第二話 風に抱かれて -Dialogue du vent et de la mer-
「それじゃあリョウくん、じっとしててね」
耳元でくすぐるような声で囁かれた。
「ぼくに身体を預けてくれればいいから」
そう言って笑ったのは、俺こと花澤両太郎にとって年下の友人である生天目優。――いや、彼女の今の名は運命の戦士フェアリズムの一人、フェアチェーロだ。
チェーロはお姫様抱っこの要領で俺を抱き上げ、まだ薄っすら微笑を湛えた口ですうすうと呼吸を整えている。体重を預けた両腕は少し熱を帯びながら、柔らかに俺を受け止めてくれていた。
普段は美少年と見紛うほど中性的な雰囲気を漂わせている優だけれど、こうしてチェーロに変身している時は大きく印象が変わる。風に揺れるアシンメトリーに束ねられた長い髪も、華やかで可愛らしいエメラルドグリーンのバトルコスチュームも、彼女の印象を流麗なる女戦士へと変化させていた。
風――そう、ここは屋内であるにもかかわらず、チェーロの周囲には穏やかな風が吹いている。風の戦士であるチェーロは、常にその身に風を纏っているのだ。
その風はチェーロの意志によって自在に姿を変える。時には優しく撫でるような微風に、また時にはあらゆるものを薙ぎ払う暴風に、そして絶望を吹き払う清めの突風に――。
「……ん? ぼくの顔に何かついてる?」
ふと気がつけば、キョトンとしたチェーロと目が合った。どうやら俺はいつの間にかチェーロの顔をジッと見つめてしまっていたらしい。
長い睫毛に縁取られたエメラルドの瞳、艶やかな薄い唇、少し紅潮した頬――改めてそれらをはっきり視認したことで、心臓がとくとくと脈打つペースを早める。
「いや――悪い、なんでもない」
俺は慌てて視線を逸らした。これ以上変に意識してしまうと色々と差支えが出る。心を鎮めなければならない。なにしろ今、俺とチェーロはピッタリと身体を密着させているのだから。
「ふうん、ならいいけど」
そう言ったチェーロはまだ少し釈然としない様子だったが、深く追求はしてこなかった。そうやって割り切りがサッパリしているのがチェーロの良いところだ。
「でも両太郎さん、本当に大丈夫ですか?」
チェーロに代わって傍らから俺に問いかけてきたのは、マリンブルーのバトルコスチュームに身を包んだ水の戦士・フェアマーレだ。漣を思わせる緩やかなウェーブを描いた髪、理性と知性を湛えるアクアマリンの瞳。美しくも頼もしいフェアリズムの参謀役だ。
「私の力で体育館が傷まないようにカバーしますが、両太郎さんの方は……」
マーレは心配そうに言葉を濁す。これからやろうとしている無茶を思えば、彼女の反応は仕方ないことだ。
ここは俺たちが通う朝陽学園からほど近い、三駄ヶ谷にある公営の体育館。今日はここを午後から借り切って、フェアリズムの能力について実験やトレーニングをしているのだった。
バスケットコートが二面だけのさほど大きくない施設だが、俺たちの目的にはちょうどいい。というよりそういう条件の場所を探したら、たまたま学校の近くに見つかったというのが正解だったりする。
いま俺たちが取り組もうとしているのは、屋内での戦闘訓練だ。これまでフェアリズムが《組織》と戦ったのは幸いにも屋外が中心で、おまけに人気もほとんど無い状態ばかりだった。おかげでフェアリズムの超人的な能力を振るう際も、建物や周囲の一般人への被害をあまり気にせずに済んだ。
しかし今後もその状態が続くとは限らない。
もし屋内で――それも人で溢れかえった学校や駅の中で戦闘になってしまったら、今までと同じように戦うことは難しい。
七月末の海合宿ではフィジカルを中心に鍛えたが、八月に入ってからの俺たちはそれぞれの能力をより深く理解することや、屋内での戦いを想定したトレーニングに腐心していた。
今日のテーマは、屋内での高速移動だ。
もし一般市民がいる中で《組織》との戦いが始まってしまった場合、市民のケアを第一に考えなければならない。アタッカー向けのフェアルーチェやフェアステラが敵を食い止めている隙に、残りの面々がなるべく迅速に市民の安全確保や避難を遂行する必要がある。
そのため、チェーロには俺を抱えた状態で体育館の中を飛び回ってもらおうというわけだ。
マーレの言葉の通り、体育館の壁や天井には一面に薄い氷の膜が張っている。見た目は薄い氷だが、その強度は防弾ガラスの比ではない。マーレ自身のトレーニングと、チェーロが力加減を誤って体育館を損傷させてしまわないための保険も兼ね、防護壁を作ってもらったというわけだ。
マーレの力で支えられている氷壁は真夏の気温の中でも溶けることが無く、体育館全体をひんやりと快適な温度にしてくれている。思わぬところでありがたい副次効果があったものだ。
ともあれ建物の方はこれで安心。問題はチェーロに抱えられた俺の方だ。
俺自身はごく普通の生身の肉体。猛スピードで移動するチェーロがうっかりその辺の壁に俺をぶつけてしまえば、交通事故と同じかそれ以上のダメージを受けてもおかしくない。あるいは空気抵抗をもろに受けて呼吸もままならず窒息――なんて可能性もある。
いわば時速数百キロで移動する車の窓から身を乗り出すような行為なのだ。見ている側としては心配も当然だ。
だが、当の俺はそれほど心配していなかった。
「平気だろ、いざって時にはフィオーレの治癒能力もあるし」
そう答え、マーレの隣に立つフェアフィオーレに視線を移す。ピンクのバトルコスチュームを纏ったフィオーレは、やや強張った面持ちで頷く。俺の生命に関わるかもしれない重大な役割を任され、緊張しているのだろう。
「――大丈夫だ、心配は要らないよ。力の繊細なコントロールじゃあチェーロの右に出る者はいない。何も危なくないさ」
フィオーレの緊張を少しでも和らげようと、そう投げかけた。
だが、フィオーレは困ったような表情でマーレと顔を見合わせる。
「ふふ。リョウくんが信頼してくれるなら、ぼくは無敵だよ」
チェーロも俺に続いた。だが、フィオーレとマーレの曇り顔は晴れない。
「ええ、私もチェーロの技量は心配していません。ですが、その……」
「ん? どうしたんだ、マーレもフィオーレも何か懸念があるなら言ってくれ」
「両太郎さんは……平気なのですか?」
「お兄ちゃん、絶叫マシン苦手だよね?」
「……え」
本気で心配そうな表情の二人の言葉に、俺も全身の血がサーッと引いていくのを感じる。
これからチェーロにやってもらうことは、単に地面を駆け回るだけじゃない。風の力を駆使して、壁走りや空中移動といったアクロバティックな動きもしてもらうことになっている。言われてみれば、それはコースの決まっていない人力ジェットコースターのようなものだ。
「先日遊園地にご一緒した時、だいぶ辛そうにされていましたが……」
「本当に大丈夫?」
代わる代わる不安を口にするマーレとフィオーレ。年下の女の子たちに情けないヤツだと思われているみたいで泣きたくなる。
そっと視線をチェーロに送ると、チェーロは困ったように苦笑いしていた。口にこそ出さないが、「もう、リョウくんは仕方ないなあ」なんて思われているに違いない。
いかん。このままじゃ完全にヘタレ扱いだ。
そもそもこのトレーニングは俺が言い出したというのに、俺が怖いからやっぱり無しなんて、今更言えるはずがない。
「……平気だ、問題ない。ただ、チェーロのことを信頼してる俺でも怖いなら、事情を知らない一般の人はきっともっと怖い思いをするはずだ。チェーロには難しい注文になってしまうが、その辺りのケアも織り込んだトレーニングだと思ってくれ」
精一杯真面目顔を作って言うと、マーレとフィオーレはようやく納得したらしく、心配そうな表情を和らげて頷いてくれた。咄嗟の思いつきだったが、我ながらそれらしいことを言ったものだ。
「ふふ、物は言いようだね」
チェーロは小さな声でそう呟いた。どうやらバレバレだったらしい。
それからチェーロはふんふんと頷きながら体育館一帯をぐるりと見回していく。きっと移動ルートを選定しているのだろう。
それがひとしきり済むと、
「それじゃあリョウくん、心の準備はOK? 怖かったらギュッと掴まってくれていいからね」
チェーロは悪戯っぽく笑った。
その笑顔に、ふと初めて会った日のことを思い出す。あの時もこうやってチェーロは俺を抱えて、図書館棟の屋上まで運んでくれたんだっけ。
あの時はまだチェーロのことをよく知らなかったけど、いまの俺達には一ヶ月以上ずっと苦楽を共にして積み重ねてきた信頼がある。そう、何も恐れる必要なんて無いじゃないか。
「大丈夫、上手くいくさ」
俺はチェーロの笑顔に、サムズアップで応えた。




