勇者、温泉に入る
「ふぅ……」
じんわりと全身に心地の良い温もりを伝えて来る湯に身体を沈め、その気持ち良さから声が漏れる。
視線を頭上へと向けると、そこには満天の星空が広がり、優しく彼女を見守っている。
お風呂に入るのは、久しぶりだ。実家にいた時は全く機会が無かったし、教会にいた時に時折入れさせてもらうこともあったが、しかしこんな贅沢に湯を張ってはいなかった。その時と比べても、この風呂は非常に気持ちが良い。
――そう、ネルは今、何故か温泉に浸かっていた。
恥ずかしいことにあまりに驚き過ぎて腰を抜かしてしまったので、あの魔王に肩を借りて立たせてもらった後、「もうお前、どうせだからウチ泊まってけ。時間も遅いし」とお節介を焼かれ、あれよあれよという内に、何故か城の裏手に立っていた旅館のようなところまで連れて来られてしまい、そして気付いた時には勇者は温泉に浸かっていた。
「……ヘンな人」
出会った魔王は、予め聞いていた存在とはかけ離れていた。
聞いていたその存在像は、それこそおとぎ話に出て来る悪い魔王のような男で、たくさんの人達がその男の手によって犠牲になったと聞いていたのに、実際に会ってみたら、普通の、近所に住んでいるちょっと年上のおにーさんぐらいにしか感じなかったのだ。
相手が魔王だとわかって、思わず武器を構えてしまった時も、本人からは全く敵意を感じられず、そして索敵スキルすらも反応を示さなかった。
つまり魔王は、ネルに対して本当に敵愾心を抱いていなかったのだ。
――自分で考えて、自分で動くんだな。
魔王の言ったその言葉は、ガツンと脳味噌を直接殴られたかのように、ネルの中に残っている。
彼女は今まで、良い子であるようにと生きて来た。相当な苦労を掛けている母親の手を煩わせないようにと従順で素直に、何でも言うことを聞くようにして生きて来た。
勇者として見出されてからも、一日も早く一人前の勇者になるために教会の騎士達の言葉や、神父様、そして魔術師のおじいちゃんの教えをよく聞いて、その通りにと過ごして来た。
――そんな生活を続けて来たからだろう、いつしかネルは、人の言うことを聞いてから動くのが当たり前になっていた。
魔王の言葉で、自分は何も考えていない操り人形のようだと、彼女はようやく気付いたのだ。
彼女の知る勇者とは、そんな存在ではない。
誰に言われずとも自分で動き、そして知られぬ間に悪を裁く存在だ。
「……何が悪かったんだろうなぁ」
湯船にボーっと揺られながらそう呟くと、その時突然、ガラリと風呂場の扉が開く。
「ッ――」
思わず訓練の時の動きで、瞬時に湯船から身体を起こし、身構えてしまったネルだったが、しかし入って来たのが幼い少女だということに気付き、すぐに肩の力を抜く。
「あれ?……あっ、おにいちゃんにいじめられて泣いてたおねえちゃんだ!」
「その評価は心に来るものがあるからやめてくれるかな!?というか、見られてたの!?」
見ず知らずの幼女にそう言われ、思わず全力でツッコんでから、ネルはコホンと咳払いして彼女に問い掛ける。
「……あー、え、ええっと、君は?」
「イルーナ!おねえちゃんは?」
「僕はネルだよ。よろしくね」
「うん!よろしく!」
金髪で、人形のように愛らしい容姿の彼女は、そのまま洗面台の前に座ると、いそいそと身体を洗い始めた。
ネルはその様子を見て、本当に危険は無さそうだと判断し、もう一度深々と湯船に入り直す。
「君は……おにいちゃんって言っていたけど、あのおにーさん――魔王の妹さんなの?」
「ううん、違うよ。でも、おにいちゃんはイルーナのおにいちゃんなの」
――あぁ、なるほど。呼称としての「おにいちゃん」なのか。
そう納得してから彼女は、ずっと疑問に思っていたことを、彼女へと問い掛ける。
「ええっと……その……君のお兄ちゃんは、どんな人なの?」
すると幼女は、途端ににへっと頬を綻ばせ、とても嬉しそうな表情で語り始めた。
「あのねあのね!おにいちゃんはとってもかっこいい人なの!!イルーナのことを助けてくれたり、いっつも一緒に遊んでくれたり。それでいて、ちょっとおバカなことをする時もあって、でもそれがむしろかわいくていいの!!」
「お、おう」
予想以上に熱の篭った回答が返って来て、若干引き気味に相槌を返すネル。
幼女をこれだけ懐かせるとか、彼はいったい何をしたのだろうか。
……もしかして魔王は、時々いると聞く小さい子好きなのかな?
「……その、魔王にヘンなこと、されたりしてない?」
「ヘンなこと?おにいちゃんは、割といつもヘンな人だよ?時々、急に大声で叫び出して、お部屋から走って出て行ったりとか」
「あ、そ、そうなんだ。いつもヘンなんだ」
――全然わからないぞ、あの魔王の人物像が。
ネルの中で、魔王という存在ががらがらと音を立てて崩れ始めていた。
* * *
「――で、お主、どういう訳なんじゃ?」
「いえ、別に他意はなくてですね、もうこちらと敵対するつもりも無さそうだったし、外も暗いので、ここは部屋だけはムダに有り余っている訳だから泊まって行けばいいんじゃないかと思っただけなんですよ。そ、それに、人間達の事情も聞いてみたいなと、そう考えた次第でありまして」
「ほう、そうやって事情を付けて、また女を連れ込んだ訳じゃな?確かにお主を彼奴のところに行くよう嗾けたのは儂らじゃったが、しかしここに連れ込めとまでは言ってなかったはずじゃぞ?それに、儂の知らない内に、レイスの娘っ子どもも増えておったようじゃし?」
「あ、アイツらは別に、俺がそう指定して呼び出した訳じゃないからな!?」
――お風呂場から出ると、大きな広間のようなところで、ネルより少し年下ぐらいの綺麗な銀髪をした少女に、魔王が正座させられていた。
「……え、ええっと、あのー……お、お風呂、いただきました」
「む……?あぁ、泣き虫勇者か」
「その評価はもう確定なのかな!?」
再び見ず知らずの少女にそう言われ、声を荒げる勇者。
ちなみにさっきまで一緒だった金髪の女の子は、風呂を出た時に現れた、女中の恰好の羊角の魔族らしい女性に「あら、面倒を見ていただいていたようですねー、ありがとうございますー」と連れられ、ウトウトしながら「ばいばい」と手を振り去って行った。
現れたその魔族の女性の後ろで「ヤ、ヤバイっすよレイラ!は、早くこっちに来た方がいいっす!」と獣人らしい別の女中さんがいたが、彼女はいったい何をしていたのだろうか。
「あ、ほ、ほら、レフィ、客も来たしな。お、おもてなししないと」
「戯け。そんなものはレイラにでも任せておけ。お主は儂と、長い夜を過ごしてもらおうか」
……最初に会った時は、まだミステリアスな雰囲気のあった魔王が、自分より小さい女の子に説教されている様子を見て。
何が真実で、何が虚偽か。本当に、わかったもんじゃないなと、ネルは思った。




