60日目:さらば尾途
3泊4日の尾途旅行も、遂に終わりを迎えます。
開けたままの窓から入り込んだ朝の風が、私の頬を撫でる。
体を起こして横を見ると、まだ先輩は眠っていた。昨日の夜の先輩は、どうして何もしなかったんだろう。
いや、別に良いんだけどね。
なんだかまるで、私がそういうことをしたかったみたいじゃないか。違う違う、ただシンプルに先輩のことが心配になっただけというか。なんというか。
もしかして、先輩なりに気を遣ったのだろうか。こうして一緒に寝る度に、先輩はいつも我慢をしているのかな。
だとしたら、私は少しでも先輩の願いを叶えてあげたい。
布団から立ち上がって、閉めるために窓まで歩く。
カラカラ、という音が聞こえたのか、先輩がもそもそと動き出す。
「……おはよぉ」
「おはようございます」
「珍しく、君の方が先に寝てたねぇ」
「あれっ、そうでしたか?」
「うん。でも、先に起きるのはやっぱり君だねぇ」
メイドさんは、主人より後に寝て先に起きるのが鉄則と聞いたことがある。私はまだまだだな。
先輩と一緒に階段を下りて、おばあちゃんに朝の挨拶をしようとリビングを覗き込む。
しかし、そこにおばあちゃんの姿は無く、代わりに見たことのない綺麗な女性がソファに座っていた。20代前半くらいだろうか。
真っ白な肌に、腰辺りまである黒髪。右目には黒い眼帯を着けていて、いつぞやの先輩が着ていたようなゴスロリを着用している。暑くないのかな。
音一つ立てず立ち上がり、ゆっくり私たちに歩み寄る。
「久しぶりね、カサネちゃん」
「おっ……お久しぶりデス、刹子さん……」
先輩が敬語、そしてさん付け!?
ヒアさんや店員さんにも割とタメ口の先輩の、こんな姿初めて見た。明らかに強ばっている表情から推察するに、この人が『会いたくない親戚』の方なのだろう。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、もしくは金縛りにあったみたいに、先輩は硬直している。
そんな先輩の横をするりと通り抜け、私のことを左目でじぃっと見つめる。なんだろう、少し怖い。
「貴女は?」
「わ、私は後輩の茶戸と申します」
「サドちゃん、ね。私はカサネちゃんの従姉妹、乞祝刹子よ。よろしくね」
「よろしく、お願いします……?」
テラコさんの右手が私の頬に触れる辺りまで伸びた、瞬間。
金縛りが解けたらしい先輩が、その手を遮った。
「さ、触らないで……ください、わたしの大切な人なんデス」
「先輩……」
日本に来て一年目みたいな言葉になっているけど、その点に目を瞑ればめちゃくちゃカッコイイ。惚れ直しちゃう。
「あらぁ。私に向かってそんなことを言えるようになったの?」
「……えっと、その」
「前よりずっと可愛くなったわね。その子のおかげかな?」
「え、いや……」
「食べ頃になった?」
「ヒッ」
「冗談、よ。ところで、いつ帰るの?」
「もうすぐだけどっ、デスけど……」
「あらぁ、それは残念」
テラコさんは残念そうな顔をして、肩を竦める。
それ以上は何も言わず、玄関に向かって歩き出した。
「ど、どこに行くんデスか?」
「ウサギちゃんでも可愛がりに行くわ」
そう言って、テラコさんは出て行った。ウサギちゃんって、もしかしてカズマくんのことだろうか。
ピシャリ、と玄関の引き戸が閉まった瞬間、先輩は膝から崩れ落ちた。
「はぁぁぁぁ……嵐みたいだったよぉ……」
「そんなに怖い方なんですか……?」
「怖い……そうだね、恐怖とでもいうべき存在かなぁ。とにかく、あの人にはあまり関わりたくない」
「あんな先輩、初めて見ましたよ」
「忘れて……?」
「無理です」
たどたどしい敬語と恐縮した表情が、私の脳と網膜に焼き付いてしまった。しかし恐縮という言葉、恐れて縮むだなんて、今の先輩にピッタリすぎる。
「とにかく、早く支度して帰ろ?」
「わかりました。そういえば、メナミさんが居ませんね」
「多分、それも刹子さんの作戦だねぇ」
あ、本人が居なくてもさん付けで呼ぶんだ。随分と徹底して身に染みているらしいことが窺える。
取り敢えず洗顔と歯磨きをするために、洗面所に向かう。朝食は適当にパンでも買おうか、と思ったけど、そういえばコンビニとか無いんだった。
お互い洗顔を済ませ、一緒に歯を磨く。鏡の中の私たちは、まるで恋人のようだ。朝の気怠い空気感とか、距離感とかがそう映しているに違いない。
口を濯ぎ、自分の歯ブラシと洗顔フォームを持つ。先輩が口を濯いでいる間に、先に部屋に戻ろう。コンタクトを付けるところを見るのも悪いし。
階段を上りながら、おばあちゃんともこの家ともお別れと思うと、少し寂しくなってきた。私の悪い癖だ。
部屋に入り、鞄から透明のポーチを取り出して歯ブラシと洗顔フォームをそこに入れる。脱いだ服や、スマホの充電器も鞄にしまう。
「お、すっかり準備完了だねぇ」
「なんだか、ほんの数日泊まっただけなのに寂しいです」
「ホテルに泊まった時も言ってたよねぇ」
「多分、私は何かが終わるっていうのが苦手なんだと思います」
「なるほどねぇ」
「そういえば、メナミさんはお戻りになられましたかね」
「まだ帰ってきてないねぇ。おばあちゃんが戻ってきたら帰ろっか」
「はい」
先輩も荷物をまとめ始める。まぁ、ほとんど何も持ってきていないみたいだけど。
先輩が最低限の荷物だけで来れるのは、着替えも歯ブラシも常備されている、第二の実家みたいなものだからだ。いつか私も、そんな場所を見つけたい。
ガラガラ、と玄関の引き戸が開く音が聞こえた。メナミさんだろうか。それともテラコさんだろうか。
「私、見てきますね」
「ボクも一緒に行くよ」
荷物を持って、一緒に階段を下りて玄関を覗くと、おばあちゃんとテラコさんが靴を脱いでいるところだった。正解は二人ともでした。
「二人とも、もう帰るんだってぇ?」
「はい。お世話になりました」
「またいつでも遊びにおいで」
「はい、その時までには答えを出しておきます」
「あらぁ。その時は私も会いたいわ、カサネちゃんにサドちゃん」
「ハイ、今度は一緒にご飯でも食べマショ……」
本当に先輩の敬語は面白い。一昔前の漫画に出てくるロボットみたいだ。
「それでは、失礼します」
「バイバイ。おばあちゃんと、刹子さん」
「ばいばい」
「御機嫌よう」
二人に頭を下げ、引き戸を開けて外に出る。
ここに来た日と同じような晴天だ。ほとんど雲も浮かんでいない青空の中、トンビが飛んでいる。
蝉の鳴き声と、私たちの砂利を踏む足音が織り成す夏の音。たまに吹く温い風が草木を撫でて、葉の音も混ざる。天然のオーケストラだ。
「先輩、お腹空きましたね」
「そうだねぇ。あと、キスもまだしてないよ?」
「60日目のログボですが、普通にキスだけで良いんですか」
「うーん。じゃあ、いーっぱいチューして?」
「わかりました」
相変わらず誰も居ない、寂れた駅に到着した。電車が来るまで、あと5分ほど。意外にギリギリだった。
まずは1回目のキスをしよう。どうせ誰も居ないから、周りを気にせずに唇を重ねる。
「んっ。……そうそう、さっき君がおばあちゃんに言ってた、『答えを出しておく』ってなんのこと?」
「……内緒です」
「なんかおばあちゃんに言われたのぉ?」
「悪い話ではありませんよ、私にとっても先輩にとっても」
「ふーん。ならいいけどさぁ」
答えを出す、というのは厳密には間違っている。私がしないといけないのは、きっと答え合わせの方だ。
「あ、電車来ましたね」
「これで尾途ともお別れだねぇ」
「そうですね。……また二人で来ましょうね」
「あはぁ。それじゃ、答えとやらが出たら教えてねぇ」
「……了解です」
やれやれ。折角今年の夏休みは宿題が無いのに、個人的な宿題が出てしまった。提出期限は不明だけど。
停車した電車のドアが開く。先輩に先に乗ってもらい、その後ろに続く。
ドアが閉まる前に、駅の方を振り向いてみた。この光景と、この3泊4日の思い出を、私は一生忘れないだろう。
さらば尾途。




