第一七話 マーレとポプレ -That is the Question-
遡ること数分。
両太郎たちを見送ったフェアマーレは、手にしたばかりのエレメンタルボンドを胸の高さで水平に構え、対峙するシスター・ポプレの瞳をジッと覗いていた。
ポプレはそんなマーレの視線に対し、粘着感のある――それでいてどこか上の空な笑みを返すだけ。
互いの距離は十メートルばかり。
双方の持つ水の力を持ってすれば、至近距離と表現しても大袈裟ではない間合いだ。
だがマーレは、その距離を広げようとも、逆に狭めようともしない。
ポプレもまた、ニヤニヤ笑い続けるだけで、動く様子がない。
睨み合いと呼ぶにはあまりに弛緩した時間が過ぎていく。
マーレは水の力の源を「包容」と表現した。
あらゆるものを柔軟に受け容れ、包み込むこと――それは即ち、究極の受け身とも言える。
そして、その受け身の在り方は、単に水のエレメントの力の在り方だというだけではない。マーレ自身の戦闘スタイルの根幹でもあった。
マーレ――水樹渚は、小さな頃から他者の機微を読むことが得意だった。
生まれ持った才能、あるいは政治家一家という環境下で培われたものだろうか。
相手の口調、語調、呼吸のリズム、表情、容姿――あらゆるものを手がかりにして思考を読み、どうすれば自分の言葉を聞いてもらえるか、受け入れてもらえるか、戦法を組み立てていく。能動的受動とも言うべき洞察と対処。それが渚の《能力》だ。
その能力は、幼馴染の家で戯れに学んだ武術でも大いに活用できた。
まずは相手の狙いを察知して動きを読み切る。それによって機先を制し、主導権を握る。
師事した幼馴染の父親は、渚にそれを《後の先》と呼ぶのだと教えてくれた。
フェアリズムとして目覚めて戦いに身を投じ、そして水の力の源が《包容》なのだと知った時、マーレは改めてその受け身の極致――《後の先》が自らの戦いのスタイルなのだと得心した。
そのマーレが、いまこうして睨み合いを続けている理由はたった一つ。
ポプレの思惑が読めないことだ。
今までの戦いでポプレが見せた、おぞましいまでの敵意、そして害意が感じられない。
それが、マーレに攻撃を躊躇させているのだった。
マーレの後の先のスタイルにとって、戦意を感じさせない相手というのは天敵といってもいい。
それを見透かして意図的にポプレが戦意を隠しているのならば、厄介この上ない。
だが、恐らくそれは杞憂に過ぎない。
かつて一度心の中を覗かれたことがあるとはいえ、ポプレがそこまでマーレの心理を読み切っているはずがない。
マーレはそう確信してもいた。
これ以上無駄に時間を費やすわけにもいかない。
今は己の確信に殉じるべき時だ。
マーレはそう決意し、ふうっと息を吐き出した。
「――シスター・ポプレ、あなたは最初から戦う気が無い。そうですね?」
探るような目でマーレが問う。
ポプレは目を細め、愉悦の笑みにより一層の喜色を浮かべた。
「あらぁ、今頃気づいたのねぇ?」
「何が狙いですか――と尋ねたところで、素直に答えるはずもありませんね」
マーレはエレメンタルボンドを握る手に力を込め、身構えた。
ポプレが答えようが答えまいが、そして答えがたとえどんな内容だったとしても関係ない。ここでポプレを倒す。それがマーレの決意だ。
だがポプレは、そんなマーレの闘志を受け流すかのように笑う。
「気に入らないだけよ……あたしを道具のように利用しようとする、キャンサーもイルネス様も――ダイアもね」
ポプレは表情こそ笑っていた。だが「気に入らない」という言葉を口にした瞬間、僅かな声色の変化があったことを、マーレは聞き逃さなかった。
同時にマーレは、両太郎から聞いていたポプレの過去を思い出していた。
実母と継父に利用され、裏切られ続けていたこと。そして、それがオリガという名の少女をシスター・ポプレへと変貌させたのだということを。
敵であるポプレの発言を真に受けるのは危険だ――そんな警戒心を抱かなかったと言えば嘘になる。
だがポプレの言っていることは事実だと、マーレは直感的に悟っていた。
「つまり、あなたは最初から両太郎さんたちを外に向かわせるつもりだったんですね。梶さんや佐倉さんの幻像を見せたのも、両太郎さんに危機感を与えるため……?」
「流石は優等生の渚ちゃんねぇ、ご明察よぉ」
「他のシスターが来ていることや、螢さん――シスター・ダイアがフアンダーにされてしまったことをわざわざ教えてくれたのも、それに対処させるため――というわけですか」
「そこまでわかったなら、あなたもさっさと花澤両太郎たちを追いかけるといいわぁ」
まるで戦う気がない。
そう言わんばかりにポプレはひらひらと手を振る。
その態度に、マーレは目を細める。
「ポプレ、あなたはどうするつもりなのですか? あなたも私たちと一緒に――」
「それはお断りよ」
マーレの言葉を遮って、早口気味にポプレが答えた。
同時に、浮かべた笑顔に凄みのようなものが加わる。
「あたしは別に組織を離れる気も、あなたたちの味方になる気も無い。単に今回の作戦が気に入らないから、メチャクチャにしてやりたいの。そのためにあなたたちを利用させてもらうだけ――お望みなら今ここであなたと戦っても構わないわ」
特徴的な甘ったるい喋り方が首を引っ込め、唸るような低い声でポプレが言う。
その言葉の端々に込められた感情に、マーレは内心で呆れていた。
戦うつもりで対峙した時は見せなかったくせに、協力を持ちかけようとした途端のこの敵意だ。
まるであべこべ。
他人の思惑に逆い、決して利用などされない――それがポプレの行動原理の芯にあることを、マーレは否応にも理解した。
さて、どうするか。
表情に出ないように努めながら、マーレは思案する。
マーレの側にだって、わざわざポプレの思惑に乗っかって利用されてやる理由は無いのだ。
ここでポプレを撃破し、五大の水のエレメントストーンを奪還することも一つの選択肢だ。
この精神の地平線が浄化され、そして自身がエレメンタルボンドを手にした今、それはマーレにとって決して分の悪い勝負ではない。
と、そこまで考えた時だった。
突然辺りが暗くなり、マーレは思わず空を見上げた。
浄化され、晴れ渡っていたはずの空には、いつの間にか暗雲が立ち込めていた。
そして足元は、いつの間にかギザギザとした葉を持つ草が一面を覆っている。
周囲は一瞬の間に荒野へと変貌していた。
これは――精神の地平線が再び汚染された?
いやそれとも、別のフアンダーの精神の地平線に切り替わった?
マーレは瞬時に状況を推察する。
正確な答えは知りようがない。
しかし答えなんて知らなくても、結論はわかってしまった。
「あははぁ、選択肢が狭まったわねぇ?」
マーレの胸中を見透かしたかのように、ポプレが笑う。――嗤う。
そう。答えは何であれ、この場が再び汚染された精神の地平線となった以上、ポプレの戦闘力は何倍にも増幅するはずだ。
戦って負けるつもりはない。
でも、相当な時間と体力の消耗を余儀なくされるのは間違いない。
アンやアセロス、そしてフアンダーと化してしまったというダイアとの戦い。
それらを前に、今ここで消耗することは愚策だ。
ポプレとの戦いが避けられるというのなら、避けるべきなのは間違いない。
「――わかりました」
マーレは溜め息混じりに答える。
同時にエレメンタルボンドが形を失い、元の指輪へ戻って左薬指に装着された。
「再びあなたに利用されるのは私にとっても癪ですが、ここは戦いを避けるほうが得策のようです」
その言葉に、ポプレはにぃっと満悦の笑みをこぼした。
思惑通りに事が進むと確信したのだろう。
その笑みを、
「――ただし」
凛としたマーレの声が遮る。
ポプレは怪訝そうに眉を顰めた。
「あなたの持っている絶望のエンブリオを、こちらに渡していただきます。あなたがそれを使って人を苦しめるのを、見過ごすわけにはいきませんから」
本当はもう一つ、たとえ間接的とはいえ、シスター・ダイアに絶望のエンブリオを使わせたくないという理由もある。だが、マーレは敢えてそれを口にしなかった。
「……断る、と言ったらどうするのかしらぁ?」
「その時は、やはりここで何としてもあなたを倒します」
気負いの無い冷静な声ではっきりと言い放ったマーレに、ポプレは睨みつけるような視線を返した。
一秒、二秒、三秒……緊迫した沈黙が場を支配していく。
その沈黙の中、先に根負けしたのはポプレだった。
「まったく、相変わらず利用しにくい子ねぇ……」
忌々しそうに言いながらも、ポプレは口許に笑みを浮かべている。
「別にいいわぁ。ダイアに言われるままこれを使うのも、気に入らないものねぇ」
強がりなのか本音なのか定かではない言葉と共に、ポプレは二つの絶望のエンブリオを下手で放り投げる。
マーレがそれをキャッチしたのを見届けるや、ポプレは別れの言葉も無くフッと姿を消した。
そのポプレの消えた中空を、マーレはしばらく無言で見つめていた。
精神の地平線から自在に脱出できるシスターならば、絶望のエンブリオを持ったまま撤退することだって容易かったはずだ。
それならば、果たしてなぜポプレは取引に応じたのだろうか。
何か企みがあるのか、それともポプレもまた変わりつつあるのか――。
答えが出ない思案を抱えながら、マーレは精神の地平線の出口へと走り始めた。




