第一〇話 深淵の中へ -Sys-Ter CANCER-
フィオーレと共にグラウンドに駆けつけた時には、既に戦いは始まっていた。
グラウンドには轟々と燃え盛る炎で巨大な円が描かれ、周囲から隔てられた戦場が作られていた。野球部の生徒たちを逃がすため、ルーチェが機転を利かせたのだろう。
しかし当の野球部の生徒たちはグラウンドの隅に集まって、不安そうに戦いの様子を伺っている。
くそ、さっさと逃げろよバカ!
……と言いたいところだが、大切なグラウンドで起きた異常事態を放って逃げられない気持ちも理解できてしまう。
生徒たちの視線の先――炎の円の中には、五つの影があった。
こちらに背を向けている二つはルーチェとステラだ。
その二人のフェアリズムと格闘戦を繰り広げているのは予想通り狛犬のフアンダー。その後ろで戦いを静観するキャンサーの姿もある。
そして、加えてもう一人――真っ黒な古代西洋風の貫頭衣を纏った何者かが、狛犬フアンダーと連携しながらルーチェたちと戦っていた。
黒尽くめの服装のせいで遠くから見た時はシスターがもう一人いるのかと思ったが、近づくに連れてそのチュニックの男の――いや男と言っていいのかもわからない――異様な風体に気付かされた。
手足は普通の人間と同じ一対ずつ。だがその頭部は正面に本来あるべき顔が無く、かわりに左向きに男の顔、右向きに女の顔――つまり二つの顔がついていた。その二つの顔でルーチェとステラの動きを的確に見切り、両手に持った曲刀で鋭い斬撃を繰り出している。
恐らくは絶望のエンブリオによって生み出された人型フアンダーだ。
以前の戦いでシスター・ポプレが「絶望のエンブリオで生まれるフアンダーの姿や強さは元の人間の不安によって変わる」と言っていた。
この双面の鬼神のような姿もまた、元になった彼、あるいは彼女の心の不安を具現化したものなのだろう。
「たあッ!」
ルーチェが炎を纏った手刀を放つ。双面フアンダーはそれを一方の曲刀の腹で受け止め、すかさずもう一方を振り下ろした。
だが反撃を受けるところまでがルーチェの狙いだったらしい。あらかじめ予想してたと言わんばかり、ルーチェは大きく身を捻って斬撃を躱す。
その空振りで生まれた隙を、ステラは見逃さなかった。バリバリと炸裂音を伴う電撃に包まれた拳が双面フアンダーの脇腹に突き刺さる。以前ポプレとの戦いでも見せた、ルーチェとステラの得意パターンの連携だ。
「ぐっ……!」
双面フアンダーは整った二つの顔を苦痛に歪めて、しかし倒れることなくその一撃を受けきった。
『効かない……僕にそんなものは効かない! 大人しくエレメントストーンをよこせッ!』
「…………っ!」
双面フアンダーはノイズエフェクトをかけたような奇妙な声で吠えるように叫び、曲刀をめちゃくちゃに振り回した。ステラは慌てて飛び退いたが、完全には避けきることはできなかった。右腕と左肩を斬撃が掠め、ステラの鮮血が宙を舞う。
スズメバチフアンダーの攻撃すらも通さなかったフェアリズムの肉体が、掠り傷とはいえあっさり傷つけられてしまったのは驚くべきことだった。
双面フアンダーはどうやら、攻撃力も防御力もこれまでのフアンダーと比べ物にならないほど高いらしい。
それにまともに言葉を発した点も、ただのフアンダーとは次元が違うことを示している。
元になった人物は相当強い不安に苛まされていたのだろう。ポプレの言葉を借りるなら、上等なフアンダーというやつだ。
「お兄ちゃん!」
「わかってる、お前は援護だ! 野球部の奴らは俺が説得して避難させる!」
俺とフィオーレは視線を戦場に向けたまま頷きあった。
ただでさえ厄介なキャンサーに加え、狛犬フアンダーと双面フアンダー。この戦力が相手となると、俺たち遊撃チームもルーチェたちに合流するのが正解だ。
それに、これまでの戦いで何度も奇襲を仕掛けてきたキャンサーが、今日は正面切って戦おうとしているのも気になる。いつもの調子ならフアンダーに時間稼ぎをさせてる間にエレメントストーンを持ち去ったりしそうなものだが。
ひょっとするとエレメントストーンは、このグラウンドのどこかにあるのかもしれない。
「五行の木のエレメントストーン、わたしに力を貸して! フィオーレ・ヒーリングブルーム!」
フィオーレが回復技・ヒーリングブルームを放った。傷ついたルーチェとステラの頭上へ二筋の桃色の光が走り、淡い光のシャワーとなって降り注ぐ。
「フィオーレ!」
「二人ともお待たせ!」
傷の癒えた二人の元へフィオーレが駆けていく。双面フアンダーはそれを見とめ不敵に笑う。
『たとえ何人来ようと僕の相手じゃない。さあ、エレメントストーンをよこせ……!』
しかし猛る双面フアンダーとは裏腹に、その主であるキャンサーはジッと何かを思案しているようだった。
「待て。直ちに精神の地平線を展開せよ」
『そんな、キャンサー様は僕の力を疑っているんですか!』
「否。我思う。汝の力をより発揮するためこそ、精神の地平線で戦うべきと」
『……わかりました』
双面フアンダーは二つの顔を悔しそうに歪めた。それはシスターに絶対の忠誠を誓うフアンダーとしては、異例と言ってもいい態度だ。決してキャンサーに逆らおうとしているわけではないものの、そこには自尊心や承認欲求といった、自我に紐付いた感情が見え隠れする。
強力なフアンダーであればあるほど、単なるシスターの傀儡ではなく、自我や感情を持った存在になるのかもしれない。かつて渚がフアンダーにされてしまった時もそうだったように。
それは双面フアンダーを強力な敵たらしめる要素であると同時に、付け入る隙にもできるかもしれない。
『うおおぉぉぉぉっ!』
双面フアンダーがノイズがかった声で絶叫する。
同時にその肉体の中心から、黒い靄でできた渦のようなものが湧き上がった。
それは猛烈な勢いで広がり、キャンサーと狛犬フアンダー、そしてフィオーレ・ルーチェ・ステラの三人をあっという間に飲み込んでしまう。
次の瞬間には漆黒の靄は消え失せ、ルーチェが張っていた炎の円もすうっと空気に融けるように消えた。
かわりに双面フアンダーのいた辺りの中空に、どす黒い亀裂のようなものが残されている。ギリギリ人が一人通れるくらいのその亀裂は、どくんどくんとまるで脈打つように収縮を繰り返している。
恐らくこれが精神の地平線の入り口だろう。
かつてポプレは「精神の地平線なら本気が出せる」と言っていた。絶望に染まったフアンダーの精神の地平線は、シスターにとって力を増幅する特別な空間なのかもしれない。
これまで五大の空のエレメントストーンによって絶大な強さを誇ってきたキャンサーだが、唯一見えていた弱点はスタミナだ。シスターにはエレメントストーンの力を連続して使える限界がある。
もし精神の地平線の中ではその限界が緩和されるとしたら、キャンサーはこれまで以上に手強い相手になっているはずだ。
俺は精神の地平線の入り口をもう一度凝視した。
フィオーレたちにはまだ、五大の空の力がどういうものなのかを伝えていない。今すぐにでも俺も後を追い、三人にアドバイスをしたい。
だがそれよりも先に、俺にはやらなければならないことがある。フィオーレたちもきっとそれを望んでいる。
――っていうか、それを果たさずに追いかけたら、多分俺が叱られるよな。
「おい、あんたたち!」
俺はグラウンドの隅で様子を伺っている野球部員たちに向かって叫んだ。
すると集団の中から一人、見知った顔が前に出てきた。
「……花澤、今のは一体……?」
恐る恐る近づいてくるのは俺のクラスメイト、ひとつ前の席の福山だ。そういえば福山、野球部だったっけな。
「福山、色々気になるとは思うが、今はすぐに部活を中断して帰宅してくれないか。他の部員にもそう促して欲しい。……まだ戦いは終わっちゃいないんだ」
「花澤、お前……何か知ってるのか?」
手の届く距離まで寄ってきた福山の手には、金属バットが握られていた。無理も無いことだが、相当警戒させてしまっているのだろうか。
事情を知らない野球部員たちからしてみれば、《組織》もフェアリズムも同じで、突然現れた得体の知れない存在でしかないもんな。それどころか下手をすると、俺もフアンダーの仲間だと思われているのかもしれない。
だが、次にその口から発せられた言葉は、俺の予想とは真逆だった。
「あの怪物はどこに消えたんだ? オレたちを助けてくれたあの子たちはどうなったんだ……?」
福山の表情にぐっと力がこもる。手にしたバットの標的はどうやら俺ではなかったらしい。
金属バットでフアンダーを倒せるわけもないのだが、それでもフェアリズムの味方をしようと思ってくれたことが俺には嬉しかった。
「……戦っているよ、あの中で。だから俺も行かなきゃ」
俺が精神の地平線を指差すと、福山は困惑したようにその空間の裂け目を一瞥する。
それから福山は「だったらオレも」と金属バットを握る手に力を込めた。
気持ちはありがたい。しかし福山が駆けつけたところで残念ながら戦力の足しにはならないだろう。何よりそれ以前に、シスター・アセロスが言っていた言葉が正しければ、普通の人間には精神の地平線に入ることはできないのだ。
「心配するな。俺とあの子たちはフアンダー――あの怪物と何度も戦ってきた。それに申し訳ないが、はっきり言ってお前が行ってもあの子たちの足を引っ張りかねない」
「でも……」
「福山!」
つい声を荒げてしまった。
「……頼む。今はお前たちが無事にこの場を離れてくれることが、一番あの子たちの助けになるんだ」
福山はまだ納得がいかない顔をしていたが、それでも俺の言葉に頷いてくれた。
「わかった。野球部の連中はオレが責任持って帰らせる」
「ああ、そうしてくれると助かる」
「……花澤も気をつけろよ。それと、これ持ってけ」
そう言って福山が突き出してきたのは、今まで彼が握りしめていた金属バットだった。
「役に立たないかもしれないけど、お守り代わりだ」
「ああ……ありがとう」
球児がバットを武器として薦めるのはどうなのかと思うが、お守り代わりだというのなら仕方ない。ありがたく受け取る。
今まで福山とはほとんど口を利いたことが無かったけど、なんだ、いいヤツじゃないか。
まあ会話がなかったのは福山のせいじゃなく、俺が周囲に壁を作ってたからなんだけど。
これからは福山とももうちょっとちゃんと話をしてみるかな。
あと、口止めもしなきゃいけないよな。流石にこれだけの騒ぎを無かったことにはできないだろうからなあ。……学食で一食奢るくらいで勘弁してもらえるかな?
なんて呑気なことを考えながら、精神の地平線の入り口へと向かう。
もしも俺たちが《組織》に敗れてしまったら、今思い描いたような穏やかな日常は取り戻せない。
それどころか福山も佐倉さんも、梶も――みんなを絶望に晒してしまうかもしれない。
いや、そんなことは絶対にありえない。
たとえキャンサーが相手だろうと、フェアリズムのみんなは必ず勝利してくれる。
俺もそのために、少しでも自分にできることをやるだけだ。
そんな決意を胸に、俺は空間の亀裂に勢い良く飛び込んだ。




