第一話 愛を歪に -Dizzy Diseases-
ふと自嘲をこぼしてしまった。
まだ昼間だというのに部屋の中は薄暗く、大窓から覗く空は黒雲が立ち込めている。
それがまるで、わたし自身の心を表しているかのように思えたからだ。
精霊界フェアリエンの守護者たる三諸侯の一人、障皇シックネス。その居城として知られたエイルメント城の謁見の間は、人間界から帰還したわたしたちを重苦しい静寂を持って迎えた。
その異名の通り黒曜石の敷き詰められた床。わたしとキャンサーの立てるカツンカツンという二つの足音が、どこかに飛んでいってしまいそうなわたしの意識を、辛うじてこの場に繋ぎ止めている。
一歩、また一歩進む度、広間の壁に並ぶ蝋燭の灯りがゆらゆらと揺れ、足元の無数の影が不安げに踊る。
足取りが重い。エレメントストーンの力を使い過ぎた疲労のせい。両手で抱えた荷物――イカレた同僚の身体の重さのせい。いいえ――それだけじゃないことなんて、自分でも分かっている。
『ほ……たる……ちゃん……?』
頭の中に、つい先程の光景が蘇る。
時間だけで言えばほんの数分前のことでしかないのに、取り返しがつかないほど遠い昔のことのようにも感じられる。
見開かれた目。わたしに向けられた、焦点の定まらない瞳。花澤桃――フェアフィオーレの、驚きと困惑に包まれた顔。
『なんで、まさか、どうして……?』
あの時、フィオーレの声は震えていた。
無理もない。桃はわたしを――いや『黒沢螢』を、友人と思ってくれていた。同時にこのシスター・ダイアに激しい怒りを持っていた。あの瞬間、桃の中でバラバラに共存していた二つの感情が一つに交わり、衝突を起こしたのだ。
その結果、果たして桃の気持ちがどう変化したのか。桃の中にあった『友達のわたし』は完全に消え去ったのか、それとも少しは残っているのか。
なんて、そんなことはもう気にしても仕方ない。
わたしはシスター・ダイア。世界に不安と絶望をもたらす《組織》の一員で、フェアリズムの敵。たとえ桃の気持ちがどうであれ、わたしと桃は敵同士。その宿命は覆ることなんて無いのだから。
謁見の間を抜けて暗い廊下を進むと、目の前には大きな鉄の扉が現れた。
生憎わたしはポプレを抱えて両手が塞がっている。だがそれでも、扉を開けるのにキャンサーの手を借りたくはなかった。
重い鉄の扉を足で押す。すると、薬草を煎じたような匂いが生暖かい空気に乗って薄っすら漂ってきた。扉の先は礼拝堂――司祭イルネス様の座所だ。
「おっ、帰ってきたなァ」
堂に足を踏み入れるなり、そんな言葉に出迎えられた。
もちろんそのハスキーがかった声の主はイルネス様ではない。堂の入り口のすぐ側に、背の高い女の姿があった。
ローブ越しでもはっきりわかる、鍛え抜かれた筋肉質の肉体。右目を隠す真っ赤なウルフカットの髪。左目に宿る爛々とした好戦的な光。シスター・アセロス。それがわたしの同僚の一人である彼女の名だ。
よく見れば、アセロスの隣には小柄な少女――シスター・アンの姿もあった。豊かな金髪に透明感のある碧眼と、五人のシスターの中で最も幼く可憐な容姿をしているが、彼女を見た目通りに扱う者などいない。時代がかった口調の通り、その正体は老婆なのだとでも言われた方がまだ納得がいくかもしれない。今もアンは得体の知れない薄ら笑いを浮かべ、わたしを値踏みするようにジッと見つめている。
「聞いたぜダイア、フェアリズムどものとこに潜入してたんだってなァ? まだるっこしいことしやがって――ん?」
アセロスはわたしが抱きかかえているポプレに目を留め、眉を顰めた。
「なんだなんだァ? ポプレのヤツ、またやられちまったのかよ。ったく情け無ェな」
「くく、王城を攻めあぐねて帰ってきたお主がそれを言うか」
「あァ? 元はといえばアン、手前ェだって王城攻めの担当だろうが」
「はて。オレ一人で充分だから帰れ、などと偉そうにのたまったのはどの口じゃったかのう?」
「……チッ。仕方ねえだろ、傷王インジュアリーの野郎ォがいるせいで、傷めつけてもすぐ復活しちまうんだよ」
「くくく、まあ力押し一辺倒の脳筋にとっては相性の悪い敵じゃろうな」
「そうなんだよ。ったく、腹立たしいぜ」
「……馬鹿にしたつもりなんじゃがの」
「ん? どこがだ?」
「わからぬなら良い……」
アセロスとアンは、わたしやポプレのことなど忘れたかのように、掛け合い漫才を始めてしまった。この二人はいつもこの調子だ。案外ウマが合っているのかもしれない。
そんな二人を尻目に、わたしは部屋の奥へと向かった。キャンサーも黙ったまま後ろをついて来る。
部屋の奥は周囲より床が高く、ステージ状になっている。正面の壁には、わたしの身長の二倍はゆうにあろうかという、巨大な白亜のレリーフが備え付けられている。レリーフは精霊界フェアリエンの創世神話をテーマとしており、二メートルほどの高さの位置から初代妖精女王の彫像が上半身を突き出している。礼拝堂全体を見下ろしている女王像は優しげな表情を浮かべているものの、どこかその瞳に憂いを湛えているようにも見えた。
レリーフの前には、食卓を模した大きな祭壇が置かれている。祭壇は木製だが、黒曜石でできた床や壁とよく似た深みのある黒色をしている。レリーフの白とは対照的だ。
この祭壇こそ、かつてこの城の主である障皇シックネス様が祈りを捧げていた場所に他ならない。だが今、この祭壇の奥に立つのは障皇シックネス様ではなかった。
大柄な身体に黒いローブをまとった、厳しい顔の禿頭の老人――大司祭イルネス様は、わたしの姿をみとめると軽く咳払いをして祭壇を指差した。
「戻ったかダイア、キャンサー。ポプレをここに……すぐ治療をしよう」
イルネス様は低くゆっくりとした声でわたしに命じた。
言われるがままにステージに上がり、祭壇の上にポプレを寝かせる。するとその拍子に、
「うっ、く……あぁ……」
ポプレは薄っすらと目を開き、苦しそうに呻いた。
「む……?」
イルネス様はポプレの様子に首を捻る。
「なるほど、負傷によって倒れたのではなかったか。これは時を歪める刃――フェアリエンの至宝の一つたるプランクの剣。キャンサー、お前の仕業か」
黙ったまま頷いたキャンサーを呆れたように一瞥して、イルネス様はまだ意識の定まらない様子のポプレの額に右手を翳す。
「起き上がれ」
重みのある声でイルネス様が命じる。するとポプレは全身をビクッと震わせ、はっきりと目を開いた。
「――フェアリズムはっ!?」
ポプレは上半身を起こし、鬼の形相で周囲を見渡す。それから、ここがエイルメントの礼拝堂であることに気づき、がっくりと項垂れた。
「……そう、戻ってきたのねぇ」
それは敗北を喫したことへの落胆であるようにも、あるいは生き長らえてしまったことへの苛立ちであるようにも見えた。
「ダイア、あなたがあたしを運んだのぉ?」
ポプレはいつもの甘ったるく間延びした口調に戻っている。だがその声色は少し上擦っていて、先ほどの戦いでの出来事をまだ引きずっているのは明白だ。
「単なる気まぐれよ。あるいは、ひょっとしたらあなたに同情してしまったのかもしれないわね。ポプレ――それともオリガだったかしら?」
「――――ッ!」
一度は落ち着きを取り戻したポプレの表情が、再び激情に染まる。
「殺されたくなければ二度とあたしをその名で呼ぶな」
ポプレは鋭い目に敵意を滾らせ、呻くように言った。
きっとこの憎悪を剥き出しにした姿こそがこの女の本当の顔だ。今までわたしに見せてきた厭らしい笑みも余裕ぶった声色も、その上辺に塗り固めた偽りの仮面に違いない。
そして、その仮面を容赦無く暴いたのはあの男――花澤両太郎だ。
両太郎のことを想うと、胸の奥がズキリと痛む。敵であるわたしを気にかける、お人好しで愚かな――そしてどこか懐かしい雰囲気を持つ男。わたしはきっと、死んだ兄さんを彼に重ねてしまっている。
でもわたしは、その両太郎とも戦わなければならない。
シスターたるわたしに与えられた使命は、フェアリズムを倒しエレメントストーンを奪うことに加えて、もう一つ――両太郎の身柄を確保することなのだ。
果たしてできるだろうか。いや、できたとして、今のわたしに勝てるだろうか?
わたしは陰陽の闇のエレメントストーンを手にし、一度はフェアリズムたちを圧倒できたはずだった。
それなのに今はどうしても、自分がフェアリズムや両太郎と戦って勝利している姿を思い浮かべられなくなってしまっている。
ポプレとの戦いで両太郎が見せた、全てを見通すヴィジュニャーナとやら。そして桃が――フェアフィオーレが見せたエレメンタルボンド。それらを見て、わたしは知らず知らず怖気づいてしまったのだろうか?
-†-
「……なるほど。フェアリズムの新たなる力か」
わたしとポプレ、そしてキャンサーの報告を受け、イルネス様は苛立ったように目を細めた。
「ヴィジュニャーナが能力の片鱗を見せたことは喜ばしいが、力を増したフェアリズムと連携を取られては厄介だな……」
そう言って、イルネス様はステージの下に並ぶわたしたちを順に一瞥する。
「新たな力に目覚めたのがフェアフィオーレだけとはいえ、放っておけば他の四人も後に続きかねん。そうなれば我らの目的達成は遠退く――」
「ふむ、ならばイルネス様。そうなる前に五人のシスター全員で彼奴らに総力戦を挑んではどうじゃ?」
そう言って楽しげに笑ったのはアンだった。イルネス様はその言葉を咀嚼するように、一際目を細める。
「――まあ、他に手はあるまいな。よかろう、アセロスとアンに命じていた王城攻略は後回しにする。まずはお前たち全員で邪魔なフェアリズムどもの掃討とエレメントストーンの奪取、そしてヴィジュニャーナの確保だ」
イルネス様の言葉に、わたしの隣でポプレがあからさまに眉を顰めた。
元々の分担ではわたしとポプレが人間界、アセロスとアンが精霊界フェアリエンの担当だ。それを解いて総力を人間界にぶつけるのは、わたしとポプレの力量不足と言われているに等しい。ポプレはそれが気に入らないのだろう。
だが表立って異を唱えようとしない時点で、ポプレ自身も既に認めているのかもしれない。フェアリズムたちは――特に両太郎がその側にいる時は――決して侮ってはならない強敵なのだと。
一方で、新たな命を受けたアセロスとアンの二人は愉悦の笑みをこぼす。
「へへ、面白くなってきやがったぜ。あの赤いヤツ――フェアチェーロにいつぞやのお礼をするチャンスだな」
「阿呆め、フェアチェーロは緑。赤いのはフェアルーチェじゃ」
「う、うるせェな! アンはいちいち細けェんだよ!」
「くく、まあわらわもフェアステラとはもう一度戦ってみたかった。ここはひとつ、各々でターゲットを一人選んではどうかの? もちろん任務が最優先じゃが、任務に支障が無い限りは各々が選んだターゲットとの戦いに優先権を持つ……どうじゃ?」
まるで遊び感覚でアンが言う。しかしイルネス様は僅かに顔をしかめただけで、咎めようとはしなかった。その流れにポプレもふぅっと諦めの息を零す。
「どうせ反対したところで、あんたたちは好き勝手するんでしょぉ? だったら乗ってあげるわぁ。あたしはもちろんアイツ、フェアフィ――」
「フェアフィオーレはわたしがやるわ」
わたしはポプレの言葉を遮って、強く宣言した。
正直アンの提案はどうでもよかった。が、この場においてその流れが支配的になるというならわたしも乗るしかない。フィオーレと――桃との戦いは、ポプレなんかに譲るわけにはいかない。
『大切な人たちを守って、大丈夫だよって笑いかけられる――その力が自分にあることが、とても幸せだと思った。他の誰でもない、わたし自身の手でわたしの大切な人たちを守りたい』
合宿の浴場で、桃はわたしにそう言った。
その言葉にきっと嘘はない。桃は戦うことを迷っていない。だからこそ先ほどのポプレとの戦いで、フィオーレは他の誰よりも先に新たな力を手にしたのだ。
ならば桃の友達でありフィオーレの敵であるわたしにできること――わたしがすべきことは、それを真正面から受け止めることだけだ。
わたしもフィオーレとの戦いだけは、わたし自身の手で決着を付けたい。そしてわたし自身の手でフィオーレを破り、わたしの戦いの意味を――絶望による救済を――桃や金元さんや、フェアリズムのみんなに伝えたい。
そんな気持ちを知ってか知らずか、ポプレは睨むようにわたしの目を見つめ、それから溜め息とともに言った。
「……まぁいいわぁ。それならあたしはフェアマーレとやらせてもらおうかしらぁ。あの子にも借りがあるのよねぇ」
その言葉は、わたしにとっては意外なものだった。
シスター・ポプレとは他者が嫌がることこそを好んで行い、殊更に憎悪を煽ろうとするイカレた女――わたしはそう思っていたし、実際にこれまでの彼女はその通りの言動をとってきた。今までのポプレであれば、この場面で大人しく引き下がるはずなんて無かった。
もしかするとフェアリズムたちとの戦いは、ポプレの中にも何かしらの変化を与えたのかもしれない。
「……ならば我はフェアチェーロを引き受けよう」
老婆のようなしわがれ声でキャンサーが応じた。これで五人のシスターそれぞれがターゲットを決めたことになる。
《五行の水のエレメントストーン》を持つポプレは《五大の水》を持つフェアマーレ。
《五大の空》を持つキャンサーは《五大の風》を持つフェアチェーロ。
《五大の火》を持つアセロスは《五行の火》を持つフェアルーチェ。
《五行の金》を持つアンは《五大の地》を持つフェアステラ。
そして《陰陽の闇》を持つわたしは、《五行の木》を持つフェアフィオーレ。
十二個のエレメントストーンのうち、《五行の土》と《陰陽の光》を除いた十個までが、敵味方五個ずつに別れて衝突する総力戦。それが今、始まろうとしていた。
「決行は十日後だ」イルネス様が言った。「それまで一旦解散としよう。各々、人間界に赴いて手駒となるフアンダーを調達しておくがいい。――それからダイアよ」
「はっ」
「お前はこの場に残れ」
イルネス様はポプレに起き上がるよう命じたのと同じように、有無を言わさぬ低い声でわたしに命じた。
「……と、おっしゃいますと?」
「恐らくお前はフェアフィオーレのみならず、ヴィジュニャーナをも相手にすることになろう。新たな力を手にしたフィオーレに加えてヴィジュニャーナ――今のお前に勝てるかどうかは、お前自身がよく分かっておるな?」
イルネス様はまるでわたしの心中を読み取ったかのように、淡々と言った。わたしには黙って頷くことしかできない。
「だが、策はある」
「策……とは?」
「我が秘術で、お前の胸に埋め込まれた《死に至る病》に陰陽の闇のエレメントストーンを融合させる。それによってお前は、これまで以上にエレメントストーンを自在に従えることが可能となろう」
「そのようなことが……」
そんなことができるなら、わたしだけではなくシスター全員にその秘術を施せば良いのではないか。
そう喉元まで出かかったところで、
「残念ながらこの秘術はお前にしか使えぬ。どういうわけか他の者のエレメントストーンと比べ、陰陽の闇のエレメントストーンはお前に従わされることへの抵抗が薄い。それゆえの例外なのだ……」
イルネス様はそう説明しながら、表情に僅かな含みを持たせた。まるで何かを疑うように、ジッとわたしの目を凝視してくる。だが一体それが何を意味しているか、わたしには読み取れない。
でも今はそんなことはどうだっていい。わたしにとって重要なのは、もっと強くなれるということ――フィオーレの敵に相応しい力を得られるということ。それだけだ。
「わかりました、イルネス様。どうかよろしくお願いします」
わたしがそう答えると、イルネス様は厳しい顔を皺だらけにして、ニィっと不気味に微笑んだのだった。
仕事に追われ、久々の更新になってしまいました。
予告していた書き溜めは結局できていません……。
Element3は以前と同じ、1~2週に一度くらいで更新していこうと思います。
ゆっくりペースですが、お付き合いいただけると嬉しいです。
カレンダー間違えてたのでイルネスのセリフを修正しました(15/05/09)
決行は明日⇒決行は十日後




