなに慌てることがあるんですね」
「何度も言ってるけど、私も普通の人間だからねー?」
「そうですね。ココさんも私も、先輩だって普通の人間ですもんね」
「そうだよー」
肩で涙を拭い、皿洗いを終わらせるために手を動かす。
「ありがとうございます、ココさん」
「いつも素敵な物語を見せてもらってるから、これくらいは当然だよー。認めないからね、バッドエンドなんて」
「保証はできません。けど、頑張ります」
「同じことを、何年も前に親友に言われたことがあるよ」
「五十右さんか左々木さんですか?」
「違うよー。クグルちゃんの知らない子」
「そうですか」
ココさんのことをほとんど知らないので、交友関係の把握も勿論していない。
というか普通に考えて、一生関わることが無くてもおかしくないくらいキャラが違うから、今こうして相談までしているという事実がなんだか面白かったりする。
皿洗いを終えると、丁度いいタイミングでお客さんが来た。週に三回は来る常連さんだ。
長い前髪が目元を隠し、食事の時以外は常にマスクを着けている。
個人的には勝手にOLさんだと思っていて、理由としては仕事終わりらしい時間に来るのと、スーツを着ているから。アルコさんもスーツを着ているから、それだけで職種の判断はできないけど。
「私が行くねー。クグルちゃんはお皿拭いといて」
「わかりました。お願いします」
スカートをふわりと揺らして、ココさんが常連さんの元に向かう背中を見送る。
「おかえりなさい。いつもので良いですかー?」
「ただいま。うん、よろしく」
「はーい」
ココさんがマスターの居る厨房に行くと、常連さんが私に手招きをした。なんだろう。
拭いている途中だったグラスを立てかけて、常連さんの座る一番奥の席に向かう。
店内は空いているのに、カウンター席ではなく一番奥の、店内を見渡せる席にいつも座る。
「はい、なんでしょうか」
「少し、話し相手になってくれる?」
「構いませんよ」
「ありがとう。実はね、仕事に行き詰まってて。不躾な質問で恐縮なのだけれど、貴女は恋人と喧嘩とかしたことある?」
「こっ、恋人は居ないんですけど、先輩と……えっと、喧嘩ではないんですけど、意見の相違……のようなことなら今日ありまして」
「具体的に……は難しいか。ニュアンスで良いから、どのようなすれ違いがあったのか言語化してもらっても良い?」
「えっとですね。私は毎日会いたいけど、先輩は気を遣ってなのか、しばらくは会えなくても大丈夫と言った……的な感じです」
「なるほど。恋愛経験に乏しい私が言うのは憚られるけれど、お互いの気持ちが同じでも、相談も無く結論を出されると、すれ違ったように感じる……ってところかな」
「そ、そうです。そんな感じです」
「とても参考になった。ありがとう」
「それは良かったです……?」
なんの仕事の、どんな部分の参考になったのかよくわからないけど、常連さんは満足そうなので良いかな。
「お礼と言ってはなんだけれど、これを」
そう言って、常連さんは長財布から一万円札を取り出した。そして、それを私の手に握らせようと手を伸ばす。
「流石に受け取れませんよ、そんな大金!」
「そう。でも、無料で取材をするのは主義に反するのだけれど。……なら珈琲を一杯、一緒に飲んでくれる?」
「それなら、まぁ……」
仕事中だけど、それくらいなら平気だろうか。
少なくとも、一万円を受け取るよりよっぽどマシなはず。
「お待たせしましたー、珈琲とカルボナーラです」
「ありがとう。珈琲をもう一杯お願いしても?」
「かしこまりましたー」
珈琲とカルボナーラの乗ったプレートを常連さんの前に置いて、そのままココさんは厨房に戻った。
ココさんにばかり仕事をさせているようで、少し申し訳ない気持ちになる。
「早めに解決すると良いね。一緒に居ても、寂しくて虚しいだけ……なんて嫌でしょ」
「はい、ありがとうございます。……それって、『サヨナラエナジー』の台詞ですか?」
「よくわかったね」
「私、行方行方の大ファンなんです」
まさか常連さんも行方行方のファンだったなんて。しかも台詞を引用するなんて、かなりコアなファンだ。
そういえばその台詞、前に先輩が朗読していたっけ。だから、他の台詞より記憶に残っているのかも。
「お待たせしましたー、珈琲です」
「彼女の前に置いて。私からのお礼なの」
「はーい」
「ありがとうございます、ココさん」
ココさんはウィンクをして、厨房に消えた。
常連さんがカップを持ったのを合図に、私もカップを持つ。湯気がゆらりと揺れて、いつも通りの素敵な香りが鼻腔をくすぐる。
「いただきます」
「いただきます」
バイトが終わって、家に着いたらすぐに先輩に電話しよう。
ログボが無くても平気なんて、私が居なくても大丈夫なんて、絶対に思わせないために。




