第一四話 空と風と 4 -Brave New World 4-
「へ、へぇ……。まあ、狙う的が大きくなって助かるね……!」
見上げるほどの巨大なフアンダーへと変貌したキャンサーに、チェーロは戸惑いながらも素早く先制攻撃を放った。こういう判断の速さと思い切りの良さはチェーロの武器だ。
ボンドを振るった軌跡から無数の風の短剣が生まれ、キャンサーの上半身目掛けて飛んで行く。チェーロの戦いの起点――ボクシングで言えばジャブに相当するであろう、得意のエリアルダガーだ。
だが残念ながら、その攻撃がキャンサーを捉えることはなかった。
キャンサーがその異様に長い腕を無造作に振るっただけで、風の短剣は全て弾き返され、乾いた音を立てて粉々に消し飛んでしまった。
不安定に波打つ肉体は、そのおぼつかない印象とは裏腹に、シスターのローブをも凌ぐ頑強さを誇っているようだ。
かつてここまでのパワーを誇るフアンダーとは戦ったことがない。物や動物から生まれた通常のフアンダー、絶望のエンブリオによって生み出された人型フアンダー――今のキャンサーが放つ威圧感は、その両方を遥かに上回っている。
気がつけば周囲の様相も一変していた。
双面フアンダーが浄化されたことで一度は晴れ渡ったはずの空を、いつの間にか不吉な暗雲が覆っている。
「うう……あぁ……」
フィオーレの腕の中で、抱き抱えられた女性が――声でようやく女性だと判別できたのだが――苦しげに呻いた。眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべている。
「――まずいな、精神の地平線を通じてキャンサーの影響を受けてるのか?」
「……っ! フィオーレ・ブルーミングクレイドルっ!」
フィオーレが慌てて叫ぶと、左薬指の五行の木のエレメントストーンがぱあっと桃色の光を放つ。輝きはゆらゆらと揺れながら、幾層にも重なった花弁を思わせる形状の膜へと変化していく。出来上がったのはフィオーレを中心に広がった、大輪の薔薇を象った防壁だ。フィオーレと腕の中の女性、そして隣に立つ俺を覆っている。
防壁はゆっくり回転しながら揺り籠のように花弁を揺らす。その度に柔らかく優しい芳香が鼻腔をくすぐり、戦いの最中だというのに心が安らぐような感覚すら覚える。
女性の眉間からも険しさが消え、フィオーレはふぅっと安堵の息を漏らした。
「これでひとまずは大丈夫。でも……」
そう言ってフィオーレは、心配そうな表情で頭上を見上げた。分厚い黒雲に覆われた空からは、時折真っ黒い重油のような雨がぽつりぽつりと降ってくる。
この精神の地平線は女性の心そのものだ。荒天の原因がキャンサーの変貌なのだとしたら、そのキャンサーを何とかしなくては、根本的な解決には至らない。
フィオーレの言葉に、ステラとルーチェは顔を見合わせて頷く。
「……フィオーレ、その人をお願い」
「チェーロ、あたしたちも戦うよ!」
二人は大きく跳躍し、チェーロの両脇に着地する。三人でキャンサーと対峙する形だ。
キャンサーはジロリと三人を睨み回すと、
「グオォォォォォッ!」
空気をつんざき、大地を揺らす咆哮を轟かせた。
咆哮と同時に、黒く波打つ肉体の胸元辺りにパウダーブルーの光が灯る。
もしや――そう思った次の瞬間には、ステラとルーチェのコスチュームが霧散した。
「……五大の空の、エレメントストーン……!」
「ちょっと、そんな格好でも使えるなんて反則だってば!」
ステラとルーチェ――いや、私服に戻ってしまった麻美と光は血相を変えた。
その隙をキャンサーは見逃さない。びゅおっと突風のように大気を唸らせ、二人に巨大な黒腕が迫る。
「二人とも下がって! チェーロ・エリアルシールドっ!」
すかさずチェーロが二人の前に薄緑の風の盾を紡ぎ出す。キャンサーの拳がエリアルシールドを打ち付けると、ビシィッと甲高い音を立てて風の膜は砕け散ってしまった。
「……助かった」
「ごめん、ありがとうチェーロ!」
そう言いながら俺たちの方へ退いてくる麻美と光は、悔しさに顔を歪めている。
二人ともすぐに再び変身したが、今度は俺の近くを離れようとはしなかった。
キャンサーがあの絶望の巨人に似た姿でも五大の空のエレメントストーンを操れるとなると、対抗できるのはチェーロだけだ。
「キャンサー、きみはエレメントストーンは人間のものじゃないって言ったね。でも、そんな風に誰かを傷つけるために使うものでもないはずだよ」
「………………」
チェーロの言葉に、キャンサーは黙する。
戸惑ったように首を振り、それから――
「……我は老帝エイジング。あらゆる老いを司り、遠ざける者なり」
チェーロを睨むように見下ろし、くぐもったしわがれ声で呟いた。
まるで自分に言い聞かせようとするかのように。
その言葉は、変貌の直後に放ったものと一字一句変わらない。
老帝エイジング。キャンサーは確かにそう名乗った。
老帝エイジングとは精霊界フェアリエンの三諸侯の一人で、メトシェラの親――父親か母親かは知らないが――だったはずだ。
そして、フェアリエンの一部の人間たちが反乱を起こした時、最初に襲撃を受けた三諸侯でもある。
それらの事実は、今目の前で繰り広げられている光景の――そしてシスター・キャンサーという存在の根源に関わっている。そんな予感が込み上げてくる。
パックが言っていた「三諸侯は代々名前を継いできた」という言葉。それを俺は単に世襲で家督を継ぐという意味程度に受け止めていた。
だが、恐らくそうではなかったのだ。
先代の身に何かが起きた時――ひょっとしたら命を落とした時、その使命と役割は強制的に次代へと受け渡されるのではないだろうか。
そう考えれば全ての辻褄が合う。
あのフェアリエンの争いが始まった日、刹那は命を賭して螢を救い、その刹那をメトシェラもまた命を賭して救った。
にも関わらず、刹那とメトシェラの融合体はどうして螢を置いて姿を消したのか。
そして次に螢の前に現れた時、シスター・キャンサーへと化していたのは何故なのか。
それはきっと先代の身に何かが起こり、メトシェラが次の老帝エイジングになってしまったからなのだ。
そして、そのことが彼女を、こんな強大なフアンダーへと化してしまうほどに絶望させてしまったに違いない。
「――メトシェラ! お前はメトシェラなんだな!」
大声で叫ぶ。するとキャンサーは扇風機みたいにゆっくりとぎこちなく首を回し、俺を遥か頭上から睨み下ろしてきた。俺の声に困惑しているのは明らかだ。
かつて刹那と融合する直前、メトシェラは勝ち気な瞳で叫んだ。
『私はセツナに生きていて欲しい』
あの時のメトシェラの目に迷いは無かった。それが何よりも強い、心からの願いなのだと、俺にも伝わってきた。
だからこそ、その言葉こそがその後に起こった――そしてたった今目の前で起きている、この悲劇の答えなのだ。
「老帝エイジングを継いだ時、一つに融合していたはずの刹那とメトシェラの精神が再び分離した。そして恐らく刹那の精神は意識の底に追いやられ、エイジングとしての宿命を負ったメトシェラの意識だけが残った。それがメトシェラを絶望へ――シスター・キャンサーへと変貌させたんだ。――そうなんだろう、メトシェラ!」
「……………………否、我は老帝エイジング。あらゆる老いを司り、遠ざける者なり……我は老帝エイジング……我は老帝エイジング……」
まるで自分に言い聞かせるように、キャンサーはくぐもった声で壊れたレコーダーのように繰り返す。
口調こそ今までのキャンサーそのものだが、そこには俺たちを散々苦しめた冷徹さは欠片も感じられない。
まるで、駄々をこねる子供のようにも見えた。
シスター・ダイアが『黒沢螢』を否定するように、シスター・ポプレが『オリガ・ダヴィデューク』を否定するように、シスター・キャンサーもまた絶望の底で、かつての自分自身を否定しようとしている。
そして三人とも、他者への愛が絶望を招いてしまったという点が共通している。
愛ゆえに深い絶望に囚われ、自己否定に走ってしまった者の末路――それがシスターなのだとしたら、それはあまりに悲しい存在だ。
「目を覚ませ、メトシェラ!」
「否、我は老帝エイジングなり……老帝エイジングなり!」
キャンサーは俺の言葉に明確な不快感を示し、半ば唸るように叫んで、その異様に長い腕を振りかぶった。
拳が向けられた先は俺だ。
まずい。
俺の隣――フィオーレの腕の中には、双面フアンダーだった女性がいる。
俺が攻撃されるだけならまだしも、彼女を巻き込んでしまうわけにはいかない。
――と、そう思った矢先。
スカイグリーンに輝く風がつむじを巻いて、さながらコークスクリュー・ブローのようにキャンサーの頬を打ち付けた。
「忘れてもらっちゃ困るよ。キミの相手はぼくだ、シスター・キャンサー!」
攻撃を放ったのは言うまでもなくチェーロだ。
チェーロはキャンサーを挟んで俺たちと対角線上に立ち、その腕に風を纏わせて次弾の照準を定めている。
「グオオォォォッ!」
チェーロの狙い通り、キャンサーは怒気を撒き散らしながらチェーロの方に向き直った。
本来の冷静なキャンサーのままならば、そのまま俺たちを攻撃していたかもしれない。チェーロの援護と、そしてキャンサー自身の自我喪失に救われた形だ。
だがこうなると、俺も黙って戦いを見守るしかない。
今のままではキャンサー――メトシェラに俺の言葉は届きそうにないし、下手に動いてチェーロの足を引っ張るわけにもいかない。
「……まったく、巨大化が奥の手なんて特撮じゃないんだから。こっちは巨大ロボなんて持ってないのに……さ!」
軽口を叩きながら、チェーロが大きく跳躍した。キャンサーの顔の真ん前まで達したと思いきや、即座に宙を蹴って方向転換。風の足場を自在に生み出し、次々に角度を変えながらダンスを踊るようにキャンサーの周囲を跳び回る。
跳躍の度に風の力の反作用でチェーロの勢いは加速していく。十回……二十回……。三十を数える頃には、もはや目で追うことすらできない速度へと達し、チェーロ自身が一陣の風へと化した。
「行くよっ……天空剣キュリオシティ、破邪崩滅斬!」
ドップラー効果を伴って、チェーロの叫び声が轟く。
右腕に纏っていた風の渦がボンドに吸い込まれ、刀身を一層輝かせる。
袈裟斬りに一筋、そして返す刀で二筋――閃く。
ボンドの軌跡が十文字の薄緑の帯となって、キャンサーの巨大な胴体に吸い込まれる。
チェーロの斬撃が、完全に決まった。
――が。
「……我は老帝エイジング。あらゆる老いを司り、遠ざける者なり」
もう何度目かわからない名乗りとともに、キャンサーは無造作に腕を振り下ろす。
チェーロの攻撃など、蚊が刺したほどのダメージすら無い。まるでそう言わんばかりに。
その大雑把な一撃は、しかし的確にチェーロに襲いかかった。
ごすっ! と鈍い音が轟く。
次の瞬間、目にも止まらない速度で飛び回っていたはずのチェーロの体は、呆気無く地面に叩きつけられていた。
「うわぁっ!」
巻き起こる土煙。
チェーロの悲鳴。
その悲鳴を遮って、更に轟音。
轟音。
轟音。
土煙に遮られてよく見えない。しかし繰り返される鈍い音が、チェーロの身に何が起きているのかを無遠慮に突き付けてくる。
恐らくチェーロに立ち上がる暇すら与えず、キャンサーの両腕が無造作に、無慈悲に、幾度も幾度も振り下ろされる。
その乱雑な連撃は徐々に地を穿ち、クレーターじみた窪みを地面に刻む。
その度に大地が揺れ、精神の地平線全体が軋み、そしてフィオーレの腕の中で女性が苦しげな吐息を漏らす。
拳を振り下ろすという点では双面フアンダーの攻撃と何ら変わりない。しかし伝わってくる衝撃は比べ物にならない。いくらフェアリズムの強靭な肉体をもってしても、これだけの攻撃で受けるダメージは計り知れない。
「――チェーロっ!」
駆け出しそうになる衝動を必死に抑え、名前を呼ぶ。
俺だけじゃない。フィオーレもルーチェもステラも、険しい顔で同時に叫んでいた。
五大の空のエレメントストーンの力を破れるのがチェーロだけである以上、他の誰もこの戦いには手を出せない。下手に動けばチェーロの足を引っ張ってしまうだけだ。
――なんて、頭では理解できても、気持ちが納得できるはずもない。
フィオーレやルーチェはもちろん、いつも無表情なステラすらも、悔しさに唇を噛み締め、険しい顔でキャンサーを睨んでいる。
いや、チェーロ――優と幼い頃からの親友である麻美だからこそ、この場の誰よりも強い歯痒さを感じているのかもしれない。
ずん、ずんと鈍い音が轟く度、ほんの少し遅れて足元がビリビリ震える。
もうやめてくれ! ……そう叫んでしまいたくなるほどに、キャンサーの攻撃は止めどなく繰り返される。
けれど、それでも俺は目を逸らさない。
逸らすわけにはいかない。
『リョウくんが信頼してくれるなら――ぼくは無敵さ』
チェーロはそう言ったから。
だから、決して目を逸らすわけにはいかないんだ。
そんな俺の心情を知ってか知らずか、キャンサーが一際大きく左腕を振り上げた。
不規則だった体表の脈動が、指向性を持ち、規則性を持ち、まるで全身全霊の力を左拳に注ぎ込もうとしているように見える。
これまでの攻撃がほんの戯れだったと言わんばかりの、最大級の一撃が今にも放たれようとしていた。
「――チェーロ、負けるな! お前ならできる……メトシェラを救ってやってくれ!」
腹の底から声を振り絞って叫ぶ。
自分がどれだけ残酷な言葉を発しているかは、よくわかっている。
頑張っている人間にもっと頑張れと言い放つこと。苦しんでいる人間にもっと苦しめと言うこと。それは時に、どんな暴力よりも人を傷つける。
双面フアンダーが言ったように、『信頼』は時に都合よく相手を束縛するための口実へと変わる。
身勝手な理想を押し付け、相手を苦しめる――そんな一方的な行為を美化することすらあるだろう。
でも、俺たちとチェーロの間にある信頼は、そうじゃない。
この信頼こそがフェアチェーロの癒やしの力。不安も絶望も吹き飛ばす自由の風なのだから。
俺はそれを、目を逸らさずに見届けなきゃいけない。
「立ち上がれ、チェーロおおおぉぉッ!」
もう一度、ありったけの力を込めて叫ぶ。
まるでそれを合図にしたかのように、キャンサーが腕を振り下ろす。
漆黒のオーラを纏い、キャンサー自身の絶望のすべてを注ぎ込んだかのような拳。
俺たちの信頼を断ち切り、希望を絶望に塗り替え、全てを無に帰すような一撃。
その一撃が、大地に触れる。
巻き起こるであろう余波に備え、俺は体を強張らせた。
ルーチェとステラが俺を庇うように飛び出す。
フィオーレも薔薇の揺り籠に一層の力を込めた。
――が。
余波は発生しなかった。
いや、決してゼロではない。ズンッという鈍い衝撃が足元を伝った。
だがそれは、キャンサーが一撃に込めたであろう力に対して、あまりに小さなものだったのだ。
巻き上がった土埃の中に、シルエットが浮かぶ。
片膝を地面について、それでも両手を突き上げてキャンサーの拳を必死に受け止める、チェーロの姿が。
「――チェーロ!」
またフィオーレたちと声が重なった。けれど今度は悲痛な叫びじゃない。
俺たちの安堵と希望が入り混じった叫びに応えるように、チェーロはキャンサーの拳をぐっと押し返しながら立ち上がった。
全身あちこちに擦り傷や打撲痕がある。頑強なフェアリズムのコスチュームすら、あちこち破れている。
相当なダメージを負っていることは明白だ。
だがそれでも、チェーロは真っ直ぐ顔を上げ、自らを遥かに上回るキャンサーの巨体を見据えた。
「グゥッ……!?」
キャンサーの声、そして表情は再び動揺を孕む。
まるでそうとは知らずに焼けた鉄板に触れてしまった時のように、キャンサーは慌てて拳を引っ込めた。
一方そんなキャンサーの様子をジッと見上げるチェーロの瞳は、あれだけの打撃を受けてなお輝きを失っていない。
「……キャンサー、きみの奥の手には、正直驚いた。このままじゃきっと、ぼくはきみに勝てない」
静かに、それでいて力強く、チェーロが口を開く。
呼吸は荒い。
発した言葉は敗北宣言に等しい。
――けれどその声色には、諦めも恐れも後悔も、これっぽっちだって感じられない。
「でも、声が――『大丈夫、お前は負けない』って、声が聞こえた。リョウくんの声、ステラの声、フィオーレの声、ルーチェの声。そしてもう一つ――。ぼくを信じてくれる声、きみを救えと呼びかける声がもう一つ聞こえたんだ!」
チェーロは右手を突き上げ、ビシっとキャンサーの胸元を指差した。
そこにあるのは、クレヨンの落書きみたいに不安定に波打つ体に穿たれた、ほんの小さな窪み。
俺、フィオーレ、ステラ、ルーチェは思わず顔を見合わせた。
だって、その窪みにあるものは、これまで散々俺たちを苦しめてきた存在なのだから。
そしてついさっきもステラとルーチェの変身を一瞬で解除してしまった、恐るべき力の源なのだから。
「さあ、五大の空のエレメントストーン、ぼくに力を貸して!」
「――!! グ……アァ……!」
チェーロの叫び声に呼応し、キャンサーの胸の窪みが強烈なパウダーブルーの閃光を放った。
その閃光に身を焼かれるかのようにキャンサーが悶える。
まるでこぼれ落ちる何かを懸命にすくい取ろうとするように、胸元を歪な掌で覆うキャンサー。だがその指の隙間から、閃光は絶え間なく流出していく。
そして放たれた閃光は幾筋もの光の帯となってチェーロに降り注ぎ、その身体を包んでいった。
「さあ……ここからが第二幕だ! フェアリズム・セカンドアクト!」
呆気にとられている俺たちの視線の先で、パウダーブルーの光を纏ったチェーロが叫んだ。
光の中でチェーロのコスチュームは形を変えていく。
白にスカイグリーンの風の意匠が施されたトップスは、肩から胸にかけてパウダーブルーのショールが覆う。
エメラルドグリーンのフレアスカートはチュチュのように広がり、その内側からバサッと前開きのフープスカートが広がる。
さらにアームカバーにも、ブーツにも、髪飾りにも元のスカイグリーン地に淡い青のアクセントが加わった。
その変化が、単純にきらびやかになっただけじゃないことは俺にもわかった。五大の風を象徴するスカイグリーンと、五大の空のパウダーブルー。この姿は二つの力の調和を表しているのだ。
「――虚空を翔ける科戸の風、ストーミーフェアチェーロ!」
風の戦士フェアチェーロ――いや空と風の戦士ストーミーフェアチェーロが名乗りを上げる。
チェーロはきっと負けない。そう思ってはいたものの、二つのエレメントストーンの力を合わせて二段変身するなんて、流石に予想外だった。
華やかさを増したコスチュームには、さっきまでのダメージなんて跡形も無い。
「チェーロ、凄い……」
呆然と――けれど嬉しそうに、フィオーレが呟く。
俺を庇うように立っているルーチェとステラの表情は見えないけれど、きっと同じ顔をしていることだろう。
「――多分この力は長持ちしないから、一気に決めさせてもらうよ!」
チェーロはそう言って大きく飛び上がり、キャンサーの巨体をも見下ろす高さで静止した。
一方のキャンサーは胸元を抑え、未だ悶えている。
「五大の風のエレメントストーン、そして五大の空のエレメントストーン、ぼくに力を貸して!」
チェーロの澄んだ声が響き渡る。戦いの真っ最中だというのに、その声色には一欠片の敵意すらも感じられない。ただ高らかに、ただ明るく、ただ伸びやかに、その声は一陣の風のように吹き抜けた。
それに呼応し、キャンサーの足元からスカイグリーンとパウダーブルーの二つの光が螺旋を描くように立ち昇る。
二色の光は重なり合い、幾何学的な模様を描きながらキャンサーの周囲をドーム状に覆っていく。あっという間に直径十メートルはくだらない美しい半球が出来上がった。
「――いくよ! ストーミー・アイテールアドベント!」
指揮棒で拍子を刻むみたいに、チェーロは腕を左右に振り、上にかざし――そしてまっすぐ振り下ろした。
次の瞬間、空を覆っていた分厚い黒雲に巨大な穴がぽっかりと開く。その穴を起点に、円が広がるように全ての雲が消し飛ぶ。
あっという間に晴れ渡った空の、その遥か上空から、スカイグリーンの刀身とパウダーブルーの柄を持つ、途方も無く大きな光の剣が猛烈な勢いでキャンサーに向かって落下していく。
鋭利な切っ先が幾何学模様のドームに触れた。
ドン、と弾けるような音を立てて爆発が巻き起こる。巨大な剣はその爆風すらも貫いて、地面に突き刺さった。
剣は二色のまばゆい閃光を放ち、その自ら放った光の中で形を失っていく。
「クロージング!」
もう一度チェーロの高らかな叫び。
視界の全てが光に包まれ、ホワイトアウトする。
そして間髪入れず、一際大きな爆風が吹き抜けていった。
その清涼な風は、疾さと力強さを備えながらも優しく、あまりの心地よさに思わず忘我の境地に達する。
ハッと我に返った時には、既に決着はついていた。光の剣は跡形もなく消え、地面には元の姿に戻ったキャンサーが倒れている。
「……ねえ、リョウくん。ぼくはみんなの――リョウくんの期待に応えられたかな?」
ゆっくりと地上に降りながらチェーロが尋ねてきた。
その妙に力無い口調に違和感を憶えつつも、
「――ああ、もちろんだ! 期待以上だったぞ」
思ったことを素直に答える。
するとチェーロはにぃっと顔をほころばせ、嬉しそうに笑った。
そして、
「よかった。それじゃ悪いけど、あとはよろしく……ね……」
着地と同時に、まるで糸の切れた人形みたいに力なく倒れる。
その身を覆っていたコスチュームも光の粒となって蒸発するように消え、元の優の姿に戻ってしまった。
「チェーロ――優!」
俺は思わず駆け出していた。
いや、俺だけじゃない。ルーチェもステラも、そしてフィオーレも元双面フアンダーの女性を抱えたまま、力尽きた仲間の元へと駆ける。
「……大丈夫、眠ってるだけ、みたい」
青ざめた顔で優を抱き起こしたステラは、そう言ってほうっと息を吐きだした。
「二つのエレメントストーンの力を同時に使って、消耗したみたいね」
「無事で良かった……」
ステラの様子に、ルーチェとフィオーレも安堵の息を漏らす。
苦しい戦いを切り抜けることができた――そんな弛緩した空気が俺たちの間に広がっていく。
だが、その空気は長続きしなかった。
「――そうだ、五大の空のエレメントストーンはどうなったんだ?」
ふと気が付き、何気なくキャンサーが倒れている辺りを振り向く。
だが、そこにキャンサーの姿は無い。
「……え?」
俺たちの声は三度重なった。
心臓を直に掴まれるような悪寒を感じながら、慌てて周囲を見渡す。
キャンサーの姿はすぐに見つかった。
俺たちから二、三十メートルは離れた位置。シスターの象徴である黒のローブを失い、純白の長いビスチェとズロースというあられもない姿を晒しながら、それでもキャンサーは立ち上がり、俺たちの方を睨んでいた。
そしてその胸元には、逆十字に貫かれた五大の空のエレメントストーンが健在だった。
「キャンサー! あいつ、まだ立ち上がって――!?」
チェーロとステラが慌てて身構える。
フィオーレも抱きかかえた女性を庇うように、二人の背に隠れた。
俺も意識の戻らない優を背負ってそれに続く。
再び戦いの緊迫感が周囲を覆っていく。
「……よもや老帝エイジングの力まで破られるとは驚いた。だが空の力に対抗できるフェアチェーロは力を使い果たしたようだな」
肩で息をしながらも、キャンサーはしわがれ声で冷静に言った。
もしかしたら完全に浄化されて元のメトシェラに戻ったんじゃないか――そんな俺の淡い期待はあっさりと砕かれてしまった。
「汝らをダイアと戦わせるわけにはいかぬ。ここで死んでもらおう――!」
キャンサーの身体が再び殺気を漲らせていく。
恐らくキャンサーに残された力もさほど多くはない。――が、今のキャンサーは命を投げ打ってでも戦いを止めることはないのだろう。かつて刹那が、メトシェラがそうしたのと同じように。
「何故だ、一体ダイアに――螢に何があった!」
「……ここで死ぬ汝らが知る必要はない。ストーミー・ダークガスト!」
キャンサーが突き出した左手を、暗黒の渦が覆っていく。
「やめろ、その手を下げろ、メトシェラ!」
「……否、我はシスター・キャンサー。障皇軍の一員にして大司祭イルネス様の忠実な下僕」
「違うだろ! そのシンドロームとかいうのもイルネスって奴も知らないが、今のお前はそうじゃないだろ!」
俺の言葉に、キャンサーは眉を顰めた。
そうだ。《組織》のためにヴィジュニャーナ――俺を殺さず連れ帰るなんて、きっと今のキャンサーはこれっぽっちも考えていない。
螢の身に何かが起きていて、キャンサーはそれをどうにかするために己の全てを投げ打とうとしている。そのためには《組織》の命にさえも背く。そんな覚悟が伝わってくる。
「目を覚ませ、メトシェラ!」
「……否、我は……我は……ぐぅっ!?」
困惑しながらも攻撃を放とうとしたキャンサーが、不意にカッと目を見開いた。
その胸の中心から鮮血がほとばしり、氷でできた鋭利な刃物の先端が覗いている。
先日の海での合宿の時に見た光景と、あまりに似通ったその状況から、一体何が起きたのか――何者がこの場に現れたのか、俺は瞬時に理解していた。
「……なんだ、と…………!」
左手に集まっていた力が霧散し、キャンサーは膝から崩折れる。
その背中を乱暴に蹴り飛ばして、たった今キャンサーを背後から刺したであろう凶刃の主が姿を現す。
「あはははぁ……やぁっとこの間のお礼ができたわねぇ、キャンサー?」
そこには嗜虐的な光を瞳に宿し、口角を釣り上げて妖艶な笑みを浮かべた黒衣の女――シスター・ポプレが立っていた。




