第二話 Let Me Talk
金元家に到着した俺と優は、以前お世話になったことのある家政婦の寿さんに出迎えられた。
手土産に持参した『闇の供物』こと真っ黒いチーズケーキの箱を手渡すと、寿さんはそのおどろおどろしいパッケージに一瞬眉を顰めたものの、すぐににこやかな笑顔に戻って「お気遣いありがとうございます、食後にでもお出ししますね」と言ってくれた。流石は名家に務める家政婦である。
それから俺達は食堂と応接間を兼ねたような広い部屋に通された。
単に面積が広いというだけではなく、天井も高くて落ち着いた雰囲気がある。その天井からは二つの大きなシャンデリアが室内を見下ろしていて、それを受け止める床には中東風の厚手の絨毯。上から下まで華美さと気品に溢れた佇まいだ。
部屋の中央には八人掛けの楕円のテーブル。一般家庭のテーブルと比べればゆったりした寸法ではあるものの、部屋の大きさに対して見ると少しちんまりとした印象を受ける。シャンデリアや絨毯の位置からしても、本来この部屋にはその倍は座れるような大きなテーブルが置かれていてもおかしくない。もしかすると俺達の来訪に合わせ、わざわざ小さめのテーブルをセッティングしてくれたのだろうか。
テーブルの片側――俺たちから向かって奥側には、上座から順に比呂志さん、面識のない綺麗な女性、そして麻美が座っていた。位置関係からして女性は麻美の母親だろうか。ともすれば派手な印象を受けかねない黒いレースフリルの付いたドレスを上品に着こなし、柔和な微笑をこちらに投げかけている。映画女優だと言われても納得してしまいそうな美人だ。
ゆったりとウェーブのかかった金髪に、どこかエキゾチックな面立ちは、一目見て白人系の血が混じっていることが伝わってくる。もしこの人がハーフだとするなら、麻美はクォーターということになる。
「いらっしゃい、両太郎くん、優ちゃん。両太郎くんは初対面だと思うが、こちらが私の妻――麻美の母親の菜穂子だ」
「初めまして、両太郎くん。麻美がいつもお世話になっています」
麻美のお母さん――菜穂子さんは、そう言ってはにかむように笑った。その笑顔は、麻美がごく稀に見せてくれるものとよく似ている。
「お招きありがとうございます。家族のご団欒に突然お邪魔してしまって……」
「いいのよ、どうせ比呂くんが強引に呼んだんでしょう? 比呂くんったら、麻美に近づく男の子はすぐこうやって威嚇するのよ。優も付き合わせちゃってごめんなさいね。さ、座って座って」
菜穂子さんがそう言うと、寿さんがスッと俺達の前に出て手前側の椅子を二脚引いてくれた。俺も優も言われるがままに着席する。俺は菜穂子さんの向かい、優は麻美の向かいだ。
「コホン、お客さんの前で比呂くんはやめてくれないか……。それに私は別に、威嚇なんて……」
「あら、だったら両太郎くんに失礼のないようにいい子にしていられますね、比呂くん?」
顔を顰めて抗議する比呂志さんに、菜穂子さんは柔和な笑顔でピシャリと返す。比呂志さんは苦虫を噛み潰した顔で黙ってしまった。一瞬のやりとりで、なんとなくこの家族の力関係が見えた気がする。
「ふふ、比呂志おじさんも菜穂子おばさんも相変わらずだね」
優が楽しそうに笑う。ということは、この二人はいつもこんな調子なのか。
それにしても、菜穂子「おばさん」というのはなんだか失礼じゃないかと思えて、無性にハラハラしてしまう。菜穂子さんは二十代と言われれば疑いもなく信じてしまうほど若々しい。とても中学二年生の娘がいるようには見えなかった。
まあ菜穂子さんも優のことを呼び捨てにしてるし、お互いそんなのが無礼にならないくらい長く深い付き合いなのだろう。
「優も相変わらず元気そうね。でも、あら――なんだかずいぶん女の子らしくなったわね」
「え、そ……そうかな? ぼく、今日はこんなカッコだけど」
菜穂子さんの言葉に、優は照れながらも半信半疑だ。確かにいつにも増して男っぽい服装をしてるもんな。
「服じゃなくて雰囲気よ、雰囲気。もしかして優、恋人でもできた?」
「んなっ? ま、まさかぜんぜん!」
優は顔を真っ赤にしてブンブンと首を左右に振った。いつも飄々としてる優がこんな風に照れてる姿はなんだか新鮮だ。
「あら、違ったのね。それじゃあ――」
菜穂子さんはジッと俺の方を見つめてきた。
その表情はやっぱり麻美とよく似ている。いや、逆に麻美が菜穂子さんに似てるんだろうけど。物言いたげにこっちを見てる時の麻美の顔にそっくりだ。今は人形みたいに可愛らしい麻美も、大人になったら菜穂子さんみたいな上品な美人になるのだろうか。
なんて考えていたら、その上品な美人はニィッと悪戯っぽく笑った。
「なるほどなるほど。優、そういうことね?」
「な、何が?」
「ふふふふ、それじゃあ麻美も頑張らなきゃねぇ?」
「……かーさま、何のこと」
菜穂子さんのニヤけ混じりの問いかけに、優と麻美は二人とも妙に慌てる。
俺にはさっぱり意味がわからなかったけど、一体何なんだ。
「そ、そういえば今日は守はいないの?」
優がまだ少したじろぎ顔で言った。白々しい話題転換なのは見え見えだが、突っ込まないでおこう。そもそも何の話をしてるのかわからなかったし。
まあ、優がいま口にした守とやらのことも知らないんだけどな。いないの、という言いぶりからして人名だろうか。
「うーん、守ったら朝から姿が見えないのよね。最近すっかりヤンチャになっちゃって、夏休みが始まってから毎日朝から晩まで外で遊び回ってるのよ。ま、お腹が減ったらきっと帰ってくるわ」
「そっかぁ。でも外で遊ぶなんて、守もずいぶん元気になったね」
「ええ。本人もきっと、元気に遊べるのが楽しくて仕方ないんでしょうから。ちゃんと薬を飲む言いつけさえ守ってくれれば、少しは大目に見るつもり」
菜穂子さんは嬉しそうに笑う。守が一体誰なのかはわからないが、いま聞いた情報から推察すると夏休み中の学生で、以前は元気に外で遊ぶことができなかったけれど、現在は違う。そして薬をしっかり飲み続ける生活をしてる――ってところか。それって、ひょっとして……。
「……守は、小四の弟。……一昨年、心臓の移植手術をしたの」
俺が首を傾げているのを見かねたのか、麻美が説明してくれた。それは大体俺の推察を裏付けていた。
心臓が弱く外で遊ぶのも難しかった守少年は、移植によって健康な心臓を獲得。一日中遊び回れるほど元気になったが、その代わりに薬――恐らく免疫抑制剤だろう――を飲み続けなければならなくなったということだ。
現在小学四年ということは移植当時は小学二年生だ。そんな小さな子供が心臓病で思うように遊べなかったり、大手術を受けるというのは大変な話だ。今は元気になったというのが本当に救いだ。
「そっか。麻美、弟がいたんだな」
「……うん」
「守、小さいころはいつも麻美の後ろにくっついてたよね。ぼくも渚も弟がいないから、守を自分の弟みたいに可愛がってたんだけど。やっぱり守にとっては麻美が一番みたいで」
守少年のことを語る優は、口調だけとってみれば不満げなのに、その表情はいつになく優しく穏やかな笑みを浮かべている。きっと優にとっても、守は大切な存在なのだろう。
「でも、そっか。麻美が色々気配りできて面倒見がいいのって、弟の存在もあったんだな」
「……に、にーさま。……いきなり何……」
思った通りに褒めただけだったのだが、麻美は妙に照れてしまった。事実なんだから、別に照れること無いのにな。
すると、思わぬところから物言いが入った。
「にーさま、だと……?」
わなわなと震えた低い声で言ったのは比呂志さんだ。
「にーさま、麻美はきみのことをにーさまと呼んでいるのか!」
比呂志さんは物凄い剣幕で叫ぶ。上品な紳士といった雰囲気は跡形も無い。顔を真赤にし、こめかみには血管が浮き出ている。
「わ、わたしはきみのお父さんになった覚えはないぞ!」
呆気にとられている俺に向かって、比呂志さんは意味のわからないことを怒鳴ってきた。
いや、それってちょっと言うシチュエーションが違うんじゃないですか。そう言い返したいところだったが、あまりの剣幕に声が出てこない。
――が、そのかわり。
「比呂くん? 両太郎くんに失礼の無いようにって言いましたよね?」
俺にかわって比呂志さんを諌めてくれたのは菜穂子さんだった。
「ハッ――い、いやこれは」
「可愛い娘に親しい男の子ができて取り乱しているのはわかりますが、あんまり煩いと私も怒っちゃいますよ?」
「ひっ……! い、いや大丈夫。すまなかったな両太郎くん、ちょっとびっくりしただけなんだ!」
慌てて頭を下げる比呂志さん。
比呂志さんも菜穂子さんも、初対面の印象と全然違う。厳格な紳士かと思っていた比呂志さんは娘を溺愛する子煩悩お父さんで、上品でにこやかな美人だと思った菜穂子さんは恐怖政治を敷く一家の女王様だ。
「……にーさま、変な家族で、ごめん」
麻美が両親たちに呆れたような視線を送りながら言った。
「いや、賑やかで楽しいよ……」
無難な返答をしておく。
それよりも俺は、麻美が「にーさま」と呼ぶのをやめないでくれたことがなんだか嬉しかった。
-†-
その後の会食は、穏やかな雰囲気で進んだ。
比呂志さんの俺に対する刺々しさは変わらなかったが、初ヶ谷の駅前の時よりはずっとその態度にも親しみが持てた。優が言っていた通り、別に俺自身を嫌ったり憎んだりしているわけじゃなく、単に麻美に近づく男に対して心穏やかでいられないらしい。
出された料理は豪勢なフレンチで、先日渚のお父さん――隆史さんにごちそうになった高級レストランの料理にも劣らない味だった。聞けば寿さんとは別のもう一人の家政婦さんが料理人を兼ねていて、麻美の料理の腕前もその人に教わったそうだ。
その流れで麻美の料理の腕を褒めると、またも比呂志さんが「きみは麻美の手料理を食べたことがあるのか!」と激昂したものの、すぐに菜穂子さんに諌められた。
麻美の手料理をいつ食べたのかの説明と一緒に、別荘を貸してもらったことについて礼を述べる。すると押し黙った比呂志さんの代わりに、菜穂子さんが「また使いたいときはいつでも言ってね」と言ってくれた。
菜穂子さんが味方してくれるのは俺にとって大きな安心要素だ。これなら心配していたような、麻美がフェアリズムの活動をしにくくなるようなことは無いだろう。
最初はどうなることか恐れていた会食は、平和に幕を閉じる。
――そう思った時だった。
「だ、旦那様っ!」
デザートの支度をすると言って部屋を出て行った寿さんが、叫び声と共に騒々しく駆け込んできた。
表情は強張り、顔色は青ざめている。
「こら寿くん、お客様の前――どうした、何かあったのか?」
不躾を叱ろうとした比呂志さんも、声色が変わる。寿さんのあまりの形相に、ただごとじゃないと感じたようだった。
「そ、それが、電話が――」
寿さんは言い澱む。伝えなければならないことがあるのに、どう伝えればいいのか言葉が出てこない――そんな様子だ。
「電話がどうした、言いなさい!」
比呂志さんに問い詰められ、寿さんは横目で俺の方にチラと視線を送ってきた。
いや、俺だけじゃない。その視線は俺から優、優から麻美に順に注がれ、再び比呂志さんの方に戻る。ほんの短い時間のことだったが、俺がそれに気づき――そして何を意味しているかを察するには十分だった。
家族ではない俺や優を気にかけただけなら、何か家庭内のトラブルだったと思ったかもしれない。しかし寿さんは麻美の方も見た。それはつまり、基準が「身内かどうか」ではなく、「大人かどうか」ということ。寿さんは今起きている何かを子供の前で言ってしまっていいものか、と戸惑ったのだ。
来客の前で取り乱してしまい、そして子供の前で言い澱むような何か。電話。それらの事実と、ついさっき交わしたばかりの会話。そこから俺は、一つの恐ろしい結論を導き出していた。
「まさか――守くんの身に何か?」
「っ!」
俺の問いかけに、寿さんはビクリと体を震わせる。
「なんだと、そうなのか寿くん!」
「は、はい。その――守様を誘拐したという者から電話がありました……」
「なっ――誘拐だと!」
応接間は衝撃に包まれた。比呂志さんは顔色を変えて立ち上がり、菜穂子さんは悲鳴を上げてガクリと項垂れたまま気を失った。麻美は愕然と目を見開き、優までもが険しい表情だ。楽しい会食の場は、一転して物々しい空気に塗り潰されていく。
「そ、それで犯人の要求は?」
「はい……警察に絶対に通報しないことと、身代金三億円の支払いだそうです。旦那様に代わると伝えたところ、三十分後にかけ直すと言って切られてしまいました」
「三億円……!?」
比呂志さんの表情が険しく歪む。子煩悩な比呂志さんのことだ、金額を惜しんでいるというより、どうやってその金額を捻出するかを思案し始めたのだろう。
しかし、三億円か……。その辺りから、犯人ないし犯人グループの人物像が多少なりとも浮かび上がる。
「あの、警察には――」
「そ、そうだ警察……しかし――」
寿さんの問いに、比呂志さんも困惑する。
今すぐにでも事件を解決し、守を救い出したいという気持ちと、警察に知らせることで犯人を刺激して守の身に万一の危害が及ぶことを恐れる気持ち――その葛藤だろう。
「やめた方がいいでしょう」
狼狽える比呂志さんに代わって口を挟んだのは俺だ。
「小説やドラマではしょっちゅう起きている印象のある営利誘拐ですが、実際のところ日本ではここ数十年ほとんど起きていないんです。外国と比べて治安が良いというのもひとつの理由でしょうけれど、それ以上に――日本では営利誘拐が割に合わないからです」
それこそゲームや小説から得た知識だったが、しかし間違ってはいないはずだ。
本当はもう一つ考えられる理由があるのだが、それは今は言うべきことじゃない。
「犯人は割に合わない営利誘拐をするほど後先を考えない人間、または後先を考えられないほど異常な精神状態に陥っているのでしょう。あるいは営利誘拐と見せかけながら、実際は何かの怨恨で動いている可能性もあります。いずれにせよ、刺激するのは危険です」
俺の言葉に、比呂志さんはこくこくと頷く。
「両太郎くんの言う通りだ、警察には知らせないでくれ。私は身代金の用意を始める。もし次に電話が来たらすぐにかわってくれ……」
寿さんに指示を出し、比呂志さんは慌てて部屋を出て行く。身代金の用意をするため、銀行や知人に連絡を入れに行ったのだろう。
しかしいくら大金持ちの金元家と言えど、三億もの現金をそうすぐに用意できるとは思えない。資産は有価証券や固定資産の形になっているものが多いだろうし、たとえ預金があったとしても億を超える額をすぐに引き出すことは難しい。銀行の側だってそれだけの現金を用意するには時間を要するだろうし、一度に多額の現金をまとめて引き出す場合、事件性を考慮して警察に通報されてしまう可能性も高い。
犯人からの二回目の電話まで、あと二十五分といったところだろうか。恐らくその時間では三億円丸々は集まらないはずだ。
「ああ、まさかこんな……」
寿さんは両手で顔を覆い、壁にもたれる。何事にも動じないプロフェッショナルの家政婦さんといえど、この事態には平静でいられるわけもない。ましてや犯人からの電話を直接受けたのだ、恐怖だけではなく、責任感のようなものも感じているはずだ。
「……にーさま」
部屋の入り口でへたり込む寿さんを心配していると、不意に後ろから呼ばれた。
振り向くと、麻美は眉を顰めながら、しかし真剣な目で俺を見つめていた。
「……にーさま、お願い。……力を貸して」
「力? そりゃあ俺だってこの状況で解決のために役立てるなら何だってする。でも――」
「……作戦、考えて。……守を、助けないと」
麻美はテーブルの上に乗せた拳にグッと力を込める。
「……守は、薬を飲まなきゃいけないから、長引くと危険なの。……にーさま、お願い、守を助けて……!」
「リョウくん、ぼくからもお願い!」
振り絞るように強い口調で言う麻美に、優も賛同する。
そりゃあ二人の気持ちは俺にだってよく分かる。もし桃が誘拐されたりしたら、俺だって落ち着いてなんていられるはずがない。
しかしどんなに心情の上で守を助けたいと思っても、現実は気持ちだけじゃひっくり返せない。普通の中高生である俺たちには、誘拐犯をどうにかすることなんて――。
いや、待てよ。
誰が普通の中高生だって?
ハッとして、俺は麻美と優の顔を交互に見る。
「二人とも……そのつもりなんだな?」
俺の問いに、二人は黙って頷く。
なるほど、だったら話は別だ。
守が免疫抑制剤を飲まなければ命に関わるという点まで加味すれば、恐らく警察に言うよりも、そして身代金を馬鹿正直に用意するよりも、俺達が動くことが一番の安全策なのだ。
「わかった……守くんは俺たちの手で必ず助け出そう!」
俺の言葉に、二人は力強く頷いた。
寿さんだけは、そんな俺たちを心配そうな顔で眺めていた。
-†-
「……とーさま、お願い。……にーさまを信じて」
眉間に皺を寄せる比呂志さんに、麻美が勢い良く頭を下げる。
あれから二十分、そろそろ犯人からの二度目の電話がかかってくるというタイミングで、比呂志さんは応接間に戻ってきた。
その間に比呂志さんが用意出来たのは一億円。それさえもまだ現金としてこの場にあるわけではなく、運転手の高垣さんが比呂志さんの命を受けて銀行を行脚しに行っている状況だ。
そんな中で俺たちが比呂志さんに頼んだのは、次の犯人からの電話の際に、途中で俺に代わってもらうことだった。
最初は取り合おうとしなかった比呂志さんだが、麻美が懸命に説得を試みている。
「比呂志おじさん、お願い! リョウくんなら絶対に守を助けてくれるから!」
優も比呂志さんに頭を下げる。
娘とその友人の懸命な姿に、比呂志さんは眉を顰めて俺の方を向いた。
「両太郎くん。二人はこう言っているが、これは遊びじゃない。私の大切な息子の命がかかっている事件だ。きみは絶対に解決するという自信があるのかね……?」
比呂志さんの口調は厳しかった。当たり前の話だ。こんな得体の知れない馬の骨の言うことを真に受けて、守にもしものことがあったら――誰だってそう考えて当然だ。
でも。
「――俺は科学者の息子のせいか、『絶対』なんて言葉はあまり好きじゃありません。その言葉はそうであるという事実だけじゃなく、そうあって欲しいという願望を多分に含むからです。だから俺は絶対なんて軽々しく言うべきじゃないと思いますし、事件を解決する自信も全然ありません」
そこまで言うと、比呂志さんはふうっと溜息を付いた。
俺が無茶を諦めたと思ったのか、あるいは俺の言葉に失望したのか。
だが、俺の言いたいことはまだ言い切っちゃいない。
「――でも、麻美と優が俺ならできると信じてくれている。俺一人じゃ自信が持てなくても、麻美と優と力を合わせれば何だってできます。絶対にできます。――二人の信頼には絶対に応えてみせます。だから、俺に犯人と交渉させてください!」
途中で比呂志さんが何か言いかけたのを遮って、一気に言い切る。
すると麻美と優の二人は俺の左右に立ち、それぞれが俺の右手と左手を握りしめた。三人で手を繋いで並び、まっすぐ比呂志さんと向き合う状態だ。
比呂志さんは一際眉を顰め、それから静かに言った。
「……『絶対』などという言葉を信じない。それはビジネスにおいても大切なことだ。だが、それだけでは単なる人間不信。いつまでも前に進むことができない。だから我々経営者は、時には信じなければならない。不確かなものを『絶対』に変えようとする――人間の強い意志を」
その言葉に、俺の両手を握る二つの手にぎゅっと力が込められた。
「私の一番下の弟――麻美の叔父はまだ二十歳そこそこだ。電話口ではきみをその弟ということにすれば、声色で疑われることもないだろう」
「それじゃあ――?」
「ああ。息子のために、娘とその親友が信じるきみの力を貸してくれ。この通りだ」
比呂志さんは俺に向かって深々と頭を下げる。
そんな、よしてください――そう言おうとした、その時だった。
『――――!』
部屋に運び込まれていた電話機が、この場に似つかわしくない優雅な着信音を響かせた。
ベートーヴェンのイ短調、WoO.59――エリーゼのために。
美しくも妖しいその音色が、場にみなぎった緊張感を不安へと変えていく。
だがそれを振り払うように、比呂志さんは力強く受話器をとった。
「もしもし、金元だが――?」
慎重に探るような声で比呂志さんが応答する。同時に電話はスピーカーモードへと切り替えられた。
「金元比呂志か。さっき家政婦にも伝えた通り、お前の息子を預かった」
親機を通じて、犯人のドスの利いた声が部屋に響く。
それから犯人は寿さんから聞いていた通り、警察に通報しないことと三億円の身代金を要求してきた。
比呂志さんはその両方に応じる意志を伝え、現在一億円までの身代金が用意出来たことを告げた。
「頼む、息子を無事に返してくれ。身代金は引き続きなんとしても用意する……。私の弟に代わる。他に何かあれば弟に伝えてくれ……」
一億円ならばすぐに渡せると言う比呂志さんと、頑なに三億円の身代金を続ける犯人――会話が平行線を迎えたところで、俺の出番が回ってきた。
比呂志さんから受話器を受け取る。比呂志さんは黙ったまま頷いてくれた。後は俺に任せる、そういう意味だろう。
「もしもし、電話を代わった」
「あぁ? ……まさかお前、警察じゃないだろうな?」
「兄貴は警察には何も言っていないよ、信じてくれ。あんたたちは金元家の家族構成や資産状況をきちんと調べているはずだ。だったら俺の存在だって調査済みなんだろう?」
「……ふん、そういや大学を出たばかりのが一人いるんだったか」
まずは交渉の土台作りだ。ハッタリを多分に混じえ、犯人のプライドを刺激しながら自分を比呂志さんの弟だと信じさせていく。
俺は比呂志さんの弟、比呂志さんの弟――そう繰り返し自分に言い聞かせながら。
ついでに「あんたたち」という言葉をさりげなく入れてみたが、犯人からはそこに対して何の反応も無かった。ここから犯人は単独ではなく、グループであることが見て取れる。
「守は無事なんだろうな?」
「無事だ。だがこの先どうなるかはお前たちの行動次第だ」
「兄貴は身代金を必死に用意している。しかし三億という金額は銀行だってそんなにすぐに用意できない。その点だけは理解してくれ」
「そんなことを言って時間稼ぎをするつもりじゃないのか?」
「違う! ……俺たちは守さえ無事に返してもらえるならそれでいいんだ。三億どころか五億だろうと用意してみせる。でも、銀行に無理をさせればそこから警察に通報されてしまう……お互いそれだけは避けなければならない」
「ふむ……まあそうだな」
五億という要求以上の金額をチラつかせて様子を伺う。すると電話口の男は態度を軟化させた。犯人グループの狙いは怨恨を晴らすことではなく、どうやら本当に身代金を受け取ることらしい。
この日本では割に合うはずのない営利誘拐。それを本気でやってのけるような連中は、よほど考えが浅いか、精神的に追い詰められているかのどちらかだ。放っておけば何をしでかすかわからない。確かにこの事件は急いで解決する必要があるようだ。
少々釘を刺しておく必要もあるだろう。
「なあ、守は本当に無事なんだろうな?」
「あぁ? 無事だっつってんだろ、疑う気か?」
「いや、そんなことはない……なにより俺たちはあんたたちを信じるしかないんだ」
「ああ、よくわかってるじゃねえか」
「それに俺は、あんたたちだって守にそうそう危害を加えないと思っている」
「……あ?」
お前、俺たちを甘く見ているのか?
そんなニュアンスを含んで、電話口の男の声色が変化する。だが、これは俺の揺さぶりだ。
「日本では営利誘拐はここ十数年ほとんど起きていない。これは日本が治安がいいからだとか、営利誘拐は割に合わないからだとか言われてるけど、本当は違う。警察もマスコミも知らないところで、誘拐が成功しているからだ」
「……何が言いたい」
「俺たちは人質の安全を第一に願ってるし、金なら用意する。しかし人質に万一のことがあれば、たとえ身代金を手に入れたところで警察やマスコミが事件に絡んでくることは避けられない。そうなったら俺たちが悲しい目に遭うだけじゃなく、あんたたちだって危険に晒される。そんな展開はお互いに避けなければならない。おかしな話だが、俺たちとあんたたちは今、警察やマスコミに嗅ぎつけられる前にこの誘拐事件をともに成功させたい――そう願う協力者同士なんだ」
「………………」
「だから俺たちはあんたたちを信じるし、あんたたちもどうか俺たちを信じて、人質を優しく扱って欲しい」
「……わかった、ガキは丁重に扱おう」
電話口の男は、慎重に考えながら話すように、ゆっくりと同意してくれた。
まずは第一関門突破だ。
部屋の中のみんなに視線を送ると、比呂志さんと寿さんはポカンと俺の方を見つめていた。一方、優と麻美は俺と目が合うなり力強く頷く。
さあ、いよいよ第二関門――本番だ。
「それで、俺たちの要求通り三億――いや五億を用意できるのはいつ頃になりそうだ?」
「悪いがそれはまだ確約できない。今目処が立っているのは一億だけだ。全額を用意するのはもう少し待って欲しい」
電話口の男はいつの間にか要求額を当初の三億から、俺が口にした五億に釣り上げていた。
連中が金に対してよほど差し迫った状況であることは想像に難くない。そして、それこそが俺の狙いの確度を高めてくれる重要なファクターだ。
「だが、こちらとしてもなるべく早く金は用意するつもりだ。知っているかもしれないが、守は以前に心臓手術を受けた関係で、薬を飲み続けなければならないんだ。解放が長引けば長引くほど守の命は危険に晒される……」
「ふん、それがわかってるなら精々急ぐことだな」
同情を誘うような言い方をしたつもりだが、電話口の男の口調には変化がない。恐らく犯人グループは、守の薬のことまで調べあげた上で誘拐したのだろう。でも、それは俺だって覚悟の上だ。
「そこで一つ提案がある」
「……何だ?」
「まずは用意出来た一億をあんたたちに渡す。その時に一緒に薬も渡すから、それを守に飲ませてやってくれないか?」
俺の提案に、相手はしばらく押し黙る。もしかすると電話の向こうで、他の仲間と相談をしているのかもしれない。
数十秒の間が空き、ようやく相手は返答を口にした。
「……駄目だ。金の受け渡しに見せかけて捕まえるつもりだろう」
「そんなことはしない。あんたは一人じゃないんだろう? 受け渡しに現れた人を捕まえて、それで残った人が報復に守を傷つけたんじゃ意味が無い。さっきも言ったが、俺たちは守に無事に帰ってきて欲しいだけなんだ。なんなら金と薬の受け渡しは大人じゃなく、中学生の姪に――麻美にさせてもいい。それならあんたたちだって安全だろう」
いよいよ切り札を、そしてこの作戦の最大の手札を切る。
犯人たちが金元家のことを調べていたのは分かっている。となれば、守に中学生の姉がいることだって知っているはずだ。その姉が小柄で儚げな外見をしていることも。
「――なっ、何を言い出すんだ!」
比呂志さんが慌てて俺から受話器を奪い取ろうとする。だがそれを麻美と優が咄嗟に阻む。
「兄貴は黙って身代金を用意しててくれ! 今は守の安全が第一だろう!」
敢えて受話器に拾われるように俺も叫ぶ。比呂志さんには申し訳ないが、せっかくのアクシデントを芝居に使わせてもらった。俺たちはいかにも切羽詰まっている――そう犯人側に思わせる必要があるからだ。
「――すまない、こちらでも兄が少し取り乱してしまった。だが兄は俺が説得する。先ほどの提案を受けてはくれないか? 一億円ならばあと二十分くらいで用意できるはずだ」
もう一度頼み込む。正直言って、十中八九乗ってくるという確信があった。
犯人は人質という絶対的な優位性を持っていると同時に、金に困っているという事情も抱えている。
一億円だけでもひとまず受け取っておけば、万一状況が悪化した際にも実入りを得られる可能性が高まることになる。優位性を維持したまま、実入りは増える――そんな提案に犯人が乗らないはずが無かった。
もう一つ、俺の張った罠――それは受け渡し役が麻美だということだ。恐らく犯人はここに食いつくはずだ。
「……いいだろう。受け渡しは三十分後、受け渡し場所は直前に伝える。一億円と薬を持たせて、必ず娘一人だけで来い」
果たして犯人は、俺の狙い通りに提案を受け入れたのだった。




